「筆先三寸」日記再録 2006年5月~6月
2006年3月と4月は日記の更新はありませんでした。
2006年5月1日(月)
▼3月と4月は、更新をお休みしたので日記のログはありません。
▼画像ネタは決して使うまい、と決心してはじめたサイトなのだけれど、こればかりは仕方ないのでちょっとおつき合いを願いたい(しかも、WindowsXPに限るネタで、重ね重ね申しわけない)。
WindowsXPには、デフォルトで用意されているデスクトップの壁紙がいくつかあって、そのうちのひとつに「ロングバケーション」というものがある(XPの方は、「デスクトップで右クリック」→「プロパティ」→「デスクトップのタブ」→「背景」で確かめてほしい)。早い話、なんということもない、青い海と青い空に、椰子の木が三本はえた小さな島とヨットという、絵葉書のような海辺の画像である。
で、この青空に浮かぶ白い雲に、ちょっと気になる部分を発見したのである。
ちょうど左の端のほうを切り取ってみたらこんな感じ。
それが私にはこう見えて仕方がない。
そこはそれ、マイクロソフト謹製心霊写真ということでひとつ。
2006年5月7日(日)
この連休は、例によって家族そろって私の実家に帰っていたのだが、自分の家より“いなか”の方がずっと都会だというのは、どうも納得がいかない。
それはさておき、いくら買うのを我慢しているとはいえ、本というものはどうしても増えてしまうもので、私の部屋でもとうとう机の上や床にまであふれ始めた。適当に片付けて押入れに避難させようにも、そちらももうスペースはない。我ながらたいてい見苦しい部屋の様相に、サイの我慢も臨界点に迫りつつあるのがわかる。せめて本棚からあふれ出した分くらいは、なんとかしなければならない。
そこで、私は生まれて初めての英断を下した。いわゆるひとつのブックオフとやらに電話したのである。
「あー、本処分するから取りに来て。百冊くらい」
電話の向こうのお姉さんは、むやみに明るいテンションで応対してくれた。こちらの罪悪感を軽減しようという営業方針なのか、というのは考えすぎにしても、地味なおっさんに応対されるよりずっと気持ちがいいのは確かである。
とりあえず、そこいらに散らばっている本は最近買った奴ばかりなので、古いものを中心に売り飛ばす分をチョイスした。↓こんな感じ。
○ 文庫本 約20冊 (佐藤正午とか江國香織とか村上龍とか新しめの中心)
○ 新書ノベルズ 約40冊 (全部夢枕獏。『飢狼伝』全巻と、『魔獣狩り』関係のほとんど。『幻獣変化』くらいは手元においといてもよかったか)
○ ハードカバー単行本 約50冊 (古いものでは北方謙三『渇きの街』(傑作!)から、東野圭吾『容疑者Xの献身』まで。宮部みゆきや浅田次郎、ル・カレにパーカーなど、優良エンタメ中心。でも、ドゥルーズ=ガタリ『アンチオイディプス』4500円、なんてのもある)
○ A5判コミックス 約20冊 (昔の内田春菊とか泉昌之とか)
百冊をちょっと超えたけれど、どれもこれも愛着のある傑作ばかりで、身を切られる思いである。だからといって、これらが高く売れると思うほど世間知らずではない。古本屋の棚に埋もれっぱなしになるような本はないと自負しているが、珍しい本があるわけでもなし、二束三文は覚悟の上である。
でもちょっと計算してみよう。まずは原価からだが(微妙に安めの設定で)、文庫が一冊400円、新書とマンガが一冊700円、ハードカバーが一冊1500円とすると、全部で125,000円である(うわ)。買取が1割として12,500円。5%として6,250円。
まあ、3,000円あれば御の字か。
ともあれ、明日の5時半に来てくれるそうなので、できればつぎの更新で結果を報告します。
(でもなー、なんかなー、本売るってなー、さみしいような情けないような、あーもー、なんだかなー)
2006年5月8日(月)
土曜日が出勤だった関係で、今日は仕事が休みだったので一日家にいた。
おかげで夕方には、立て続けにともちゃんとなおちゃんの担任の先生の家庭訪問に巻き込まれてしまい、わけもわからず先生の話に「はあ、はあ」とうなずかされる羽目になった。とりあえず、ともちゃんの担任はいとうあさこ風、なおちゃんの担任は藤山直美風という感じだったのだが、どちらもしっかりした感じの先生でよかったよかった。
で、約束どおりきっかり5時30分に、ブックオフのにいちゃん登場。小太りメガネヲタ風の外見に、腰も低くてにこやかでとこちらも感じがよい。やるなブックオフ。
早速二階の本の山に案内して査定開始。にいちゃんは、一冊ずつ手に取りながら、八つほどの山にさくさく分けていく。それをクリップボードに転記して、査定そのものはほんの15分程度で終了した。
「4,570円になりましたが、よろしいでしょうか」
よろしいもなにも、原価にさえ目をつぶればそれで十分である。そもそもの目的はスペースの回復なんだし。
「内訳ですが、こちらの山が30円、こちらの山が40円、こちらの山がだいたい20円という風になります」
聞くと、新刊とコミックス以外は、「状態」で値をつけるらしい。だから昔のノベルズも単行本も、古くなればなるほど二束三文にしかならないようだ。
ただし、『県庁の星』と『容疑者X』は、「ちょっと旬は過ぎてますが……」と大サービスの150円。
期待の『アンチオイディプス』は、ほんのちょっと天と小口が汚れていて、「残念ながら引き取れません」とのこと。そう言いながら、にいちゃんは、「でもこれ、もったいないですねぇ」と、個人的にニューアカの波にかすった経験がある様子だった。他にもそういう「ちょっと汚れたの」があって、結局十数冊突き返された。
それよりなにより、にいちゃんは横の本棚を埋めている、「ナルト」「ケロロ」「ブリーチ」「ワンピ」「デスノ」等々の単行本群に未練があるようだった。「このあたりだと一冊70円から100円、モノによっては120円でも……」と。あっかんべーだ、それはまだ売らないよーだ。
でも、この感じだと、うちの本を全部売りに出しても、引き取ってくれるのは半分以下の1000冊くらいかも。しかも(みんな古いので)平均30円として、やっと3万円。こりゃだめだー。
