「筆先三寸」日記再録 2006年1月~2月


2006年1月3日(火)

 新年あけましておめでとうございます。

 私事で恐縮ではありますが、やっとのことで厄年も終わりまして(せやからおっさんいうな)、今年からはなんとかちょっとでもましな人生を送りたいなあ、と天井に映った星々を見上げて心の中でつぶやいております(あれもこれもぜんぶおっぽりだして蒸発でもしちまいてーやべらんめえこんちきしょー、ともつぶやいてるというのはしみつ)
 サイトのほうは今年ももぼちぼちとやっていきますので、旧年に変わらずよろしくご愛顧のほどお願いいたします。

 とまれ、これをお読みの皆様におかれましても、本年がご健康と幸せにあふれたよい年となりますよう心よりお祈り申し上げます。


2006年1月9日(月)

▼ふと、ローカルにあるこのサイト用のフォルダを見てみると、2MBほどしかなかった。6年半もやってきたのに、いまどきの写メ1枚にも負けるサイズ。容量追加の心配なんて今世紀中はなさそうだ。安あがりでいいやな。

▼ともちゃんも楽しみにしていたし、今日が第1回だというので、フジテレビの『西遊記』を30分ほど見てみた。
 こちとら小学校のころから、宇野浩二訳(子ども向け)の西遊記を韋編三絶と言ってよいほど繰り返し読みふけり、虫プロの『悟空の大冒険』は主題歌どころか後テーマまできっちり覚え、夏目雅子の三蔵法師や堺正章の孫悟空にリアルタイムで熱狂した口である。当時の中学校ではどれほどゴダイゴがもてはやされていたことか。
 というわけで、今回の西遊記も期待半分不安半分で見たのだが……
 いや、あの、早い話が、あちゃー、である。

 安っぽいセットと子どもだましの脚本はまあよしとしよう。それはテレビ版西遊記の味といえばいえるからである。
 気に入らないのはキャストだ。
 三蔵法師が深津絵里て。これはもう芝居ができるかどうかより、もっとノーブルな顔の女優を持ってこないと。今なら仲間由紀恵か柴咲コウあたりかな。個人的にはトウはたっているが藤原紀香でいきたい(でかいけど、きっと坊主頭が似合うと思う)。
 メインの三人組もなんだあれ。孫悟空はもっと小柄でキビキビしていてほしい。香取慎吾ではいかんせん大きすぎる。猪八戒がちびノリダーにいたっては論外である。奇を衒ったつもりかもしれないが、これはやはりデブキャラしかないだろう。沙悟浄が内村というのもどうかと思う。ウッチャンが達者なのは認めるが、そもそも思弁系のキャラなので似合わないことはなはだしい。

 というところで、私の考えるベストキャスト(有名どころで)。
 三蔵法師……藤原紀香
 孫悟空………ナイナイ岡村(もしくはキングコング梶原。ほんとの理想はジェット・リー)
 猪八戒………ホンジャマカ石塚(ベタだけど、極楽山本より軽妙な芝居ができそうだ)
 沙悟浄………小籔千豊(吉本新喜劇の若手。なおちゃん推薦)

 うーん、画ヅラも中身もいいと思うんだけど、どうも視聴率は取れそうにないなあ。


2006年1月10日(火)

▼昨日の『西遊記』の話ですが、残りの小1時間をビデオで見て(ともちゃんにせがまれて録画しました)、ちょっと認識を改めました。
「はー、これは孫悟空の物語なんだー」と。
 だから悟空がでかくて、猪八戒がチビなのですね。三蔵法師が感情を表に出すタイプで、悟浄が半端にクール、と。

 でも、やっぱり小籔千豊には、本気で沙悟浄をやらせてみたいなあ(知らない人が多いようなので、Wikipediaにリンク)。

▼つい先日、冬休みの一日。
 サイがともちゃんを連れて買い物に出かける前に、買い物リストを書き出していた。すると、それを見ていたともちゃんも、鉛筆をぐいと握って、メモ帳の切れ端になにやら書きつけはじめたという。
 サイが覗き込むと、どうやらその日の行動予定らしい。
 そのメモを見せてもらったので、ここに写してみる(注釈は引用者)。

