物語構成読み解き物語・18
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「ファウスト」が終わって、「坊っちゃん」をやってみて驚いた。どうも「ファウスト」を下敷きにしているようである。漱石すげえ。執筆時、鴎外の翻訳はまだ出ていない。おそらく英訳で読んでいる。内容も少しは理解している。地味に私史上最大級の驚愕だった。カラマーゾフ以来だった。しかし記事としては恐ろしく評判が悪い。ページビューが稼げない。世間様はあんまり歓迎してくださらないようである。反発しているわけでも、馬鹿にしているわけでもなく、単に興味がないようである。
よくよく考えれば、たとえば国文科の人々が「坊っちゃんの下敷きがファウストだ」と聞かされても、驚けないはずである。坊っちゃんは無論よく知っているが、多分ファウストを読んでいない。読んでいても理解できていない。理解できないのは怠慢ではなく、そもそもまともな解説がない。納得できる読み解きを私も読んだことがないからこそ、自分で読み解き作業したのである。そんな状況では「坊っちゃんはそういう意味だったのか!」と驚いてくれる人がそもそも存在しないのである。私史上最大級の驚愕は私史上最大級の空振りに変換された。
文学の読み解きが不十分なままの理由は、この一点に隠されていると思う。日本近代文学は西洋文学の消化と応用のためのものであった。しかし国文学の専門家たちが、実は西洋文学に興味がない。だから日本の作家たちがどのような仕事をしたのか、元ネタ知らないのだから分かるはずがない。よって日本近代文学の専門家が日本文学を読めない。しかしなんやかんや言って日本文学読めなければ外国文学読めるはずがない。母国語なのだから。言ってみれば正倉院の琵琶やら壺やら研究しながら、外国の出土品の写真を見たことない状態である。文化というものは貨幣と同じく、天下に流通するものであって単独では存在しがたい。「八犬伝の研究をしています、水滸伝は読んだこと有りません」というマヌケは流石に居ないだろうが、漱石以降の研究ではそんな人が大量発生する。
以下個人的体験になる。ある結婚式での話である。新婦の父は国文科出身だった。新婦父が新郎父と話していて驚いた。新郎の父も国文科出身だった。
「それで、卒論はなにをされましたか?」
新郎父の答えは、ものすごくマイナーな作家についてだったのだが、固有名詞を私が覚えていない。新婦父はかろうじて名前を知っていた。後で「知っていてよかった」と安堵のため息を漏らしていたそうである。大変ほほえましい話だから覚えている。しかしそういう雰囲気では、難しい作品の読解は無理だろうなあとも思う。他の学部でもそうなのだろうが、国文科も、物知りクイズ競争になっているようである。
なにも知らないよりは、沢山知っていたほうが偉いに決まっている。わかりやすい指標にはなる。でもそれは研究でも考察でも理解でもない。名作といわれる小説が100年後でもまともに読解されていない状況をどう考えるのだろうか。
おそらく漱石崇拝者から見れば、「ファウスト」下敷きにしているという説は、漱石のオリジナリティーを否定しているように感じられて不愉快なのだろうとは思う。それは全く違う。そもそも比較しなければ漱石のオリジナリティーなど判別しようがない。漱石はここで、ファウストと記紀神話をドッキングさせている。アマテラス=スサノオ物語を入れ込んでいるのである。その挑戦はのちに暗夜行路に展開され、斜陽に引き継がれ、となりのトトロや、君の名は。まで流れ込んでいる。志賀も太宰も宮崎も新海も偉いが、その根源には漱石が居る。
アマテラス=スサノオ物語は、当たり前だが女性が姉で最高神である。「日本文化」なるものの本質はここにあり、それを漱石は近代文学発祥の時点で捉えた。以降その認識は継続している。
やはり漱石は偉かった。後半のネチャネチャした作品群は私は苦手で読めないのだが、ともかくも素手で西洋文明に挑戦する気持ちがある。原本が不完全にしか理解できなくとも、「書きながら消化できるわい」と考えたのであろう、体当たりで挑んで、西洋と日本をドッキングした国民的作品を書き上げた。国民も国民でたいしたもので、背景に大きいものがあるとどこか直感で感じたのであろう、作品を今日まで読みついでいる。