こうなりゃヤフオクだな。大伴昌司の怪獣図鑑とか、大友克洋の奇譚社版「GOOD WEATHER」とか、「吾妻ひでおに花束を」とか、「SFイズム」とか、微妙なのがいっぱいあるからな。でも、「漫金超」なんかは微妙すぎるよな。このへんは、「まんだらけ」の方がいいのかな。
って、いつのまにか、「スペース回復」より「換金」に意識が向いてしまっていたりいなかったり。うーん、持ってる本売るのって意外と楽しいかも(昨日の今日でゆってることがぜんぜんちがう)。
2006年5月9日(火)
古本の話が続いて恐縮だけど。
今日、仕事に行く前に(午後からの出勤だったのだ)、梅田の「かっぱ横丁」へ、ブックオフに蹴られた『アンチオイディプス』を持って行った。
不見転で飛び込んだ一軒目の親父は、額に入れて飾りたいほど無愛想な爺さんだったが、私の差し出した本をパラパラと一瞥するなり、こう言った。
「1500円でんな」
驚いたのはこちらである。昨日は十万円分以上売り飛ばして5%にもならなかったのに、ここでは3分の1になるとは。
とほほー。昨日売った分、ちょっとずつでも普通の古本屋に持って行ったらよかったー。
それでも新刊コミックスなんかは、ブックオフの方がいいのかもしれないけど、ここをお読みのみなさんも本を処分するときはくれぐれもご注意ください。
2006年5月12日(金)
PS3は、62,790円!
あほやー、ぜったいあほやー。
PSXがあっさりこけたの忘れたかー。
「Qualia」戦略が頓死したのに何も学ばなかったのかー。
PSPが微妙にねばってるのは、UMDのセルAVのおかげだって気づいてないのかー。
5割の「中流」に廉価な製品を売るより、1割の「上流」に高価格品を売るほうが、儲かるしブランドイメージもあがるとでも思ってんのか。三浦展『下流社会』(光文社新書)の受け売りみたいなこと考えてんのか。
まともな消費者なら、パソコンはもちろん、ブルーレイディスク機も、ちゃんと単体で高機能のものを買うよ(PSXの教訓)。
「超高価でしゃれてて高品質っぽいから、金持ちのオイラは持って満足しよう」なんて、高度経済成長期じゃあるまいし、いまどきの消費者が思うかよ(「Qualia」の教訓)。
そもそもいまどきの親なら、よほどのDQNでもなきゃ、子どもに「高価なゲーム機」なんて買い与えねーよ。買うのは小銭持ってるヲタだけだーよ(PSPの教訓)。
うちの子どもたちは、もうPS2にさえ見向きもしない。月に1ほど電源を入れてみる程度である。なおちゃん曰く、「なんかめんどくさいねん」ということらしい。で、友だちと一緒にやるのは、いつもゲームキューブの方(「ピクミン」とか「スマブラ」とか)であった。それさえも近頃はご無沙汰である。
で、なにをやってるのかいうと、明けても暮れてもニンテンドーDSである。友だちとの対戦もDSである。ともちゃんにしたところで、ソフトはDSのソフトしか欲しがらない。PSPは、友だちので何度も遊んでるはずだが、別に欲しいとは思わないらしい。
任天堂の「Wii( ウィー)」がどんなものなのかは知らないけれど、「家族で楽しめそう」というイメージが本当なら、たぶん私はこちらを買う。3万円するかしないかだろうし。
PS3は、「実写にしか見えないFF」が出ようが、「実車にしか見えないグランツーリスモ」が出ようが、「実戦にしか見えない三国無双」が出ようが、たぶん2年は買わない。
ソニーってば、せっかく三星液晶で持ち直しかけたっていうのに、ほんとにどうするんだろう。
2006年5月13日(土)
私の出た高校は、今ではもう見る影もないようだが、変てこな先生が多かった。
バリバリの全共闘上がりで素人目にも真っ赤な授業を展開する社会科教師。矢野健太郎と数学の参考書を書いたりしながら、指導要領も受験対策もそっちのけで大学レベルの授業をする数学教師。阪大教授が教えを請いに来る生物教師。後に三顧の礼で私立大の教授に迎えられた英語教師。
すっげえ面白い授業ばかりだった。
そんな教員の一人に、いっつもやる気があるのかないのかわからない、ぐだぐだな調子で授業を進める英作文の教師がいた。そのくせ、生徒に黒板に書かせた英作文の宿題には、ほれぼれするほど厳しい指摘をかまし(「こういうのは“ジャングリッシュ”っていうんや」が口癖)、赤と黄のチョークでさささっとエレガントな“イングリッシュ”に書き直すのだった。
その先生の教えで、とても印象に残っているものがある。
有名なクラーク博士の、“Boys, Be Ambitious.”についてである。何の折に出た話題だったか忘れたが、先生はこう言った。
私たちは、教室中全員、爆苦笑みたいな感じになった。偏屈な先生に対してだったのか、脱力感満点の訳文に対してだったのか、クラーク博士の名言に対する落胆によるものだったのか、そのへんは判然としない。
おかげで、私学や専門学校のCMではいまだによく見かける、「大志を抱け!」みたいなコピーを見るたびに、ちょっとだけ笑ってしまうようになってしまった。ありがたいんだかなんなんだか。
2006年5月16日(火)
ゴールデンウィークは実家に帰っていたのだが、そのときに近くの寺の壁にあった張り紙を見て、今度もおっと思ったので書き留めてきた。
まるで、相田みつをのような文句が相田みつをのような筆致で書いてあった。
私がちょっと立ち止まってしまったのは、この「死ぬべきもの」というフレーズである。もちろんこれは人間一般のことであって、死ぬほど恥ずかしいことをした人だとか、とんでもない極悪人のことだとかというわけではない。
人間は死ぬ。そりゃあ死ぬ。めっちゃ死ぬ。絶対死ぬ。なにがなんでも死ぬ。いつかきっと死ぬ。古今東西全員死ぬ。それが人間である。
だから、「死ぬべきもの」なのである。
ていうか、人間は死んで当たり前。死んでやっと普通。いやもうむしろ死んでる状態がデフォルトといってもいいくらい。とにかくもうずーっと、ずーっと死んでて、ちょっとだけ生きて、またずーっとずーっとずーっと死んでるのが人間。
だから、「死ぬべきもの」なのである。
それが、ふと気づくと、今、生きている。べつに生き生きしてなくても、グズグズでも、へにゃへにゃでも、「お、いちおう生きてるやん」である。
なんかすごくね? 生きてるだけでごっついお得な気がしなくね? 死んでるのが普通なのに、今だけたまたま生きてるって不思議じゃね?