(1) かねなしゲームをする  (スーパーにあるゲームキューブの体験コーナーのことらしい)
(2) おかしをかう
(3) いえにかえる
(4) テレビをみる
(5) エクセリュートをする  (最近お気に入りのパズル型フィギュア)
(6) ひま

 「(6) ひま」て!
 きっとやることが思いつかなかったのだろうが、そんな予定ってないぞ。


2006年1月15日(日)

 以前、早川書房から異色作家短編集が新装版で復刊されたという話をちらりと紹介した(去年の10月29日の日記)。もちろん、今のところ順次購入していて、そのたびに通勤電車では至福の時間を味わっている。
 その一方で、今はじめて紹介するが、もうひとつ見逃すことのできない短編アンソロジーが文庫で出ているのである。
 紀田順一郎・東雅夫編『日本怪奇小説傑作集1~3』(創元推理文庫)である。
 リンク先のラインアップを見てもらうとわかると思うが、それはもう、すばらしい目配りの傑作ぞろいである。これまた、電車の座席で読書の快楽を味わいまくりであった。おそらく、編者らが自負するとおり、ある種のマイルストーンというか、日本の怪奇小説を語る上で欠くことのできないアンソロジーとなるだろう。
 といいながら、じつは、「なんか読んだことのある話が多いなあ」と思いながら読んでいた。私は怪奇小説も好きであるとはいえ、決してマニアなどではない。雑誌にしか出てないものや絶版になっているようなものまで、それがいくら傑作であろうと探してまで読むようなことはありえない。
 と思ったところで思い出した。20年以上前に読んだ立風書房の『現代怪談集成 上下』とえらく作品がかぶっているのである。そういや当時、学食の昼飯を節約して買ったんだった。本棚の奥からも発掘に成功した。

 それにしても、短編集やアンソロジーっていいなあ。このごろは長編よりよほど好んで読むようになってきた。年のせいで長いものを読む根気がなくなってきたというわけではないと思うが、作家が自分の才能のもっとも犀利な部分を一閃させて書き上げる短編の味わいというのは格別である。ひねりのあるもの、オチのあるもの、幻想的なもの、磨き抜かれた文章で書き上げられたもの、奇妙な味としかいいようのないもの、エトセトラエトセトラ。
 そんな短編を一息に読み終えて、ほーっとため息をついてしまう瞬間の快感といったら、まあ、「読書の喜びベストテン」の上位にランクインすることは間違いないだろう。


2006年1月19日(木)

「茲数年来の少女漫画を語るならば、『野溜』、『蜂黒』、『七』の三作には触れざるべからずと思えど」
「如何なされた」
「我未だ読むこと叶わざれば。窮乏甚だしき上に、三十余冊も新たに置く場所なきが故に」
「凡夫憐れむべし。其れ妾の所持すれば、貸して遣わすに吝かならず」
「有難き仕合せ。忝し」

