★★★★愛と超作
神の真似をして生きる
本山博著
【久しぶりにじんわりと感動した素晴らしい本であった。初めは図書館で借りたのだが、借りる本ではなく、手元に残したい本だと思いすぐに購入した。
本山さんの本を最初に購入したのは別の本で
あまりにも難しくて分からなかった。
ので、本山博さんの本🟰難しい と思い他の本も読んだ事がなかったが、この本を最初に読む機会があったり、せめて5年前に読んでいたかったが、今読む必要があるからこうなったのだろう。
超作を毎日の習慣にしよう。
※超作とは
行為をするときに、結果だけが基準になってするのではなく、結果を求めている自分を忘れてしまう程に夢中になる。それと行為の動機がその行為に生じたものが人の役に立つようにということ、それを念じると言うことです。
人の役に立つものを作る、あるいは行動をするということ。つまり『愛』がひとつの基盤になっている。
それから目指しているものが完全にできるようにするには知恵が要る。
愛とか知恵というものが超作の根底にあるのです。
そして人を助ける、ひとの役に立つと言う事がひとつの目標になって行為する時には、そこに自ずから社会性というのができてくると思うのです。】
🔴互いに超作をして仲良く出来ない理由は、この感情のコントロールが出来ないことにあると思うのです。
⚫︎個人の深いところでもっている恨みとか感情の痛手とかというものが、結局は人間を滅ぼすことになるのだから、それを超えていく事が人間の使命ではないのだろうか。
とニーチェが語っている。
色んなカルマを作る1番大きな原因は感情のもつれなのです。
特に怒りとか恨みの勘定が自分で自分を縛ることになってしまうわけです。
そういうものを超えていくには霊的成長が必要だと思うのです。
ある感情が起きたら、第三者の立場で見られるように成長する事が大切ですね。
しかしそれが難しいんですね。
🔴そういうのを乗り越えていくには、瞑想が大切ですね。
瞑想していると、小さな自分を離れて見られるようになる。
そのためには、まず、何も思わないような状態になれるように瞑想する事が大事だと思います。
・はじめは呼吸法と周天法だけでもいいですね。
それからどこか一ヶ所に意識を集める練習をしていくといいですね。
瞑想する時にはまず、精神集中を通して何も思わない状態になれればいいのですが、初めは精神集中をしていても、皆あれこれしょっちゅうあれこれ思う。
思ってもいいから、あ、また思ったなと気がついて、そこから離れてまた精神集中をする練習をしているうちに、いつのまにか自分から離れて自由になって、超作ができるようになるのです。
⚫︎超作とは愛の実践のようなものですね。
果を求めないで一生懸命に周囲の人たちやら自分やら皆調和を保って、それぞれが成り立つように考える。
🔴精神集中や瞑想を通して自分の心をコントロール出来るようになったら、自然に、『自分はこんな事を思っていたのだなぁ』と言う相手のこころの動きも静かで澄み渡った水の上に全てが映し出されているように映し出されてわかってくるのです。
相手と話をしたり、何かをする時に、やたらと自分の事ばかり喋りまくるような場合には、相手のこともわからないし、自分の事さえもわかっていないのです。
しかし平らな心でじっと相手に対していると、この人は自分に好意を持っているなぁとか自分を嫌っているなぁと言うふうに何となくわかるでしょう。
🔴人と話をする時に、相手に思いやりをもってじっと一緒にいると、それだけで何となく相手の気持ちがほどけてきて、相手が自然に本音を喋るようになります。
🔴霊的成長は、瞑想とか、すべての人が幸せでありますように、のような自分のご利益だけでないお祈りをすることによって、成長する。
つまり日ごろは神の真似、つまり超作をし、皆が幸せであり思いやりの心を込めて持つ。
これができれば、あとは自然に幸せになったり、あるものは自然に集まってきたり、喧嘩していた人も仲良くなったりする。
それに苦しいことに対して辛抱強くなったり、ゆうきが持てるようになる。
🔴人間が人間を超えたものにな?ためには、神様の真似をするしかないのです。
ヨーガなどで断食とか水行など色々ありますが、超作さえできたら、何も難行などしなくても良いのです。
どの宗教も戒律だの教義などああしなきゃけないこうしなきゃいけないのが多くなります。