べつにその張り紙を見たくらいで、積極的に喜ぼうとまでは思わなかったけれど、「人間は死ぬべきものである」っていうのがストンと胸に落ちたので、ちょっとこの日記に書いておく気になった。
じじくさいとかいうな。
2006年5月17日(水)
著作権法的にはどう考えても分の悪い「YouTube」だけど、現実のところの効用としてはどうなんだろう。
あんなアニメや、こんなドラマや、そんなミュージッククリップを、なんでもかんでもと言っていいほど見ることができるのはとてもすごいことだけれど、当然ながら画質も音質もたいしたものではない。
ということは。
そこで見聞きできるものが体験版のレベルに過ぎないものであれば、アナログ放送やレンタルCD&DVDショップ同様、「底辺を拡大する」のに大きく貢献しているんじゃないだろうか。そしてまた、「マニアの深入り」にもぜったい火に油だと思うし。
一般の放送業界が気を悪くしない程度にほんのすこしでも利益の還流するシステムができれば、と言う条件付きではあるにしても、リソース側にとっても、そんなに悪いサイトじゃないと思う。
だって、こんなの(どこもかしこもリンク切れで、何の動画だったのか不明。2023年9月10日註)が見れちゃうんだよ。私はこれをリアルタイムでテレビで見て、思わずアルバム買っちゃったんだ。ちなみに、情報源はスミルノフ教授のところのしばらく前のエントリで、これほんと、モニタの前で「おーっ!」って叫んじゃったよ(半茶さんはどう見たんだろう)。
ていうか、なんだって今になって、ヨウツベの話なんかしだしたのかって言うと、その中でこの間たまたまアニメ版の「最終兵器彼女」を全話通して見てしまって、「せ、せつねえ……」と感動したからなのだった。故意にせよ止め画の多い低予算アニメ風の作りも切ないし、ちせ役の折笠富美子は奇跡のようにはまっててこれも切ないし、効果的に使われる北海道弁も切ないし、悲惨でメタフォリカルな戦争も切ないし。
コミックス読んでるときはあまり感じなかったんだけれど、この作品ってセカイ系だSFだなんだっていうより、「悲しいファンタジー」だっていうのがよくわかった。エヴァより、ハインラインより、ずっとずっとコードウェイナー・スミスに近い感じ。
うーん、四十二にもなってDVD買ったら、やっぱり負けだろうなあ。
2006年5月19日(金)
前回紹介したスミルノフ教授のエントリを見返していて、なんかふと思った。
「ベタでしかもかっこいいサブカルチャーって、どこにいったんだろう」
たとえば今の音楽番組は、エイベックスとジャニーズと中途半端なフォークか屁のようなラップみたいのばかりだ。P-MODELやヒカシューやゲルニカみたいのは、絶対出てこない。
その昔は「ビックリハウス」という象徴的な雑誌があって、「エロ」でも「オタク」でもない、中高生でも十分ついていける(ほどにはベタな)「かっこいいサブカルチャー」をリードしてたのだけれど。今は、本屋の棚を見てみても、どうもピンとくる雑誌がない。裏原系のファッション雑誌にしても、もとよりオモテ志向だし、ちょっとスカしたアート系や音楽系の雑誌は、「わかる奴だけ買え」みたいなタコ壺志向になってるし。
現在はインターネットのせいもあるのかもしれないが(考えがあまりよくまとまってない)、いわゆる「サブカルチャー」は、全部「エロ」か「オタク」に偏ってしまってるように感じる。
もっと、「芸術」や「哲学」や「反体制」を志向した「サブカルチャー」にがんばってほしいのに。ぜったいそっちのがかっこいいのに(単に私のアンテナが鈍っていて、そういうのが今もあるのならそれはそれで、まったくOK)。
2006年5月29日(月)
トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫/781円)
未読本の山から発掘したのはいいが、六、七年前に買ったものなので、すでに変色しかけていて古本気分で読了。
周知の通りこの本は、1950年代にアメリカで実際に起こった殺人事件(二人のチンピラが、一面識もない、町での信望も厚い牧場主一家四人を、金目当てに惨殺した話)を題材にした“ノンフィクション・ノベル”である。
巻末の解説によると、作者は何年もの時間を取材に費やし(取材ノートだけで六千ページに及んだという)、同じく厖大な時間をかけて執筆したという。
それを知って読むと、この小説はいっそう、ある種異様な様相を帯びて迫ってくる。
神の視点から緻密に書かれているからといって、「再現フィルムを見るような」わけでは決してない。なぜなら、登場人物は役者ではなく、鬼才カポーティの手によって生き生きとした命を吹き込まれた、全員“本人”なのである。再現フィルムどころか、“タイムカメラ”の動画版とでもいうのか、読者はいつも「その場」にいることを強要されるのである。
殺されたナンシーの明るいハイスクールライフにも、酸鼻を極める殺人現場にも、虐待されていた犯人の幼いころにも、犯人を追う刑事の家にも、丁々発止の法廷にも、そして死刑執行の現場にまで、私たちはきっちりと立ち会わされる。それも、登場人物の内面にまで踏み込まされながら。
この作品が当時の読書界にセンセーションを巻き起こしたというのも、あながち理解できないではない。
だれか宮崎勤でこれを書いてくれないか。
2006年6月1日(木)
教育基本法が改正されようとしている。
文科省のページで新旧の基本法を対照しながら読むことができるのだが、じつをいうと、私はそんなに悪い改正だとは思っていない。
世間では、「愛国心」がどうしたこうしたとかまびすしいが、法案第2条(教育の目的)の5項にはこうある。
立派じゃないか。その程度の愛国心くらい持てよ、っちゅう話である。「イカサマ伝統」を見破るのも愛国心のうち、国際平和を願うのも愛国心のうち、だというのであれば。