 ということで、仕事仲間の優しいお姉さまより、名高き二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社)と羽海野チカ『ハチミツとクローバー』(集英社)をお借りすることができました。
 そこでとりあえず、『のだめ』を一気読みしたわけですが、いやー、面白いやさすが。“のだめ”の素っ頓狂なキャラはもちろん、一方の主役である千秋も申し分なし。脇役もみな魅力的です。加えて、クラシック世界の薀蓄もバッチリで、そこでの才能ある連中の群集劇がこれほど楽しいとは。
 と、絶賛しながら現行13巻(14巻はまだ買ってないらしい)を読んだわけですが、どこか変で個性的と評されもする作品でありながら、漫画界の財産がふんだんに生かされた作品であるなあと好感を持ちました。
 妙な学生たち(と先生)による変な間のユーモアは、『動物のお医者さん』(佐々木倫子)を思い出さないわけにはいられませんし、ダイナミックなコンサートシーンに擬音(描き文字)が一切ない――それでいて豊かな音が鳴り響く――というのは、森脇真末味が『おんなのこ物語』で完成したスタイルの影響でしょう。驚愕時の白目表現は、もちろん『ガラスの仮面』(美内すずえ)です。
 そして、のだめと千秋の妙な関係と切磋琢磨。これってじつは、「天然型天才」と「秀才型天才」のぶつかり合いと考えれば、マンガでは王道の構造なのですね。『ガラスの仮面』しかり、『エースをねらえ!』(山本鈴美香)しかり、『あしたのジョー』(ちばてつや)しかり。最近ではうずまきナルトとうちはサスケの関係もそうです。ただ、その両者が異性で、恋愛まで芽生えるというのが新しいといえるのかもしれません。
 「奇矯なキャラの主人公」にくわえて、「少女マンガのはらはら恋愛」、「少年漫画のダイナミズム」、「高尚っぽいクラシック音楽の世界と薀蓄」、「デッサン力含め基礎のしっかりしたしかも今風の絵柄」、そしてやっぱり作者の才能、とくれば人気の出ないはずがありません。深みにかけるきらいはあるものの、じっさいとても面白いし。

 以下続刊、きっと欠かさず借りて読もうと思います。<買えよ。


2006年1月22日(日)

 昨日、なおちゃんは朝から元気がなかった。午前中はともちゃんを連れて小学校へ遊びに行ってくれたのはいいが、昼前に帰ってきてごろりと横になる。
 そこでお昼は、なおちゃんの希望で、大好物の回転ずしに出かけたのだが、どうもここでも食が進まない。
 どうやら風邪を引いたらしい。インフルエンザでなければいいのだが、と思って熱を測ると38度8分もあった。ここは大事を取って布団に押し込むに如くはない。私は言った。
「布団敷いたるから、おでこに“冷えピタ”貼って、二階で寝てこい」
 ところが、これが不満らしい。ここでええねん、とコタツにもぐり込んで座布団を枕にする。
 そんなもん、寝られへんしのぼせるし、治るもんも治れへんわ、と言ってみても同じである。よく聞くと、下の茶の間にみんないるのに、自分だけひとりで二階で寝るのはさびしい、ということらしい。
 私は、なおちゃんの甘えを叱ることもせず、風邪がひどくなるぞと脅すこともせず、こう説得した。
「あのな、風邪ひいて離れた部屋で寝てるやん。そしたら、向こうの方でテレビの音とか楽しそうな声とか聞こえんねん。ほんで、ああ、みんな楽しそうやなあ、ええなあ、ぼくもテレビ見たいなあ、なんで風邪ひいてしもてんやろ。お母さん来てくれへんかなあ。ヤクルト飲みたいなあ。とか、熱でボーっとしながら、布団の中でうとうとする。そこへ、ほんまに寝てしもて、汗びっしょりで目が覚めて、お母さんにシャツとパンツを替えてもらう。それが、小学生の風邪の醍醐味やないか。お前も、もう5年生やねんから、それくらいちゃんと味おうとかなあかん」
 なおちゃんはそれで納得したのか、ほな寝てくるわ、と二階へ上がっていった。

 おかげで今日はバッチリ回復したようです。子どもの風邪の醍醐味は味わえたのでしょうか。
 ま、とりあえずインフルエンザでなくてよかったって話ですけど。


2006年1月26日(木)

東野圭吾『容疑者Xの献身』(文藝春秋社/1600円)
 新春恒例、「大評判の本格ミステリを読んでみよう」のコーナーである。今年は、『葉桜』や『生首』どころか、「このミス」「週刊文春」「本格ベスト」の三冠王に加えて、直木賞まで取っちゃったというグレートな作品。これだけの受賞を超えるには、あと推理作家協会賞か山周賞あたりを積む以外にないだろう。それか、乱歩賞デビュー作てのを先ヅケしとくか。なんにせよ、これだけ広く大向こうをうならせる作品は空前絶後かもしれない。