それはそれでいいのかもしれませんが、私は神様の真似をするのが信仰の1番だと思います。
🔴本当に悟ったら、人間の中にも動物の中にも神様の力が働いていて皆が生きているのが分かるから、一人一人の人を拝めるようになる。
そういうふうにならないと決して本当の悟りではないのです。
そして仏陀やキリストの真似をすることはないのです。
自分が神様と一つになったところの、その悟った内容を人に話せば良いのです。
人の真似をする必要は全くない。
🔴神様を愛するとは
何が起きても神様の思し召しのままで、何が起きてもいいことも悪いことも喜んでそれを受けいられるというふうに、神様に自分をぜんぶお任せすることができるようになったら、神様のほうに向いている。
すると立ち所に神様のことがわかるようになるかもしれない。
ところが、今自分が困っている、その困っている自分を助けてくださいとお願いするだけではいつまで経っても神様と一つになることは出来ない。
神様の次元へ一旦上がり、そこからまた下がって色々な人を助ける事ができる、そういう神様のような愛行うまず最初は、人間が自分を全て神様におまかせする事ができないと、かみさまのところへはいけないのです。
もし悪い事が起きても今はそれが起きるのが1番いい事だと受け入れられる。
そしてさらに努力でき、つぎに良い事が起きたらそれをありがたい神様から戴けたと感謝できる。
悪いことは戴かなくていい、いいことは戴くというのではいつまでたっても神様と取引をしている自分があるからいつまでたっても神様にはなれないのです。
ですから日常の中で、誰かのためにその相手が成り立っていけるようにお祈りしたり
相手を助けるために行為する事が1番神様に近くのが早いと思います。
🔴🔴🔴🔴🔴p130
行をしている人のなかには案外、自分が神様のところに段々と上がっていけることだけを願って行をする人が多いですね。
そういう場合は自己愛的なものが抜けないままで業をしている場合が多い。実際には、他の人への思いやりがない。
だから魂に広がりがない。
それで成長が非常に遅い場合が多いのです。
✴️ようするに、自分の好みに合った、これなら出来そうだ‼️これなら張り合いがある、生き甲斐がある‼️と思うことで超作をすれば、必ず人の役に立つのです。
1人1人が利己的な思いが強いときには、その人が吐き出す空気でさえ利己的な匂いがして、毒になっているかもしれませね。
毒を出してる人はそういう息を吸い込ませて皆に迷惑をかけてしまう。
✴️自己愛と言うのは非常に困ったものですね。
ヨガで言うプラナヤーマをする時にも、吸う息と共に神様のお力を戴いて、それと、自分の外に備わっている根本的な生命力とを一つにして、綺麗になった力を皆のために外に出してあげると強く念じながら呼吸法をするようにといつも言っています。
そう言うことは思いやりになるのです。
自分のは自分が良くなるたにだけ何かを一生懸命やっていたと言うことに気がつくといいのですが、気がつかないというのは、本当に救い難い。気が付いたと言うのは、それだけでもうすでに小さな自分の殻が破れたということで、そういう意味では、伸びる可能性が大いにあるということなのです。
【もうここはぐうの根も出ません。お恥ずかしいですが、まさに私の事です😂。
性根を入れて頑張らねばダメだと感じました。
行法が1番で行法や瞑想さえ頑張っていればなんとかなると思っていましたが、やはり、世のため人のために愛ある行動をせねばと強く思いました】
🔴相手に接する時は自分の考えを捨てて、相手の気持ちを感じ取らないとだめです。
それが出来ない人は、対人関係がいつまでたっても上手くいかないのです。
🔴仕事と超作
✴️カルマの法則はあるが、同時に人間が努力することによって、いつでもカルマの世界を超えたところにも行けるようにも作って下さったのです。
で、問題はあなたが前生からのおこないの結果、Aと言うかたちで自分自身を作り出したわけですよ。
能力とか身体、体質とか、好みとか全て。
ですから仕事もある程度決まっているわけです。
その仕事を一生懸命にする事が大事なのです。
🔴現在している仕事について超作ができればそれを通してカルマを果たす事ができるし、霊的な成長もできる。
それ以外にはないように思います。
私の自身について言えば、お宮の仕事と言うのは実際にはあんまり性に合わないのです。研究所の仕事もですね。
