「仮面の告白」詳細解説【三島由紀夫】
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鏡像構造
全体は前後対称の鏡像構造になっています。
近江物語と園子物語に挟まれた折り返し部分、かなり凝ってきれいな対称つくっています。
またいとこの澄子は隣に座っていたら眠くなったようで、顔を手で覆って主人公の膝に頭を乗せます。薄い暗示ですがこれは、ここで一旦「私」の中の女性性が死ぬことを意味します。神性が死ぬと言ってもよいです。三島のこういう書き方は、やや繊細すぎて迫力に欠けます。
それとセットになる、バスで見かけた貧血の令嬢は、貧血は主人公の属性ですから、主人公の中から新たに出現した女性と解釈すべきです。死んだ女性が再生したのですが、反っ歯で快活な澄子から、元気のない貧血女性になります。無論ネガティブな変化です。折り返しでネガティブを設定しています。園子との恋愛のゆくすえを暗示しています。
第四章で主人公は戦後駄菓子屋の息子に連れられて筆おろしを体験しようとしますが、不能につき失敗します。駄菓子屋の息子は、第一章のいとこの杉子に対応します。ブリを杉子宅で初体験します。食べるだけならできますねそれは。この対称も繊細というか遠すぎてあまり有効ではありません。
ちなみに親戚の女性の登場は、いとこの杉子(ブリ食べる、戦争ごっこ)→またいとこの澄子(主人公が膝枕)→遠い血縁の千枝子(初めてのキス)、徐々に血縁が遠くなってゆきます。犠牲たちが徐々に動きが大きくなってゆくのに対応しています。
筆おろし未遂の売春婦は、幼少時代いじめた女中に対応します。どうもこの時点の三島は対句のメカニズムは理解しているのですが、実践は腕力が足らずに有効になっていません。若書きの作品ですから、そこはご愛嬌です。
幼年時代神輿が家に乱入するシーンがありますが、原爆投下、終戦に対応しています。神輿のシーンは公平に言って上手です。
童話
幼少時代に4つの童話が好きでした。全て全編を示唆する内容になっています。
アンデルセン「バラの妖精」:バラにキスしている若者の首が切られる話です。キスはのちに、未亡人千枝子と、草間園子と、売春婦とで実行されます。
ワイルド「漁夫と人魚」:人魚が好きになった漁夫が、魂があると人魚と一緒になれないから、魔女に頼んで魂を分離してもらいます。分離された魂は放浪してしたい放題悪行重ねます。しかし最後には魂を再度収納できます。人魚=水妖=草間園子ですね。
アンデルセン「夜鶯(ナイチンゲール)」:日本皇帝から中国皇帝へ、ナイチンゲールをめぐってやりとりあります。天皇を暗示するために置かれていると思われます。
ハンガリーの童話:これのみ探し当てられませんでした。タイトルもわからないので素人には発掘難しい。王子が冒険し、妹を助け、妖精の姫と結婚する物語です。「仮面の告白」では、妹は死に、水妖の姫・草間園子とは結婚できません。
ほか作中作品としては、「マルセル・プルゥストの本」が出てきます。売春宿の後、駄菓子屋の息子との会話です。おそらく本作の読解には重要になる作品です。しかし私が「失われた時を求めて」を読んでいないので解説できません。やらなきゃいけないんですが、なにぶん膨大なので尻込みしています。
糞尿汲取人
幼少期主人公は、糞尿汲取人、ジャンヌダルク、兵隊、松旭斎天勝(女性マジシャン)、クレオパトラが好きになりますが、うちジャンヌダルクだけは中身が女性と知って冷めます。ラストで若者4人に眼を注ぎますが、おとこおんなの主人公がジャンヌダルク、ほかそれぞれ該当させたかったのだと思います。あんまりうまく対応させれていませんが。