 で、作品自体の感想を書く前に断っておくが、私は東野圭吾が嫌いである。とはいえ、法月や綾辻は嫌いではないし、北村や森にいたっては、好きといってもよいかもしれない。いわゆる新本格や国産ミステリを嫌っているわけではないのだ。
 しかしながら、東野圭吾だけはどうも好きになれない。ていうか、新作の評判を聞くたびにチッと舌打ちしてしまう。「このガキ、いつもいつも他人のふんどしで……」と。もちろん、東野圭吾が他人の作品を盗作しているとかパクっているとかいうつもりはない。どの作品も、オリジナルなひねりは否定できないし、ミステリとしてのクオリティは高いし、第一読んで面白い。
 でも私には、その作品が生まれる「インスパイア」の道筋が見えるような気がして、そしてそれがあまり品よくない気がして、どうにもこうにも口の中に苦いものを感じてしまうのである。
 たとえば、現在ドラマ化もされて原作が百二十万部を超えたという『白夜行』。これは、宮部みゆきの『火車』を読んで思いついたに違いないという印象を否定できない。推理作家協会賞受賞を受賞した『秘密』にしても、どうしても「あんたこれ、北村薫の『スキップ』読んで書く気になったやろ」と思ってしまう。
 いろんな作品が、他人の傑作を読んだ上で、「ふーん、面白いなあ。俺も“そういう話”書いてみよう」と考えて書かれているような気がするのである。「“そういう話”なら、俺がもっとうまく書いてみせよう」という、作者の倣岸で不敵な表情を想像してしまうのである。
 盗作だなんだという話ではないので、目くじらを立てる方がおかしいのは承知しているが、ほかの作者のメインアイデアや核となる設定を「ジャンル」と見なしてしまう発想というのは、とても失礼なことなのではないだろうか。
「僕も『レンズマン』みたいなスペースオペラを書こう」、「俺も嵐の山荘で起こる連続殺人事件を書こう」、「私も市井ものの時代小説を書こう」というのならまったく問題はない。それらはすでに「ジャンル」であり、大衆小説作家の多くがそこをスタートにしているに違いないからである。
 しかし、「俺も、最後まで犯人が姿を見せない悲劇的な犯罪のミステリを書こう」とか、「俺も、親と子の心と体が入れ替わる話で家族をテーマにミステリを書いてみよう」というのは、どうも釈然としない。
 だから、いまなお私は、東野圭吾が好きになれない。

 そんなこんなをふまえつつ、『容疑者Xの献身』の感想について。
 なんだかんだいって、作者をちょっと見直したぐらい面白いと感じた。とくに、本格ミステリにふさわしい終幕のどんでん返し。しかも、「え、そんなことまで」というトリックに加えて、そこにいたる天才数学者の、熊田春吉巡査も驚く純粋で力強い想い。犯人の友人である天才物理学者の、断腸の推理。ミステリとしてはもちろん緻密でよくできているし、物語としてもぐぐっと読者に迫るものがある。今回のこの作品ばかりは、私も四冠獲得に異存はない。

 ただし、今回もやっぱり私は思いました。
「お前、ぜったい『DEATH NOTE』読んだやろ!」

※ 注意! 最後の1行には重大な事実誤認が含まれていることがわかりました。2月19日付の日記も合わせてお読みください(2/19追記)


2006年2月2日(木)

▼先日、名のある吹奏楽団のライブを、大きなホールで聞く機会があった。
 素人相手の余興といえばいえる、きちんとしたコンサートではなかったので、「ボギー大佐」や「ユーモレスク」などポピュラーな曲ばかりを演奏してくれたのだが、もちろん技術は一流なのでとても楽しめた。
 そのうちの一曲でのことだが、とある行進曲の最中に指揮者が回れ右をして、突然客席に手拍子を要求しはじめた。私たち観客は調子に乗って(楽しい曲だったのだ)、一斉に手拍子を始めた。指揮者が頭の上で大きく手を打てば大きな音で、胸元で小さく叩けば控えめに。指揮者がすーいっと手を握れば、不意にやめたりして。指揮者は、いろんな動作で私たちの手拍子をコントロールした。
 たった一曲の半分ほどの間だったが、すっごい楽しかった。何百人という観客の手拍子がリズムも正しく、指揮者の腕の振りひとつで、波のようにあるいは風のように景色を変えるのである。そしてそこに自分が交じっているという面白さ。
 「のだめカンタービレ」を読んだばかりだからというのではないが、やっぱり指揮者ってすっごくカッコイイのな。それと、指揮されるって意外と楽しいのな。
 うーん、やっぱり音楽ちょっとでもやっとけばよかったなあ。

