おしゃれがしたい――容姿コンプレックスを超えて
今日は久しぶりの奥さんとのデートで、
ふと気が向いて、奥さんがおじいちゃんからもらったという、
おしゃれな帽子を借りて外出してみた。
別にたいしたことじゃない、と思うかもしれない。
でも僕にとっては、とても新鮮で、画期的な出来事だった。
僕はふだん、帽子をかぶったりはしない。
おしゃれなハットタイプの帽子なんて、ふだんからおしゃれをしている人のためのもので、
僕がかぶるようなものじゃない、と思っていたからだ。
帽子だけじゃない。いろんなアクセサリーとか、かっこいいバッグとか、つま先のとがった靴とか。
そういうおしゃれなグッズは、僕にはふさわしくない、と思って生きてきた。
物心着いたころから、と言うと大げさかもしれないが、
気がついた頃にはいつの間にか、僕には容姿に対するコンプレックスがあった。
コンプレックスの大半は、たぶん幼少期や思春期に形成されるものだと思うけれど、
僕の幼少期から思春期――つまり、中学生までの間には、
明らかにコンプレックスの原因となる要素があった。
僕には双子の弟がいて、中学校までは同じ学校に通っていたのだ。
同性の双子。
それはお互いにとってコンプレックス製造装置にほかならないだろう。
ことあるごとに僕らは、比較された。
周囲の人たちはまったく悪気なく、
双子のうちの「勉強が得意な方」とか「スポーツが得意な方」とか言って、
僕らを区別したがった。
そして僕は、「スポーツが不得意」で、「かっこよくない方」だった。
(ついでに言うと、「勉強が得意な方」であった)
そしてそのふたつはそのまま、僕のコンプレックスになった。
スポーツの得意不得意は、小中学生の頃はクラス内でのヒエラルキーに直結するので、
僕は決して人気者にはなれず友達も少ない、いじけた存在として日々を過ごした。
とはいえ高校生くらいになると、それほどスポーツが重要視されなくなり、
弟と学校が違っていたこともあって比較もされなくなったこともあって、
それなりに学校内で受け入れられるようにはなった。
しかし、容姿の方のコンプレックスは、その後もかなり長く、僕のなかにとどまり続けた。
自分のことをとにかく「かっこよくない」と思っていた僕は、
なるべく外見のことを考えないようにして生きてきた。
「元がかっこよくないならおしゃれに気をつかえばいい」と思うかもしれないが、
実際には、コンプレックスを持つ者にそれは難しい。
なにか、外見に手を入れようとすると、内なる声がこう言うのだ。
「おしゃれに気をつかえば、少しはマシになるとでも思ってるの?
不細工が何やっても無駄なのに。調子に乗るなよ」
だから、服装に気をつかうのも、髪を染めるのも、眉を整えるのも、全部いやだった。
周りの人たちがそうしているのを知っていても、
それは人並み以上の容姿をもつ人の特権であって、自分には許されてはいない、と思っていた。
それから恋人ができたりして、少しずつ容姿コンプレックスは和らいでいったけど、
おしゃれに対する抵抗感が薄れていったのは、ようやく最近になってからだ。
最近じゃ、冗談交じりにナルシスティックな発言をすることも多い僕だけど、
それもコンプレックスの裏返しと言えなくもない。
だけど、世間的にどうかは別として、僕の容姿を「悪くない」と思ってくれて、
僕のことを「好きだ」と言ってくれる人がいるんだから、それでいいじゃないか、
と思えるようになってきたのは確かだ。
30歳を超えて、はじめて、
好きなものを着る喜び、おしゃれをする喜びを、
僕は、知り始めている。
今さら遅い、とは思わない。
今までの積み重ねがないから、いきなりおしゃれには、なれるわけもないけれど。
楽しく、かっこよく、かわいく、おしゃれを楽しむことを、知っていきたいな。
(2015年8月執筆 当時32歳)