これが教育現場で、「八紘一宇」、「五族協和」、「国体護持」、「鬼畜中韓」、「皇居遥拝」てな話になろうものなら、私とて「それは俺の愛する国の姿と相容れぬ」として文句を言う覚悟はある。そもそもそんなの、同じ条項の後段と矛盾するし。
ついで、「義務教育9年」の縛りもはずれてどうたら、とかいう人がいるけど、おかげで「飛び級」がありになるぶん、「しんどい子には2年サービス」とかもありにできると考えれば、それもそう悪い話ではない。
それより、終戦直後の新憲法出来たてで舞い上がったところのある旧法より、今度の法案はそれなりに落ち着いてるし、「教育の目的」のところには「個人の価値の尊重」や「男女の平等」や「生命を尊び」や「他国を尊重」と明文化されてて、ある意味政府自民党の出してきた案とは思えないところもある。生涯学習や家庭教育、障害児教育にもきちんと場所を割いてるし。
しかしながらただ一点、「教育行政」のところで気になる点が。
政府は、「不当な支配に服することなく」を残したって自画自賛しているけれど、ポイントはそこではない。
「国民全体に対し『直接に』責任を負って」という文言がなくなったところである。
各地の教育委員会はなんのために行政委員会の看板でやってると思ってるんだろう。
これからきっと、日本中の「教育委員会」がどんどんなくなっていくよ(すでに以前からそんな動きはあるけど)。
2006年6月5日(月)
2年生のともちゃんは、学校が終わると、たいてい近所の同級生と一緒に帰ってくる。かんちゃんとたなかくんである。
その田中君のお母さんが、うちのサイに道端で出くわして言うには、
「うちの子な、ともちゃんのこと、すっごいあこがれてやんねん」
だそうである。あ、あこがれてるて。
「なんでも知ってるとか、なんかおちついてるとか、うちの子、帰ってきてもともちゃんの話ばっかりすんねんで」
えー、それどこのともちゃん?
「クラスの友だちがケンカとかしてても、すぐ間に入って行って、『まあまあまあ、ええやんもう。な、もうええやん』て止めんねんて」
せやから、そのともちゃんってどこの子?
「こないだもな、うちの子が、友だちのもめてるとこに、『まあまあ』て止めに入っていったから、『それ、ともちゃんのまね?』て聞いたら、『わかった?』やて」
私は帰宅してから、その話を聞かされたのだが、はっきり言っていまだ半信半疑である。
私は、置いてあるともちゃんのランドセルに手を伸ばしながら聞いてみた。
「なあ、ほんまに学校ではそんなにえらいのん?」
「うん、まあええやん、やめときやー、っていうねん」
「へえ。ほんで宿題はしたんか」
「うん、したした」
「ふうん、えらいねんな……って、このプリント、真っ白けやないかー」
「これからすんねん」
「って、お前、今宿題したて……、ちゅうか、重たいランドセルやな。明日は音楽ないんとちゃうん?」
「ぜんぶ入れてんねん。だってな、じかんわりせんでもええやん」
半信半疑どころかあんた。
2006年6月10日(土)
梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書/740円)
しばしば、肩書きばかりの三流学者がインターネットのあれこれについて書いたりすると、その筋のうるさがたから論破痛罵を浴びせかけられることに相場は決まっているのだが、この本ばかりはウェブ上の多くの論客が感心を隠さないので、気になって気になって結局買って読んだ。
IBMはPC事業をなぜ売り払ったのか、グーグルはどこへ行こうとしているのか、アマゾンは今なにをしているのか、それらを結ぶ「Web2.0」とはなにか、について、きわめて明快に書かれている。私は、これを読んではじめて、近頃よく聞く「Web2.0」とはどういう概念なのかがわかった気がする。
しかし、私が「目からウロコ」の思いをし、同じ役所のオヤジどもに薦めてまわりたいと思ったのは、技術的な話でも、「あちら側」の話でもない。
この本にある「Web2.0」の示す世界は、いま私たちが取り組まねばならない「お役所仕事の改革」と見事に照応していると感じたからである。
筆者は、百万部十万部売れる本に対して、国中で数冊しか売れないような本の売り上げが全体の三分の一を占めるというアマゾンを例に引き、「ロングテール」と呼ばれるその小さなニーズの集積を説明する(縦軸に「販売冊数」、横軸に「販売冊数順のタイトル」を並べたグラフにすると、ベストセラーによる巨大な頭部に比して、細い細い「尾」が長く長く続くため)。 そして、ウェブ上のサービスの将来像についてこう書く。
返す刀で、日本のヤフー・ジャパンと楽天に厳しい指摘を行う。
続いて、両者のWeb1.0的なあり方に、変容を促す提言をする。
このような半端で未熟な紹介では、政策論や組織論にまで及ぶ、深い示唆に富むこの本の魅力の一割も伝えられないことは承知している。
それに、「現場で市民とガチンコ型の仕事をしている公務員」以外には、なんのこっちゃの引用だろうと思う。たいがいめんどうなのでそのへんの説明はしないでおくけれど(不親切)、とりあえず、「(これまで公務員が忌避してきた)不特定多数無限大に対する深い信頼とオポチュニズムが、今後のまったく新しい市民サービスを作り出していくにちがいない」と感じたし、そんな「新しい市民サービス」が作り出せないことには、「小さな政府」なんて画餅に過ぎないと思った、とだけ付け加えておく。
2006年6月11日(日)
「本バトン」なるものがあるらしく、半茶さんから回されたと勝手に解釈して(だって、1963年生まれのブ日記(©風野Dr.)書きやブログ書きが何人いるよ) 、謹んで適当に回答させていただく。
01.いつ頃から本が好きになりましたか?