「やわらか戦車」hard で loxse な日々より)
 くだらなくかわいい。もちろんとても面白い。キャラビジネスも狙えそうだ。
 作者ページの「くわがたツマミ」ももちろんステキ。

▼なおちゃんは決してそんなことはしないのだが、ともちゃんは気が向くと勝手に電話をかける(主として双方のおばあちゃんに)。
 昨日も、なにを思ったのか突然サイの母に電話をして、「もしもし、ともちゃん。あのな……」と自分のことを好きに話してガチャンと切ったりしていた。
 それで今日、義母からコールバックがあって、ともちゃんの電話はなんだったのかという話になった。
 そこで、ともちゃんを呼んでおばあちゃんに説明させてみた。
「んーと、おばあちゃん、どうしてるかなあと思て……」
 しっかし、貴様どこでそんな処世術を(両親ともそういうことはどうも苦手)。勝手にかけて相手の話も聞かずに切ったくせに。

 なおちゃんはともかく、こいつに携帯電話を持たせると、えらいことになりそうだ(サイもどうやら同意見)。


2006年2月8日(水)

▼去年の暮れに買ったM800の具合がどうも悪い。かなり重点的に使っているのだが、書き出しのかすれ(1行に4、5文字、文字の始筆2mmくらいがどうしてもかすれる)がおさまらない。筆記角度(ペン先が紙に当たる角度)には気をつけているつもりなのだが。
 実際のところ、同じペリカンでもトラディショナルM200あたりだと、同じ症状は見たものの、1週間もしこしこノートを書いてれば、書き出しも滑らかになったのである。
 とりあえず原因は“馬尻”とふんで、素人ながらペン先調整に乗り出した。
 用意したのは、10のルーペと10000番・15000番のラッピングフィルム、研磨剤入り貴金属みがきクロスである。
 ペン先をルーペで見てみると、なるほど馬尻くさい。ぴったり合わさるはずの切り割の内側が、妙に丸くなっている。詳しい説明はしないでおくが、これではインクが紙に当たりにくい道理である。
 そこでまず馬尻を解消するため、10000番のラッピングフィルムでフラットな筆記面を出すことにした。すりすりすりすりすりすりすり。いつもの持ち方で筆圧をなるべくかけずに、8の字を描くこと数十~百回。ルーペで見ると、なんとか馬尻は解消できたように見えた。
 そこで、いつものノートに書いてみた。するとこれが驚き、書き出しのかすれが一気に解決したではないか。少々乱暴に字を書いても、書き出しのかすれはまったく起こらない。やったー。
 と思ったのもつかの間、今度は思いっきり紙に引っかかる感じがする。Bニブなのに、カリカリカリカリカシカシカシカシと紙とこすれる音が異様に高い。なんと指先に紙の抵抗まで感じる。
 これだから素人調整はふんとにもう、切り割に内側のエッジを立てすぎたか、と悔やむことしきりとなった。でもまあ、ペン先の外側が紙とこすれているのかもしれないと思いなおし、15000番のラッピングフィルムと研磨剤入り貴金属みがきクロスで、ペン先の両外側を丸くかつ滑らかになるように削ってみた。

 すると、見事にどんぴしゃ。あの耳障りな筆記音はどこかへ去り、書き出しのかすれもなくなり、もともとのあふれるようなフローとあいまって、一気に理想の1本に昇格したではないか。
 をををー、これは気持ちいい。スタブ風から丸研ぎ気味になったせいで、縦線と横線の表情の違いが薄れてさみしいというのはあるものの、これほどストレスフリーなペン(どころか、つらつらと字を書いているだけで癒される気がする)になるとは。

