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物語構成読み解き物語・17

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「ファウスト」を下敷きにしていることは前からなんとなく見当ついていたので、ドストエフスキーの「悪霊」をやった。亀山郁夫の解説書が出ている。内容は素晴らしい。ドストエフスキーという作家がそうさせるのだろうが、英米系よりも国文よりも、私にはロシア文学系の研究が一番優れているように思える。ただし、亀山さんは「ファウスト」が下敷になっていることに気づいてはいるが、「ファウスト」の内容を読めていない。それでは「悪霊」は理解できない。例えばニコライとリザヴェータの時間問答のところは意味をつかめていない。

とはいえ超一流と言っていいほどの研究で、もちろん私と違ってロシア語ができるわけだから、大変尊敬している。しているが読めてはいない。自分が亀山郁夫より優秀と言うつもりは全くない。私程度に「ファウスト」を理解すれば、私の百倍「悪霊」が読める人である。これはかなり奇っ怪な感触なので、お伝えするのが難しい。尊敬しながら否定しなきゃいかん。「悪霊」の記事は自分でもかなり書けたほうだと思うのだが、亀山本が優れていたからというのが大きい。感謝もするわけである。

他、亀山氏には「ドストエフスキー『悪霊』の衝撃」という本がある。ロシア人ドストエフスキー研究家、「悪霊」に関しては世界的権威という人との共著である。

確かに衝撃である。くだんのロシア人どう見ても内容全然読めていない。本場でもそんなもんなのである。以降私はドイツ人のゲーテ読解も、イギリス人のシェイクスピア読解も信用しなくなった。今日の国際的になった学会の状況から鑑みるに、ただ日本人文学研究者のみが作品内容に興味を持てていない、ということはまずありえない。日本人研究家よりもそれ以外の研究家のほうが数が多いのだから、日本人文学研究家の読解態度は、世界の縮図であるはずである。ようするに、日本人の先生方を非難しても始まらないのである。そしてだいたい世界標準の仕事の仕方をしている場合、むしろ日本人が一番真面目でマシになる。世界はそれ以下だと思ったほうが話が早い。
加えて、我々は漢字かなまじり文という、マスターには少々手こずるが、読むのには大変適した表記法を持っている。同じくらいの脳みそパワーならば、こういう表にした場合の理解は全然日本人のほうが早くなるはずである。

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つまり、良い翻訳が準備されているならば、「日本人だからドストエフスキーの理解が難しい」と思う必要は全くない。日本人だからむしろどんな国の文芸作品も、母国の人より理解しやすい。

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「悪霊」に関して言えば、「メフィストフェレス=ワルワーラ夫人=ニコライ」と、「ファウスト=ステパン氏=ピョートル」のキャラ戦略を把握できると8割がた理解できる。天才ならば一読してそのポイントを把握できるのだろうが、そんな天才は見たことがない。江川だろうが亀山だろうがはっきり無理である。登場人物一覧表を作れば、ドストエフスキー作品を半分も読んでいない私でも、あっさり把握できる。評論大量に読んで勉強されている方には馬鹿馬鹿しい話だと思うが、実際そうなので仕方がない。評論を書く人間が表を作っていないので、実は評論かけるほど読めていない。それをいくら読んでも時間の無駄である。

このようなキャラ戦略は世界的にも十分には把握できていないはずだ。だからこの点さえ把握して軽く読み進めていただければ、ロシアインテリゲンチャよりも上の理解になる。文学なんぞ所詮はマイナー業界である。残念だがその程度なのである。

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ただ、「ファウスト」にしろ「悪霊」にしろ、「三位一体教義」への理解も必要である。ところがキリスト教の本を読んでも、三位一体教義はなにも説明されていない。説明があっても抽象的な言葉だけでわけがわからない。直接問いただした経験はないが、私の想像ではクリスチャンも三位一体教義を理解していないと思う。というか、そもそも誰も興味がないと思う。私だって仏教徒だが、お経は理解していない。法事の時には理解不能の読経を右から左に流しているだけだ。いずこも同じ光景である。

「三位一体教義」を私が理解した、ないし私が理解したと思い込んでしまったのは、単なる偶然である。ある日仕事で出先に居た。待ち時間があった。なぜか聖書が置いていた。暇つぶしにページめくっていたのだが、「なんちゃらへの手紙」とかはタルくて読めない。使徒信条だけを見ていたら、突然ひらめいた。「これは脳と目と耳だな」と。実際はどうなのか、正直今でもわからない。反論いただきたいのだが、もちろんリアクションはゼロである。神父・牧師の大多数にとって、全く興味が沸かない話題なのであろう。彼らの本音を類推すると、「実は教義はどうでもええねん。上が決めたんで従っとるだけ。とにかくイエス様が好きなだけ。今いらっしゃったらすべてを捨ててもついてゆく」くらいではないか。つまり、やはり教義よりもキャラが人間を動かす力になるのだろう。

物語は、ストーリーだのプロットだの語りだの色々分析されているが、私は究極的にはキャラ描写に尽きると思っている。最低限の物語を考えると「太郎は歩いた、太郎はコケた」、名詞が一つに動詞が二つになる。動詞のほうが数が多い。つまり主役は名詞である。動詞は装飾である。つまり物語とは、特定の名詞、特定の人物を描くことが目的である。というとこまで考えたのだが、この物語論はその後発展していない。

しかしともかく、三位一体教義が自分なりに確定できたからこそ、「ファウスト」「悪霊」「銀河鉄道」「斜陽」がなんとかなった。


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