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反魂香

 気がつくと、濃霧のように視界を覆っていた煙が、次第に薄らいできた。薄紫の煙の向こうに人影のようなものが現れて、見慣れた女性の形を成していく。
「由紀恵」
 私は驚愕しつつ、どこか懐かしい思いを感じながら、妻の名を呼んだ。
 リビングのテーブルには、体を丸めて眠る猫の姿をした香炉がひとつ。香炉からは、清々しいような甘いような香りのする煙が一筋、ゆっくりと立ち昇っていた。
 香炉を囲むように四本の蝋燭が灯されていた。それだけの明かりで、いつものリビングが薄暗く神秘的な雰囲気に包まれている。
「あなた。本当にあなたなの」
 由紀恵は、死装束を思わせる真っ白なワンピースを身にまとって、向かい側のソファに座っていた。胸の前で両手の指を祈るように組んでいた。
 私はうなずいた。それよりも、その昔二人で旅行したときに、冗談半分で買った反魂香の力に驚いていた。

 あれは中国でも、河南省の田舎の方だった。観光コースから外れた小さな寺院の、そのまた裏手の土産物屋で、私たちはそれを見つけた。けばけばしい色の人形や飾り物が所狭しと並べられた店先から奥をうかがうと、古ぼけた木製の棚の隅に、その小さな壺はあった。
 今にして思えば、なぜそんなものに気がついたのだろう。薄暗い店の奥で、その小さな調味料入れのような壺だけが、ぼんやりと光が当たっているように見えたのだった。
 私より先に由紀恵が訊いた。
「あれは何?」
 店の老婆は一瞬驚いたような様子を見せたが、身振り手振りを交えて説明してくれた。そして包装紙の余りを切って綴じただけのようなメモ用紙に、筆談のつもりか、先の丸くなった鉛筆で「反魂香」と書いた。
 反魂香なら知っている。落語だか昔話だかで聞いたことがある。香を焚いて、煙とともに死者の魂を呼び出すというやつだ。とはいえ、まさかそんなものが実在するわけがない。おそらく抹香くさい煙が立つ、せいぜい瞑想か何かの役に立つという程度のものだろう。
 そんな話をしてやると、由紀恵はなぜかえらく興味を持って、どうしても買うと言い出した。私はばかばかしいと思ったが、どこかしら面白がる気持ちもあって、結局香炉もいっしょに買うことにした。寺院の土産物屋だから当然と言えば当然なのだが、店には香炉も置いてあり、私たちは金属や青磁の高価なものは避けて、左甚五郎の眠り猫のようなモダンなものを一つ買った。伝説の霊薬と香炉を合わせて千二百円、値切るような値段でもなかった。老婆は礼を言いながら、説明書のようなものなのだろう、中国語の文庫本のような冊子をつけてくれた。
 旅行から帰って、私は、その冊子を座布団がわりに、反魂香の壺と香炉を上に乗せて、書斎の本棚に飾った。
 反魂香は、由紀恵と一度だけ試したことがある。いくらなんでも死んだ親を呼び出すような罰当たりなことはしない。結婚を機に飼いはじめた猫が、腎臓を悪くして死んでしまったのだ。
 真夜中に、小さな炭を熾して香炉に置き、そこに反魂香を少しずつ乗せていった。濛々と立つ煙が薄れたあとに、猫の姿がよみがえるはずだったが、香の匂いが部屋に立ちこめるばかりで、一向にその気配はなかった。老婆にもらった手順書を丁寧に機械翻訳して、日取りの選択も方角の設定も、書かれてある通りにしたはずだったが。
「残念だわ。せめて鳴き声くらい聞きたかったのに」
「人間の魂じゃないとだめなのかな」
「こわいこと言わないで」
 そして反魂香は、再び私の書斎に戻った。

 私は言った。
「やっぱり人間の魂だと呼び出せるんだ」
 由紀恵は薄くほほ笑んだように見えた。
「驚いたわ。反魂香って本当なのね」
 私は壁にかかるカレンダーを見た。
「もう死んで五年になるんだね」
「もっと早く会いたかったわ」
 その言葉だけで、うれしい気持ちがした。私は久しぶりに見る由紀恵の顔を飽かずに眺めた。
「そんなにじろじろ見ちゃ恥ずかしいわ」
「そっちは元気でやってるのか。ぼくの方から元気かっていうのもなんだけど」
「元気よ。一人は一人で気楽なものね。友だちもできたし。あなたの方こそどうなの」
「どうだろう。痛くも辛くもないけれど、君と病気で死に別れてからは、眠ってるんだか起きてるんだか判然としないような気分だ」
 由紀恵は今度ははっきりと笑顔になった。
「なに言ってるの。五年もうとうとしてちゃだめじゃないの」
 昔と変わらない屈託のなさは、私が由紀恵を愛した大きな理由の一つだった。
「子どもがいればよかったのかしら」
「一人でもいればまた違ったかもな。けど、一人で育てるのは大変だよ。結局はこれでよかったのさ」
「そうかな。いれば可愛いと思うけどな」
 由紀恵は壁の時計を見た。
「あら、もうこんな時間」
「ああ。反魂香の切れる時間だ」
 私は目の前で徐々に薄れていく、由紀恵の姿に手を伸ばした。
「君に会えてよかった」
「私もよ、あなた」
「またすぐに反魂香を焚いてくれ」
 もう目は見えない。由紀恵が何か言ったようだが、すでに耳も聞こえない。私の姿は虚空に消え、私の意識は黄泉に帰った。

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筆先三寸/むしまる
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