▼という感じで、とりあえず万年筆ネタでお茶を濁してみたものの、今一番書きたいのは、東横イン問題(と、それをめぐるネットの言説)や、紀子妃殿下御懐妊(皇室典範改正)問題なんだけどなあ。
 その綱領で、「一、われらは愛と正義を否定する。一、われらは問題解決の路を選ばない。」とまで言い切った「青い芝の会」の熾烈極まりなかった闘争なんかとからめながら。
 でも、そんなこと書くと、24時間以内にサイト閉鎖に追い込まれるような気がするので、石橋を叩いて引き返すことにする。
 みんな勝手にいろいろ考えてみよう。


2006年2月9日(木)

 ひさしぶりに思考ダダ漏れ型日記更新ということでひとつ。ていうか、このところ更新意欲も減退中だしちゃんとした日記が書けないのがつらい。アップするたびにリンクにせよ文言にせよ後日微修正しないといけないのは、やはりウェブ日記書きとしては恥ずかしい。かなりメンタル面で低調な時期に入ってるのかもしれない。仕事にしても家庭生活にしても、べつになにがつらいよくない悲しい暗い苦しいいたたまれないというようなことはないし、「かたつむり枝に這い、神空にしろしめす、なべて世はこともなし」とブラウニングの詩の有名な一節をいつも思い出すくらい毎日世界は平和なのに。でも、拳銃だとブローニングなのに、詩人はなんでブラウニングなのかな。バケツとチケットみたいなものか。昔はテケツと書く人もいたそうだけれど。その方が原音っぽくてかっこいいな。ジーパンのリーバイストラウスと人類学者のレヴィ=ストロースも同じだったような気がするが、あれは英仏語の差だし同列ではないか。ところで、さっきの詩は春先にはとてもふさわしいと思う。うちの方ではもう春なのでぼちぼち全編読み返してもいいかもしれない。もちろん今だって寒さは並みの冬以上に厳しいのだけれど、どうも冷たい空気に厚みがなくなったというか、空のずっと上の方は暖かいような気がするとかで、私はおとついあたりから北河内も春になったと確信している。微妙に日も長くなってきて、「日脚伸ぶ」っていう季語も実感するし。季語じゃなくて紀子様については昨日書きかけたが、とりあえず罪のない話題をひとつ。昭和41年生まれは干支が丙午(ひのえうま)にあたり、女子の誕生が極端に少ないことで知られる。なんでも、八百屋お七が丙午の生まれであること(実はちがうっぽい)が俗信の発端らしく、「男を喰い殺す」だの「嫁ぎ先の身上を滅ぼす」だのろくな言われ方をしない。早い話、女子のみに苛烈に作用するマイナスの迷信というわけである。ところが、迷信の総本山というかジャパニーズ原始信仰の親玉というか、その天皇家が旧華族でもない一般家庭からしかも長男より先の恋愛結婚というイレギュラーなテイで迎えた紀子妃殿下が丙午なのである。私はそれを知って、これでクソったれな迷信でからかわれる女性がいなくなると胸のすく思いがしたのだが、サヨクな先輩に「そんなことまで天皇家の権威を借りるのはおかしい」と注意されてげんなりしたのだった。てなことを書いてると、もう10日になって0時も30分以上過ぎたのだが、私はこのところどころかここ数年で6時間以上寝たことは数えるほどしかない(全部、自宅や旅行先での「酔っ払って不覚にも」である)。どうやらナポレオンほどではないにせよ、睡眠時間が短くてすむタイプのようで、サイトを続けたり本を読む時間を捻出したりするのには助かっている。一方、うちのサイは睡眠時間は長いほどいいタイプらしく、最低でも9時間ぐらい寝る方針のようである。今日も9時過ぎには子どもたちと寝についていた。だから余計に私はこんな読者迷惑な文章をしたためていられるのである。ただ、この手の文章を書き始めると続けることよりも終わることのほうが難しい。夜もふけたとはいえ眠くもないし、家族はみんな二階へ上がって寝静まったし、とはいえ深夜一人の部屋でこんなくだらないことを書き続けているのもおかしな話なので、だれか適当に切り上げさせてくれないかなあと思っても誰も起きてくる気配もないし、困ったなあこんなの書くなら徹夜でもできるよこのままじゃ真剣に徹夜してしまいそうだなんてことを思っていると、家族はみんな二階で寝ているはずなのに、不意に誰かが後ろから私の肩をつかんで