幼稚園のころ、車にはねられて1ヶ月ほど入院したのだが、その間、母親が毎日絵本を読んでくれた。のはあまり関係ない。
小学2年生のころ、ちょっとした手術で2週間ほど入院したのだが、その間、母親が毎日童話を読んでくれた。のもそんなに関係ない。
小学3年生のころ、腎臓を悪くして3学期を丸々棒にふって家で寝ていたのだが、その間、毎日テレビで「冒険ガボテン島」の再放送を見ていた。のはもちろん全然関係ない。
小学4年生あたりから市立図書館の児童室にはまって、講談社のSF関係やポプラ社版のホームズを全巻読破したりした。そのころからだと思う。
02.家族に本好きな人はいますか?
サイもなおちゃんもともちゃんも、読書量はともかく本は好きなようだ。サイは退屈すると、「なんか読む本ない?」と選択まで私に任せて、面白い小説をせがむ。最近では、佐藤正午の『ジャンプ』を読ませたら面白がっていた。なおちゃんともちゃんはまだまだマンガばっかりである。6年生の兄貴には、星新一やナルニアを薦めてはいるのだが、さらっと読んで「面白かった」とはいうものの、次もせがまずそれっきりである。
03.幼い頃に読んだ絵本は?
「だるまちゃんとてんぐちゃん」とか。イソップ物語のやつとか、シンデレラのとか。
今のように優れた絵本を(大人が読んでも、とか)あがめるような軟弱な風潮はなかったので、ガチの絵本はあまり身の回りになかった。
04.学生時代、読書感想文を書くのは好きでしたか?
小学2年生のころ、全校放送で自分の読書感想文を朗読させられて、子ども心に自分は感想文の天才なんじゃないかとうぬぼれたことがあった。その勢いで、小中高と読書感想文では向かうところ敵なしだったが、そもそも作文が嫌いだったので、読書感想文も書くのは好きではなかったよ。
05.毎号チェックする雑誌はありますか?
ほんとに唯一、「本の雑誌」だけは、かれこれ25年くらい買い続けている。
06.ベストセラーは読む方ですか?
ベストセラーも当然玉石混交なので、読むときはなるべく玉を探して読むようにしている。でも、読まなくても「玉」だろうと見当がつくような“大ベストセラー”には、あまり食指が動かない。今なら、「さおだけ屋」とか「東京タワー」とか。
07.本は書店で買いますか、それとも図書館で借りますか。
高校に入ってからは、ほぼすべて自腹で買うようになった。なぜかはよくわからない。図書館へ行くと、(読みたかったはずの)どの本も魅力を失って見えるのが一因かと思う。
08.あなたは「たくさん本を買うけど積ん読派」?
「たくさん本は買うけど、買った以上は全部読む派」。
それでも数%は読みきれずにこぼれ落ちるのだが、いまや落穂拾いだけでも二年はもつ、というのは内緒。
09.本を捨てることに抵抗がありますか?
本は捨てられないし、売ることもできないタイプ。しかし近年、諸般の事情で売ったり捨てたりしつつある。断腸の思いである(となると思ったけど、意外とすっきりすることを発見した)。
10.本をよんでる人は”目力”があると耳にしたことがありますがそう思いますか?
”目力”が、なにを意味するのかよくわからない。“眼力”ならそれ相応の分野で育つだろうとは思う。ミステリマニアはミステリの目利きになるとか、俳句ファンは句の巧拙を語れるようになるとか。
たんに目つきに迫力を持たせたいのなら、「寄り目にしつつピントを合わせる」のが手っ取り早い。
11.本屋さん、何時間いられますか?
昔は、「立ち読み1回90分」が基本で、時計を見なくても数分の誤差で行えた。今はとにかくそんな時間がないので、立ち読みでこなせる時間はわからない。
ただ、梅田のジュンク堂の中に、ユニットバスつきのワンルームをしつらえてもらえれば、最低二年は本屋から出ずに暮らせると思う。
12.お気に入りの本屋さんがあったらおしえて♪
本屋ばかりは質よりセレクトよりなにより量。ゆえに大阪なら梅田でも難波でもジュンク堂に如くはない。河原町のメディアショップや各地のヴィレバンは、高校生のころなら狂喜しただろうが、この歳になってはどうも。
13.本屋さんへの要望・リクエストがあったらどうぞ。
大変だと思いますががんばってください。商品知識と棚作りに燃える書店員さんにはもっと増えてほしいと思います。
14.気になる箇所にはラインを引く派? 隅っこを折る派?