神様からいただいた仕事にを、皆の役にたつと思って、一生懸命やったのです。
あなたの今の仕事も皆の役に立つように、皆が助かるようにと思って、そう言う方向で超作ができればいいです。
この仕事をしたらいくら月給が入るとか、昇進できたらどうなるかと言うことを目的にいつも皆が動いているようだと、会社なら会社がそれが元で衰えたり潰れたりする。
✴️だから要は、自分の与えられた仕事を、果を求めないで一生懸命にする事が大事ですね。
結果は神様が与えて下さるのだから素直に受け入れて、そしてそらにその仕事の成果がよく上がるように努力をするというふうに、超作をする事が大事だとなのです。
🔴仕事に上下はない。
この世に再生してきた理由というのは、自分がしないといけない仕事を一生懸命にして、それを通して霊的な成長ができるということ、そして自然や人間全体が調和をした状態を作ること、そして神の国が実現できるようにすることだと思います。
だから仕事は、自分に合った仕事ならば何でもいいのですよ。
自分に与えられた仕事で、ああ、これこそは自分の生き甲斐だと思えるもの。
それが自分の仕事なのです。
生き甲斐があると思えないものはできないでしょう。
生き甲斐があると思えることを一生懸命にすればいいのです。
✴️そして、生き甲斐が得られるような仕事は、神様に向いてお祈りしていれば、自然に授かりますからね。
生き甲斐のない仕事は、いくら努力してもやっぱり続かないのですよ。
🔴例えば総理大臣と平の大臣では違うと区別がついてしまいます。
しかし、この大臣がもし超作が本当にできていたら、自然に総理大臣にもなるのですよ。
そういうふうに、今している仕事を一生懸命にしていて超作ができていれば、その仕事の中で自分という存在と言うものにどんどん広がりが出てきて、皆を包めるようになります。
すると、それに相応しい地位と言うものは、自然にやってくるものです。
ですから、地位を求める必要はないのですよ。
要するに自分が成長すれば地位は自然に備わるのです。
🔴🔴🔴🔴🔴生き甲斐は自分で見つけるp77
✴️たとえどんなに苦しい境遇にあっあり、どんな場所に住んだり、行ったりした時でも、自分にとって、これをしたら人生が充実して生き甲斐があると感じられるものを自分で見い出しさえすれば、どんなことでも乗り越えていけるのです。
それなのに、自分と他の人を比べて、自分はもう今こう言う境遇だからできないとか、どこへ行っても何もできない。
今置かれた場所で、その中にあって、自分はこれをやったら本当に生き甲斐があるなあと言うものを自分で見つける事が大切なのです。
✴️人の役に立って、人を助けられるような何かができると言うことは、自分の大きな生きがいになりますね。
それらのうち、どれが自分の生きがいになるか、生きる張り合いになるかは、人によってちがいますが、自分がこれをやっていたら、すればするほど元気が出て、くよくよしなくてすむような何か、自分をゆっくり充足感させてくれるような、満足度させてくれる何かを、自分で見つけなきゃいけないですね。
そう言うものは、どこにでもある。
どういう場所に行っても、必ずあるのです。
あるはずなのです。
✴️だから、それを自分で見つけると言うことは、そんなに難しいことではないのです。
その気にさえなれば、必ずすぐ見つかるのですよ。
そういうものを見つけて、それによって自分も生きられるし、人も助けられるし、人間とか自然とかの本質的、真理のようなものがわかるようなものは、どこにでも転がっているわけです。
ですから、そういうものを見つけて、その中に精一杯入り込んでいって、それが成就できるように一生懸命働きさえすれぼ、そう言う人は、自分がどこら行こうと張り合いがあるし、どう言う境遇に置かれようとも、すぐに、自分で満足できる状態やしごとを見出すことができるのです。
或るいい状態じゃないと何かが出来ないと言うような人は、結局何も出来ない。
どこへ行ったって、そんなにいい状態というのは、世の中にそうそうあるわけではないのです。
だから自分で作らないといけないのです。
🔴しかし、いつの場合でも、人間が進歩できるひとつのコツは、自分のこと好きなことばかりしていないで、自分の嫌いなこともする。
好きなことはだれでもできる。
同時に嫌いなこともする。