糞尿汲取人を登場させたのはおそらく、賤民と天皇の強い結びつきを表現したかったのだと類推されますが、いかんせん不発です。構想はでかく、表現は全編少々つたないです。でも野心作ではあります。三島は漱石や太宰が持っている、最後の一線を突破する無茶な捨て身の攻撃は出来ない人ですが、そのかわり意欲と努力を常に失わない人ですね。
実は四章構成
出版では四章に分割されています。中心部分は第三章三節と第三章四節の間に来ます。つまり、きれいに整合していません。
だいたい本文には節は書いていません。空白部分で節を区切って、三つ星印も節に勘定すると、こういう表になります。
なんで章の中心と内容の中心がズレるのかは、よく分かっていません。しかしこの四章見ていると、最後の作品「豊饒の海」に対応しているのに気づきます。
「仮面の告白」は、冒頭の水と光が最後に回帰します。時間はループして冒頭に戻ります。「豊饒の海」も聡子が最後に登場し、時間はループし、本多は黒い犬の死骸となって、聡子と前代の門跡に葬られます。作家生活の最初にループ物語を書いた作家が、最後にそれと同じ構成のループ物語を書くのです。ループ物語がループするのです。書いていて不思議な気分になります。私がこの文章を書くのは、本当に初めてなのでしょうか? 思い出せないだけで、昔、全く同じ文章書いたことがあるのではないでしょうか?
三島と手塚
前回使用した画像は「ガラスの仮面」ですが、今回使用したのは手塚治の「火の鳥・異形篇」です。あらすじ解説する量の作品ではないので、wikiでご確認ください。名作です。
「仮面の告白」がお好きなら是非一度お読みいただきたいのですが、非常に似通った作品です。主人公は男装の麗人、罪を犯してループ空間に閉じ込められて、そこで永遠に救済活動を余儀なくされます。
時間のループ、おとこおんな、全く共通しています。
三島は手塚より3歳年上です(大正14年、1925年生まれ)。大正生まれですが、大正15年=昭和元年ですから(元号は最初と最後はダブります)ようするにほぼほぼ、昭和ヒトケタキャラなのです。
昭和ヒトケタと言われても若い人には実感ないでしょうが、昭和元年から9年までの間に生まれた人達は、とにかく仕事となると前のめりに、自分の全てを投入してしまうのです。昭和10年以降に生まれた人間がドン引いてしまうほどそれほど、仕事への没入が凄かった。今の若い人はIT化で頭が良くなっているから、中年以上は無駄に肉体ばかり動かす半分動物に見えるでしょうが、そんな我々でさえ気が遠くなるような、狂気の勤労意欲を持っていたのが昭和ヒトケタです。手塚治虫(昭和3年、1928年生まれ)は典型ですね。ガンとわかっていて、病床の中で「仕事をさせてくれ」と周りに懇願してペンを握り続けた。当然死ぬ。本人それで死んで本望なのです。連中は何のために仕事をしていたか。はっきり死ぬために仕事をしていたのです。狂気ですね、今から考えれば。
宮崎駿の「カリオストロの城」にも「昭和ヒトケタ」という言葉が出てきます。銭形が昭和ヒトケタという設定で、その過剰な仕事熱心ぶりをルパンが揶揄するのです。
あの宮崎駿(昭和16年、1941年生まれ)から見てさえ、過剰な仕事熱心と思えるのですから、「昭和ヒトケタ」の恐ろしさはご納得いただけるかと思います。そして「昭和ヒトケタ」である三島と手塚はセットで考えるべき存在です。「三島手塚」は狂気の仕事熱心さで、努力の果てに恐らく自己を滅却したいと考えていた。あしたのジョーのごとく、全力を尽くして真っ白な灰になりたいと思っていた。
「三島手塚」は、ループ時間、男女問題、社会問題の扱いなど、多くの点で共通し、ただ生命本質の探求という意味で若干手塚が深く、日本および天皇への思索という意味で若干三島が深かった。両者は背中合わせです。両方共、両方を参照しながら考えるのが正しい理解なのかもしれません。
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