本は大切に。
15.速読派と熟読派、あなたはどちらですか?
熟読派のつもりだし、熟読していると思うのだが、赤の他人に、「はえー」とあきれられたりもする。
16.本を読む場所で、お気に入りなのは?
通勤電車の座席。寝入りさえしなければこれ以上の読書環境はない。近くにギャースカしゃべるグループがいなければ、どれほど集中して読めることか。
17.無人島に1冊だけ本を持っていけるとしたら。
この質問は昔から考えているのだが、やっぱり旧約聖書かなあ。ありきたりすぎてすまんが。あれほど繰り返し読める本も、繰り返し読むたびに面白い本もない。こればかりはどんな小説もかなわない。
あ、「サバイバル教本」系の本という手もあるな。開拓者向けの畑作入門とか。なんといっても生き延びるのが第一だし。
18.生涯の1冊、そんな存在の本はありますか?
宇野浩二訳「西遊記」。子ども向けのリライト本だが、小学生のころ、日曜日の朝に布団の中で読むのが無上の愉しみだった。
19.あなたのお気に入りの作家は?
石川淳。澁澤龍彦。中上健次。金子光晴。柴田錬三郎。矢作俊彦。
20.本を選ぶときのポイントやこだわりはありますか?
本の発する“ Try me ! Read me ! ”の声に耳を澄ませること。
21.本はどこから読みますか?
えー? そりゃ開巻1ページ目の1行目から。
帯の惹句や表4カバーの紹介文や解説やあとがきは、ひと段落してのちの箸休めとして。
22.昔、読んでた漫画
少年サンデーなら、一冊70円くらいの時代から読んでたような気がする。個々のタイトルを挙げろと言うならそれは無茶だ。
23.学生時代ハマった本
冒険小説、ハードボイルド小説全般。ライアルやヒギンズや船戸与一やパーカーやハンセンやあれやこれや。早い話が、内藤陳の口車に乗せられて、年に200冊くらいのペースで読んだ。乗せられてよかった。
24.つまるところ、あなたにとって本とは。
本なんて読まずにすめばこしたことはない。
25.バトンを回す相手
私はバトンを回さない。そんなものはチアリーダーに任せておけばよい。
2006年6月12日(月)
帰りぎわにふらりとコンビニに立ち寄ったところ、「機動戦士ガンダムEFコレクション FIRST GENERATION1」というのを見かけた。
お、こりゃ、フィギュアもよくできてそうだ。でもまあ、ほしいのはシャアとアムロくらいか。どっちかひとつでもいいや。などと考えながら三つ買ってみた。こんなときはたいてい、「ブライト、ブライト、セイラさん」みたいなことになるのだが。
するとああた、今日に限って、シャアとアムロと、おまけにシークレットでしたよこれが! すげー、おれすげー。
で、帰宅して家族が寝静まって後(見つかるとうるさいため。とくにサイが)、ゆっくり組み立ててみたのだが、300円食玩にしては予想以上の出来。リンク先の写真よりよっぽどよく出来ている。ウェザリングも微妙に施してあったりして。
うーん、会社もってって、机の上に置きたいなあ。でもなあ、今年四十三だしなあ。立場もあるしなあ。ここで踏みとどまらないと、いろんなことが明るみに出そうだしなあ。うーん、がまんがまん。
2006年6月14日(水)
「迎賓館裏口」さんや「スミルノフ教授」のところでもすでに紹介されているので、ずいぶん有名なんだろうけれど。
これはびっくりする。
(もともとのリンクは切れてしまってるけど、「カラパイア」によく似た画像があったのでリンクを張りなおした。4番目からあとの急に「カラー写真」にみえるやつ。2023年9月10日註)
ホラーとかショッキングとか精神的ブラクラとかのネタじゃない、ただの錯視系のネタなので安心してご覧下さい。でもびっくりするよ。
2006年6月18日(日)
竹内淳『高校数学でわかる マクスウェル方程式』(講談社ブルーバックス/860円)
その昔は、SFファンの例にもれず、アインシュタインの相対性理論に関心があった。中高生のころである。しかしながら、バリバリの文科系を自認していた身なれば、「数式を使わない」などという断り書きのついた啓蒙本ばかり選んで読んでいた。背伸びしてもせいぜい、都筑卓司や石原藤夫のブルーバックスどまりだったように思う(もちろんおもしろく読んだけど)。
だからといって、そんな本ばかりで何が理解できるわけでもない。頭の中に残るのは、せいぜい、電車の中でボールを投げるのと、ロケットの先端で点す光はわけがちがう、ということぐらいである。雨降りと光行差はよく似ているとか。いくら速く走っても、さすがに後ろの雨は前に来ないけど。
それでもまあ、日常生活にもSF読みにも支障があるわけではなく、文科系の人生を送っていた。
それで就職もしてずいぶんたってから、たまたま本屋で見かけたアインシュタインの『相対性理論』(岩波文庫青帯/500円)を手に取った。これは特殊相対論の第一論文の翻訳らしくて、訳者(内山龍雄)による丁寧な解説がついている。
原論文は本当に美しいし、数式もふんだんに出てくる解説のおかげもあって、私はこれを読んで、特殊相対論(光速度不変の法則とか)をはじめて理解できた気がした。だいたい、こっちとあっちの時計を合わせるだけでそんなに大変だとは!