2006年2月13日(月)

 新鮮な青ネギを、2把分ほど細かく小口切りにします。どんぶり山盛り一杯が目安です。
 硬めに茹でたジャガイモをさいの目に切っておきます。めんどうな人は、冷凍食品のフライドポテトでもいいです(揚げる前の白いやつをポキポキ折っておく)。
 柔らかく茹でたすじ肉を用意します。これもめんどくさい人は、味がついていてもいいので、コンビニのおでんをばらしてください。
 安物のチクワを薄く刻んでおきます。
 桜えびはお好みで。
 小麦粉を水でサラッと溶きます。ダシで溶いたりしなくてもいいです。まぜてもせいぜい粉末の鰹節くらいにしましょう。
 材料は以上です。

 ご想像のとおり、あとはお好み焼きコースです。
 油を引いた鉄板を熱くして、クレープ風に小麦粉を薄く引きます。すかさずそこに山盛りのネギをぶちまけて、ジャガイモとすじ肉をばらばらっとまぶします。ジャガイモは多くしたほうがいいと思います。チクワはパラパラって感じ。桜えびはパラッ、くらい。
 その上からもう一度、小麦粉の生地をザーッと一面にかけます。さっきより多い目です。で、ゆーっくり十ほど数えてひっくり返します。
 絡みやすいキャベツとちがって、相手は小口切りのネギなので材料が散乱しますが、そんなの気にせず適当にかき集めて形を整えます。

 じきに焼けるので、もっかいひっくり返して火を小さくします。コテで切り分けて、ポン酢(←ココ重要)でいただきます。
 一味とうがらしを少しふってもいいですし、おろしにんにくをつけてもいいと思います。

 これ書いてるの、もう14日の午前1時前なんだけど、腹減ってきたから気を紛らわせるのに書いてみたんだけど、うっわもう、ぜんぜん逆効果だよー。ものっそい喰いたくなってきた。でも今そんなことすると絶対太るし、道具やら粉やら散らかしてると明日絶対サイに怒られるし、それよりなにより明日も仕事なんだからもう寝ないといけないと思う。

 明日(てか今日か)はチョコなんていらんから、誰かこれ焼いて持ってきてくれ。それと生中。


2006年2月19日(日)

▼掲示板で指摘されてわかったのですが(砂時計様ありがとうございます)、『容疑者X』の雑誌連載は、『DEATH NOTE』の連載開始より半年以上早いらしいです。本で確かめてみると、『容疑者X』の雑誌連載が2003年6月号からで、『DEATH NOTE』の連載開始が2004年の第1号だから、まさしくご指摘のとおり。
 だから、このページの上にある1月26日付の日記の最終行は、まったくの言いがかりであることがわかりました。東野さんとファンの方々には申しわけないことをしたなと思います。心からお詫び申し上げます。
 こういうときに迷うのが、テキストの処理です。さっくり削除して口をぬぐって知らんぷりというのがいいのか、説明だけはきちんとして当該テキストは削除というのがいいのか、アップしちゃったものは恥屈辱汚名含めて仕方ないので残したまま言いわけだけ追加するのがいいのか。
 で、今回選択したのが三番目ということになるのですが、もともとのテキストが「誤った事実の流布」という形にはなっていないのでそうしました。あえていうなら「私のスカタンな勘違い」を書いたものなので。
 いずれにしても迂闊な私のミスですので、ひらにご容赦を。

▼だからというわけではないのですが、ちょっと思うところがありまして、今年度いっぱいはインターネットから離れることになります。
 もちろんサイトの更新のみならず、メールも掲示板も(ミクシィとやらも)営業は休ませていただきますのでよろしくお願いします。
 それでは、次回は4月にお会いしましょう。

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