「銀河鉄道」読み解きの解説
前回の記事はNaverに書いたのを転記しただけである。それだけでは芸がないので追記する。
多くの人と同じように、私も昔は文学研究している学者は作品をよく理解していると思っていたし、学者があんまりはっきり言えていないということは、実際難解で解析不能なのだと、思っていた。
それは間違いだった。文芸作品のうちかなり複雑なものでも、手数さえかければ十分解析して意味を取ることはできるし、学者がそれをしていないのは、単に読もうという意志がないだけだった。
これは、学者に読む能力が無いと言っているわけではない。文学部の先生方なら、おそらく大多数は、私よりは読む能力があるはずである。能力うんぬんではなく、読み解こうという意志がないのである。意志がなくなる根本原因は、わかったようなわからないような、難解な言葉でつづられたいわゆる「文芸批評」というやつにある。小林秀雄に代表される、無駄に言葉をこねくりまわすような文芸批評をしているかぎりにおいて、そもそも難解なものを簡易にまとめるという欲望が消失するはずである。
補助線として経済学を考える。二十年ほど前は経済を考える言葉は、小林秀雄と同じように無駄にこねくり回された不自然な日本語であった。その後ネットで経済クラスタが議論を重ねる内に、言葉はどんどん平易に、表現はどんどん明快になっていった。そのようは言葉に接していてはじめて、経済が理解でき、経済学者の間違いもあるいは素晴らしいところも理解できるようになる。言葉は思考のツールであり、言葉のブラッシュアップは思考のブラッシュアップに必須のものなのである。
しかるに、その言葉を扱う大本である文学方面が、平易で明快な言葉の創出をサボってきた。ここで私は小林を否定しているのではない。嫌いだからさほど読んでいないが、天才的な部分は確かに持っていた。しかし今日の経済クラスタほどには、使いやすい言葉を持っていたなかった。
漱石、賢治、太宰、三島などの日本文学の巨人たちは、なんとか平易な言葉で現代社会を表現できないか苦闘してきた。発信サイドとしてはまずまず最善の仕事をしてくれたのではないだろうか。問題は受信サイドにあった。巨人たちを神棚に上げて拝むことはしても、自分の目線に置いてじっくり向き合うことをしてこなかったのである。
意味が取れようととれまいと、銀河鉄道は美しい物語であることは間違いない。例えば日本に来たアメリカ人研究者が、最も美しい日本文学を求めて宮沢賢治にゆきつく。それはありがたいことである。そして彼いわく、「銀河鉄道は難解な作品ではありません。最後のカンパネルラのお父さんの態度が、この作品の主題です」と。
読めていない。何一つ読めていない。断言しても良いが、かれは確実になにかを感じている。そうでなければ未完成の読みにくい作品について語れるほどの研究をするはずが無いからである。鋭い感受性の持ち主である。でも、読めているか、読めていないかという分類では目も当てられないほど読めていない。
つまり、個人の問題ではないのである。アメリカ人がそうなるということは、おそらくこれは日本の学会の問題ですらなく、世界中の文学研究がそのレベルでとどまっているはずである。そしてその、私に言わせれば話にならんほどローレベルの文学理解をしている研究者は、おそらく私の100倍以上の読書をしてきた人々であり、私とは比較にならない強力な知力と鋭敏な感受性を持ち、簡単に読んだだけでその作品の大体の価値を見積もれる力量があるのである。バカがやっているならば、あるいは怠惰で研究していないならば問題は単純なのだが、知力でも感受性でも私なんかより元々高く、かつ長年激しく鍛え上げてきた人々がそうなのである。
そういう人、たとえば賢治研究家ならば、間違いなく全集を数回読んでいるのである。周辺作家も全集で把握している。へたすると全部のあらすじ覚えている。漱石、太宰、三島の研究者たちもそうだろう。日常的にあんな文章読んでいて、頭が良くならないはずがない。それで「なんにも読めていない」という悪口を私程度の薄めの文学ファンに言われる。なにかが変だと思わないか。
かくいう私のしてきたことで、おそらく読み解きに役に立っていることは、小林のような文芸批評が嫌いで読んでこなかったことだけである。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は何度も読んだ。小林の「ドストエフスキーの生活」は読んでいない。読むべきでないと思ったからではなく、読んだほうがよいと思いながら苦手なので敬遠しただけである。しかし今となっては一生読まないほうがいいと思っている。
加えて、(おそらく頭が少々よろしくないせいで)明快系の文章ばかり読んできた。だから大きく見れば私のやっていることは、複雑な文章を自分にもわかる文章に変換しているだけなのだが、変換の過程で作品の構造や物語としての優れている部分が存分に堪能できる。おそらく作者以外では、ほとんど誰も踏み込めなかったような、そんな広大な世界である。
「銀河鉄道の夜」も内部に広大な世界を持つ作品である。星を描いているからではない。驚異的な構成能力を発揮しているからである。賢治がどうしてこの構成を構想できたのか、正直わからない。法華経あたり研究するとわかるのかもしれないが、まだ出来ていない。
「この構成でこの主題で作品書け」と言われれば、例えば芥川ならはるかに上手に書き上げたはずである。いわゆる秀才という意味では芥川のほうが上である。しかし問題は「なぜ賢治はこの構成を考えついたか」である。彼の他の作品読むと、いつもその豪腕っぷりに驚かされる。構想の段階で、可能か不可能か考えてないようである。実際銀河鉄道は不可能であって完成していない。でも彼は書いた。
このような構成を読み解くのは、知力はさのみ必要ないが、労力は大量に必要になる。言ってみればバカ労働路線である。章立て表を作って、あれやこれやとこねくり回して、こねくりまわしても数年間わからなかったりするのだが、最終的にはある程度読み解ける。興味ある向きは下記リンクお読みいただきたい。
「銀河鉄道」を読み解くカギは、構成と、今ひとつキリスト教がある。ここらへんは例えばクリスチャンの方だと簡単にわかりそうなものだが、実はクリスチャン全てがキリスト教の教養があるわけではない。自分を振り返ってみれば判然とする。ほとんどの家庭は仏教徒のはずである。では仏教についての知識がどの程度あるか。
実は、仏教とはなにか、キリスト教とはないかという問いは、仏教のみ、キリスト教のみの知識ではさほど答えられない。複数の宗教を比較してはじめて答えられる性質のものである。運がよいことに、賢治は実家が熱心な浄土真宗の門徒で、本人はのちに法華経を信仰した。仏教内の二つの宗派をクリアーしたものだから、下手な坊さんよりも仏教がよく分かっている。坊さんは一つの宗派に属するから、どうしても一つの角度から見るが、賢治は複数の角度から仏教を見てガツガツに読み込んだ。その頭でさらにキリスト教を見るとどうなるか。「銀河鉄道の夜」が書けるのである。