というような思い出もあって、微分積分までくらいなら、いっぱい数式の出てくる本のほうが、科学の話はよくわかるという話である。
まあそんなのは、理科系の道に進んだ人には噴飯ものだろうけど。
で、やっと今回読んだ本の話になるが、私が「共通一次試験」の選択科目として物理を捨てた第一の理由が「フレミング左手の法則」だったということもあって、江戸の敵を長崎で討つために購入したものである。
評判のよいのは耳にしていたが、評判どおり大変おもしろかった。ちゃんとノートに数式を写して、丁寧に展開や変形もしながら読んだら、電界とか電位差とか磁束密度とか、すっごくよくわかったような気がする。ベクトルが(だからもちろん微分方程式も)ほとんど出てこないので、本格的な理解じゃないのは当然だとしても、江戸の敵は十分討てたと思う。それに、平賀源内とかファラデーとかアンペールとか、科学者の苦労話とかの読み物風の部分も面白かったし。同じ著者の「シュレディンガー方程式」もあるので、つぎはそれを読んでみよう。
それはさておき、この本の本筋の話じゃないので、言うのははばかられるのだが(恥ずかしいし)、私はこの本ではじめて微分と積分の理屈がわかったような気がした。高校時代の数学のテストなんてのは、解法さえ身につければどこの模試でも偏差値の60やそこいら鼻歌まじりでゲットできたが、そんなのぜんぜんわかったうちには入ってなかったみたいだ。
とりあえず、積分の数式で、インテグラルで始まる式の尻にはたいてい「dx」ってあるけれど、あれは「ここでこの式はおしまい」というたんなる目印じゃないんだということが、四半世紀を隔ててわかっただけでも収穫であったとしておこう。高橋先生ごめんなさい。
2006年6月21日(水)
トップページのカウンタが49万を超えて、とうとう50万ヒットも目前になってきた。
このペースだと、たぶん7月中には到達すると思う。公開が1999年の7月だから、ちょうど丸7年だ。
開設数ヶ月で百万ヒット2百万ヒットというブログも少なくないこのご時勢、7年もかかったというんじゃ自慢にも何にもならないけれど(7年で割ったら一日200ヒットくらいだから、根気さえあれば誰でも可能だ)、やっぱり絶対量として50万はちょっとうれしい。
せっかくなので、またなにか企画を考えようと思う。30万ヒットのときは、「一人ぼっちの雑文祭」をやって結構受けたし。
さあ、なにをしよう。
やっぱりここはオフ会か。オフ会しかないな。
「一人ぼっちのオフ会」とか。<そんなんオフ会ちゃう。
2006年6月22日(木)
先週の金曜日に、なおちゃんとともちゃんの授業参観があった。なおちゃんもともちゃんも、教室の外からのぞくお父さんと目が合うたびに、照れ笑いのような表情を浮かべていたけれど、それなりによく手も上げて、先生の問いかけにもはきはき答えたりしていた。
と、それはおいといて。(ジェスチャー)
話はほぼ一年前のこの季節、ともちゃんが一年生のときにさかのぼる。
その日、ともちゃんが、図工の時間に描いたというアジサイの絵を、学校から持って帰ってきた。画用紙にクレパスで葉っぱを描いて、小さな正方形に切ったいろんな色の折り紙を、アジサイの花の形の貼り絵にするというものだった。(去年は私の行けなかった)参観日で、すでにほかの子どもたちの作品見ていたサイによると、ともちゃんのクラスメイトたちは、藤色や紫色の色紙を貼り並べて、アジサイらしき花の形に仕立て上げていたという。
「それがな、教室に貼り出してあるうちでも、ともちゃんのだけぜんぜんちがうねん。ちょっと見たって」
私は、サイの声を背中で聞きながら、ともちゃんから受け取った絵を広げた。
「ぶははははは、なんやこれー。ともちゃん、これはすごいぞちょっと。うーん、ある意味かっこええし」
葉っぱはまあ、緑一色で、ぼこぼこという感じで描いてあって、それはまあ下手は下手なりによしとしよう。
問題はアジサイの花である。アジサイのはずなのに、黒の色紙を小さい四角に切って、方形にきっちり貼り並べてあるのである。まるで、黒無地の「15ゲーム」か、こじゃれたスナックの便所のタイルである。
「えー、これはないやろ、ともちゃん。アジサイて、黒かったかー。ほんで、真四角て」
私は笑いながら言った。ともちゃんも、べつに怒りもすねも泣きもせず、照れたような困ったような表情でふんふんと聞いていた。
どうせまあ、わざと他人とちがう風にして、受けを狙ってしまったというところだろう。
「さすが画伯やー。ははははー」
で、その話は終わった。
ともちゃんは、ふだんでも怒ったり泣いたりが多いぶん、意外と打たれ強いところがあって、叱られて泣いてもすぐにケロッと元に戻るところがある。だから、こちらも注意するときは、けっこうポンポン言ってしまったりすることが多い。
ここでやっと、話は先週の参観日に戻ってくるのだが、今年は私も休みをもらえたので出かけてみた。すると、ともちゃんの教室の後ろに、アジサイの絵が飾ってあるではないか。今度は、クレパスに加えて絵の具も使ったちゃんとした「絵」である。
参観日の授業が終わってから、私は教室の後ろでともちゃんの絵を探した。今年は意外とよく描けているようだった。葉っぱの色使いも、複雑な花の姿も、他の子どもと比べても遜色ない。
感心して眺めていると、帰り支度を整えたともちゃんが寄ってきた。
「ほらこれ、はっぱの色も、ちゃんと変えてかいてん。花びらもな……」と、一生懸命うまく描いたことを主張する。もちろん、私は頭をなでながらほめてやった。
