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「暗夜行路」解読5・「夜這いルートで考えた」【志賀直哉】
前回の記事はこちら。
謙作の母を含む多くの女性が「水の女」でした。控えめに書いていますが、簡単に言えば淫蕩ということです。全員股がゆるすぎます。謙作の母は祖父にレイプされたのでしょうか。違うと思います。直子と要はレイプでしょうか。違うと思います。亭主が旅行で家を空けるとすぐそうなっちゃいます。時任一家の男性はたしかに女好きです。しかし謙作の苦しみの大部分は、女性の倫理観の欠落にあります。志賀直哉は抑制した筆致で、日本の事実を告発しているのです。日本はワルプルギスの山であると。だから竹さん女房は数人の男性と関係を持ち続けるのです。ワルプルギス中のワルプルギスが大山だったのです。
「暗夜行路」完結の翌年の昭和13年、「津山事件」が発生します。
岡山県の津山市で起こった事件ですが、詳細はWikiご参照いただくとして、大きな原因は「夜這い制」です。犯人の都井睦雄は結核になったので夜這いを拒否られるようになった、それに腹を立てて部落を皆殺しにしたという事件です。この時点まで、田舎では夜這いが普通だったのです。
性的なモラルは私有財産の有無によって決まります。山間部の集落ではそれらしきものは田畑しかありませんが、その田畑でさえ私有権確立がゆるかった、あるいはほぼ公有だったようです。今年は誰がどこの土地を耕すか、村人同士で話し合いながら適当に調整していたようです。私有財産がほぼ無い状況では、相続問題が発生しません。相続がないと、女性の貞操が問題になりません。自分の財産だから自分の子に相続させようとするのであって、相続する財産がないと誰が誰の子でもどうでもよいのです。一番ひどい例だと、幕末時点で「結婚という制度」そのものが無かった集落の話見たことあります。代官が説教して夫婦なる概念を導入させたようです。それより近代的に進歩した「とりあえず結婚制度は存在する、しかし拘束は非常にゆるい」というレベルの集落ならば、昭和初期ならゴロゴロありました。それで津山事件が発生する。
しかしながら、ゲーテの「ファウスト」にしろ「若きウェルテルの悩み」にしろ、恋愛小説はそこんところがゆるいと成立しない。緊張感がないからドラマにならないのです。出会いの一瞬はネタになりますが、その後長編を組み立てることはできない。「グレートヒェンは子供を生んだが、それがファウストの子である可能性は20%程度」とかでは感動の悲劇は無理です。しかし文学者は西洋文明に張り合う小説を書きたいわけです、西洋文明の克服が仕事ですから。「ファウスト」を下敷きにしたのは、好みというより当時の文学者のノルマのようなものです。
それで書かれた「暗夜行路」を簡略にまとめるとこうなります。
母の不倫と妻の不倫の間に、女性への同情が挟まれています。どうやったって拘束ゆるい社会だから、少々乱倫でもそこはもう仕方がない。あとはどうやって男性が心に折り合いつけて女性を許すかだけである、という話です。だから「暗夜行路」というタイトルなのです。身も蓋もなく言い換えれば、「夜這いルートで考えた」となります。夜這いルートは暗夜の行路になるに決まっています。
母も不倫、妻も不倫、女は全部不倫、でも仕方がないんだ、この国は女性の国なんだ、女性に従うしか無いんだ、だから火の女神が登場し、最終的に謙作はアマテラスの元でスサノオになってヤマタノオロチを退治します。竹取族=月族の排斥は、夜道を暗くして夜這い頻度を減らそうとするせめてもの改善策と理解すべきです。抜本的でも本質的でもないのですが。
なんだ、戦士たる男性は主役ではなかったか。単なる女性の手下だったのか。尋常ではない脱力感が男性読者を襲います。
大山での朝の風景の最終段見てみましょう。
「村々の電燈は消え、その代わりに白い煙が所々に見え始めた。しかし麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却って暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上がってくると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のようにたぐられて来た。地をなめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張り切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。」
例によって例のごとく、「或る感動」と書くだけで説明はしていません。自分で考えろと。志賀直哉は「城の崎にて」でヘーゲルの弁証法入れ込んでいますから
ここはおそらくプラトンのイデア論、「洞窟の比喩」の応用と解釈するのがよいでしょう。
ただし動くのは光に照らされたものではなく、光源です。太陽が動きます。
朝日が登るとともに、山(男性)の影は水辺(女性)から陸に上ってきます。夜這いから帰宅するのです。見かけ上男性の稜線は女性から離脱したように見えます。しかし両者の関係は変わっていません。変わったように見えるだけです。そしてそれら見かけ上の変化をもたらす光源もやはり女性、アマテラスです。徹底的に女性中心主義です。ですから諦めろ。諦めて女性を許せということです。
男性陣には残念な結論ですが、私は事務的に読み解いているだけでして、了承頂きたい。これで「暗夜行路」のあらあらの解説は終わりです。
次回解説から漏れたプチネタです。