そうすると、いつのまにか、嫌いなことが受けいられるような人間に自分が拡がっていくのです。
生きがいのある事とどう時に、嫌いなこともしないと成長しないわけです。
🔴仕事は良い結果を目標にして頑張るが、まずい結果が出ても、その結果については執着しない。それが超作なんです。
ただ全力を尽くすだけで、もし悪い結果が出たとしても、さらに色々最善を尽くす努力はするけれども、どう言う結果が出ても受け入れる。
果を求めずして、と言うことは、結果に堕ちるな、行為に堕ちるなと言うことなのです。
仕事に対して熱意をなくすと言うことではないのです。
『超作というのは、本当に自分の心や身体のありったけの知恵と有給、チカラを絞って、そしてこうなるようにと努力をして、自分の最善を尽くしての上で、結果に執われないことをいうのです。』
🔴結果というのは、自分が努力をして自分が好きな生み出すように皆は思うかもしれないが、本当はそうではないのです。
世の中というのはいろんなものを神様が作られていて、それがお互いの相互作用で成り立っていて、その上で物ができていく。
その一つの働きを自分が担っているにすぎない。
ですから或る結果を得るために最善を尽くしても必ずそれができるとはわからないのです。
けれども最善を尽くさなければ何もできないですね。
最善を尽くした上で神様の方へ向いて、結果に執われないで、神様の真似をするというか、大きな愛で動いている時は、いつの間にか小さな人間を超えている。
小さな人間でいる間は、この世はいろんな物が重なり合って物が動いているのだから、自分の目指したものが必ず実現できるとは限らない。
しかし自分の1人の力だけではとても出来ないようなことでも、自分に執われないで超作をしている時は、非常に大きな広がりを持った自分に自然になれるから、神様のお力を戴いて、モノが出来ていくようにもなるのです。
🔴身体の調子が良いからする。悪いからしないでは本当のものではい。
良くても悪くても一生懸命して、いつでも同じようにできるのが本物なのです。
お祈りも良くても悪くても乗っても乗らなくても一生懸命神様の方に向いていると、神様との繋がりができる。
それは神様の方がしてくださる。
だから気が乗るとか乗らない時でも一生懸命お祈りしさえすれば、必ず神様は聞いてくださるのです。
🔴自分が今できる能力の範囲内で頑張ること。
150とか200位やってみると、105とか、110ならやれると分かってくる。
少しずつ拡がっていくのがわかる。
自分の能力の中で全力を尽くしてやってると発展してくる。
今まで出来なかったようなこともでいるようになってくる。
🔴🔴🔴🔴🔴p244
霊的な成長をする事が何より大切ですが
霊的成長ができるためには、やはりお祈りをすることと、日頃自分の最善を尽くして、自分にとって与えられた、自分にとって最も生きがいだと思う仕事を一生懸命にして、結果を求めない事、つまり超作ができることとの2つが、霊的成長が出来る1番の基本になるように思います。
魂が霊的成長することと、そして自分から自由になれることとそれが大事です。
人のために働けるような、ものをありのままにみて、それを助けることができるような人間に成長できるように、死ぬまで成長を続けることが大事だと思います。
🔴🔴🔴🔴🔴魂の成長と霊的進化のためには、瞑想(行)と超作しかないように思う。
超作は魂が成長するには本当に必要なのです。
『毎日の仕事を一生懸命にして、自分のための良い結果を求めてそれにとらわれるということなく、ただ人のために社会のために尽くす』と言う超作をしないで瞑想ばかりしていても魂の成長は出来ない。
しかし、同時に、瞑想と言うのは、一生懸命に仕事をしながら自分のためだけを思わないような、『我なきわれ』に成長するための、1番近道のように思います。
🔴超作ができて、カルマを段々に超えて、人のために働く、そこにははっきりした信念があり、神様との繋がりで、誰にも頼らないで個人として生きる、だけれどもそれがそのまま皆を生かす力でもある。
そう言う時に、個人としての性格と社会的な性格、そう言うものがその人の中では矛盾なく一つになれる。
そう言う人間が出来たら、必ず世界中は平和になって、人類は共存できると思います。
ジャムスヒーンさんのように海のそばで1人アシュラムをしたいです。そして今世でアセンションしたいです。