よく見ると、みんなの絵の下には小さな紙切れが貼り付けてある。よくある学年・組・名前の表示だけかと思ったら、それぞれ子どもたちのコメントも書いてあるようだった。みんな、アジサイの花はかわいいですとか、雨の日は色がきれいですとか、いろいろ書いてある。もちろん、ともちゃんのコメントも見てみた。
「1年のときはへただったけど、いまは1年のときよりうまくかけるようになりました」
うわー、ごめーん、一年たってもそんなに気にしていたとはー。そんなに気にするタイプだったとはー。
もう、画伯とか言えへんからー、笑わんようにするからー。
ともちゃん、ほんまごめーん。
2006年6月25日(日)
去年の暮れに、ペリカンのM800を手に入れて以来、気に入ってノート取りに使っている。B(太字)のペン先はさすがに太いけれど、フローのよいインク(セーラー・ジェントルインクのブルーブラック)を入れているせいで、それはもうヌラヌラと、考えるより先に字があふれ出てくるような勢いで書ける。
それと、F(細字)の方では、去年の秋に手に入れたLAMY2000がある。これには同じラミーのブルーインクを入れてある。
この2本を軸に、M200やソネットGT、サファリ、無印アルミ丸軸などをまじえながら、この半年過ごしてきた。
でも、M(中字)は黄色のサファリしか持ってなくて、いろいろインクを試してみたし、スチールの硬いペン先も滑らかですごくよかったし、デザインも気に入っててよく使っていたのだが、それでもポケットに挿すには派手だし、3千円のペンが一軍というのもナニだし、とも思いつつ、万年筆は値段じゃないんだ、相性と書き味なんだと自分に言い聞かせていたのだが、ふだん使いの10mm罫のフールス紙のノートでは、やっぱり金ペンのMがほしいなあと思い始めて、今月はちょっとした臨時収入もあったし、って、で、いったい何が言いたいのかというと……
146キタ━━━━(Д゚(○=(゚∀゚)=○)Д゚)━━━━!!!!!。
もちろんペン先はM。さすがはくさってもモンブラン、未調整でもバッチリサラサラ。というところで、パーカーのクインク・ブルーブラックを入れていたのだが、このインクはフローがよすぎて、紙ににじむんだよな(描線が太くなるし、裏写りもするのだ)。うーむ。
ついでに、といってはなんだが、手帳用のペンとしてこれまで三菱のパワータンクを使っていたのだが(どっち向いても、濡れてても気にせず書けるのが、とっさの手帳用としては最適)、油性ボールペン特有のダマとかが気になって、それにやっぱり、手帳でも万年筆が使いたくなって、でも乗り物の中や立ったままの場面では、キャップあけたりしめたりはめんどくさいし、って、で、これもいったい何が言いたいのかというと……
デシモマデカッチャッタY⌒Y⌒(゚∀゚)⌒Y⌒(。A。)⌒Y⌒(゚∀゚)⌒Y⌒Y !!!
ペン先はF。国産なので同じFでもLAMY2000に比べると、鉛筆と0.3mmシャープほどの差がある。さすがパイロット、細いのに引っかかりもなく、細かな予定やメモ書きには実に重宝している。もちろん、ノック式の手軽さはいうまでもない。インクはブルーがよいのだが、パイロットの純正インクは、クインク以上ににじみや裏写りがひどいので即却下。結局これには、コンバータを使ってウォーターマンのフロリダブルーを入れた。
というところで、本日のところは、買っちゃった自慢まで(ていうか、ちょっと、あの、これで当面の懐具合が……)。
次回はインクの話でお会いしましょう。その次はノートの話で。
(いつもうちを見に来てる人は一週間くらいほっといてください)
2006年6月26日(月)
ちかごろ、万年筆やら文房具やらがブームだったりするらしい。これは困った。
去年の2月18日の日記を見てもらえばわかる通り、私は仕事で大量のメモを取る必要に迫られるようになって、「長時間疲れず書ける筆記具」として、万年筆を選択しただけだったのに。それがきっかけで、書き味の楽しいのにはまってしまい、基本的なのをちょこちょこ買ったりしてきただけなのに。世間の風潮なんて、なーんも知らなかったのに。
そんなにタイミングよく、ここでブームなんていわれた日には、すっごいミーハーみたいに思われるじゃないかー。べつに、自分がミーハーであることは否定しないが、今回ばかりはせっかく自分でひそかに見つけた楽しみだったはずなのに、流行の尻馬に乗ってるように誤解されるのはなんか業腹だ。
そういえば、ちょうど三十年ほど前、横溝正史にはまったときもそうだった。中学にあがって、ちまちまと角川文庫を買って読んでは喜んでいたら、いつの間にか『犬神家の一族』やら『八つ墓村』やらが映画化されて、大ブームが起こったのだった。
その三年ほどあと、「野生時代」で知った片岡義男の文庫本が出始めて、新鮮な日本語と乾いた感触を気に入ってバリバリ読み漁っていたら、『スローなブギにしてくれ』が映画化されて、これもブームになったのだった。
おかげでどちらも、当時のそのタイミングでは、「めっちゃおもろいねん。おれ好きやねん」とは口が裂けてもいえなくなってしまい、さみしいような悔しいような思いをしたのだった。
というわけで、今となっては、万年筆周辺の話もとてもしづらいのだけれど、毒食わば皿までっちゅうか、これだけ元手をかけといて日記にも書かないっていうのはすごく損な気がするので、やっぱりぼちぼち書いていこうと決めた私は少年の紅顔を失って中年の厚顔さを身につけたということなのだろう、ていうかただの貧乏性。
ということで、インクの話は次回に(そない引っ張る話でもないけど)。
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