熱砂に降る雪
「雪の小説1/習作」として、1999年7月23日に公開したもの。それより以前に、今はなき「ゆきのまち幻想文学賞」で佳作かなんかもらった。
アリは乾ききってひび割れた唇をひと舐めした。汗はかくそばから蒸発し、白っぽい塩分となって埃と混じりあい、黒く逞しい身体中を覆っている。こんな暑さは生まれて初めてだ。はるか高くに輝く太陽をちらりと見やって、アリはつぶやいた。
飲み水をいれた皮袋を振ってみたが、持ち重りのするあの柔らかな手応えは、もう何日も前から失われている。アリは暴走する野牛の群れに巻き込まれ血と泥にまみれた肉の塊になって死んだ父の残した槍を小脇に抱えなおした.
群れから離れたカモシカを、村の若い者たちを驚かせ、父がどろどろの肉塊になって死んだ日に生まれた幼い妹を喜ばせるためだけに一人で追うのは、やはり無謀だったかも知れないと思いはじめたのも、すでに幾日も前のことだ。最後の川を後にしてからでさえ、もう五日になる。カモシカの足跡は二日前に見失った。
母の祖父は若いころ村を一人で離れて一頭の獣を追い、今アリが立つのとおそらく同じ砂摸に迷い込んだまま月が幾度も満ち欠けを繰り返す間帰って来なかったという。帰って来たときには老人と見まがう醜い姿になっており、部族内でも屈強の戦士であった肉体は、屍臭を放つまでにやせ衰えていた。だらしなくよだれを垂らし、虚ろな目で意味不明の言葉をわめき散らす母の祖父は、泣いて取りすがる母の祖母を毎日殴りつけては、まだ少女であった母の母まで犯そうとしたという。そのことが知れて、母の祖父は、村の掟に従って手足を打ち折られ豹の住む森に投げ捨てられた。アリは折れた手足で森の中を這いずり回り、大きな豹に喰い殺された母の祖父が祖母を犯したのかどうかは知らない。
アリは周囲を見回したが、昨日から地平線しか見えなくなっていることを思い出し、自分の他に何ひとつ動くもののない風景の中で、ひとり声を上げて笑った。
アリは熱砂の上に座りこみ、腰の袋から干魚を出した。干魚をかじりながら長老のムガジの話を思い出した。小きざみに震える手と白く濁った眼を持つムガジはその盲目の眼をまだ幼いアリたちに向け、西の砂漠には悪魔が住むと話した。遠い昔、わが部族の祖先のひとりである土の神スンガリが、水の神ツヅーや風の神ハサムィの忠告を無視して西の砂漠へ踏み込み、五本の尾と八枚の翼を持つ悪神の怒りに触れ、炎の雷によって立ちながら焼きつくされたという。だからアリの村の周りにはやせた土地しかない。
アリは悪神でもよい、皮袋いつぱいの水とここまで追い続けたカモシカの姿が今ここで手に入るなら、五本の尾と八枚の翼を持つ悪魔でも山羊の蹄を持つその足先に口づけてみせると思つた。しかし、自分の追っていたカモシカが果たして本当にいたのかどうかさえ、今はわからなくなりつつある。
皮袋の底に残ったいやな臭いのする水で唇を湿らせ、アリは立ち上がった。太陽はますます熱く激しく照りつけ、アリの影を熱砂の上に焼き付けている。
アリは川へ戻ろうと決めた。そこで冷たい水に身体をひたし洗い清め、木陰の岩に身を横たえて、この恐ろしい太陽の熱を忘れようと決心した。びちびちはねる魚を捕らえ、涼しい風の吹く川原で焼きたての魚にかぶりつきながら、あの白い女を思い出して自慰に耽ってもよい。その想像は暴カ的なまでに生々しくアリの肉体を突き抜けた。
白い女は大きな鳥に乗ってやって来た。アリはそれまでにも大きな鳥に乗ってやって来る白い人間を見たことがあったが、それは役人と名乗るアリと同じ肌をした人間と一緒に来て、蔑むような眼で村人を見渡し、口も聞かずに帰る男たちだった。
この乾期が始まるとすぐに来た白い女は違った。村のはずれに象でも収まりそうな天幕を張り、大きな音を立てる鉄の道具を山ほど運び込んで暮しはじめたのだ。象牙のように白くなめらかな肌に血のように赤い唇と金色の髪を持った女は、すぐに村人の中に入り込んだ。アリも他の若者同様、白い女の手に触れ、白い女の中に己のまだ若く猛々しい性器を突き入れてみたいと切実に願った
白い女は若者より長老に興味を示していた。とくに、白く濁った眼を持つ盲目のムガジの話ばかり聞きたがった。アリは盲目の長老の小屋に入りびたり、ともすれば一日中、その薄暗くラクダの乳のすえた臭いと老人のかび臭い体臭のこもった小屋に入ったままの白い女を思い、嫉妬と欲望に悩まされた。
白い女はどのようにしてしなびたムガジのものに手を伸ばすのだろう。ムガジの老いさらばえた皺だらけの手は小きざみに震えながらも、どんなふうに白い女の白い乳房をまさぐり、白い女の柔らかな腹を撫でさするのだろう。白い女はかって後家のナムがアリにしてくれたように、白く濁った眼を持つ長老を口に含むのだろうか。アリの欲望はありもしない淫猥な光景を次々と脳裏に映し出した。
ある夜アリは白い女を襲った。タグの妹のニフンを襲ったときのように若者総出ではない。あれは村の日常のこと、いうなれば儀式のようなものだつた。しかしその夜アリはひとりだった。白い女は、血まみれの股間をさらして死んだようになるまでみなに犯し抜かれ、翌朝から一人前の女として扱われるような村の娘ではない。白い女はアリによってのみ貫かれ声を上げさせられるベきだった。
白い女は新月の夜、足音を立てずに天幕に忍びこんだアリを見ても驚かなかった。穏やかな調子でアリに話しかけ、温めたラクダの乳をすすめた。しかし銀色の器は、白い女の意志に逆らうようにかちかちと音を立てていた。アリは無言で白い女を押し倒した。白い女は弱々しく抗うそぶりをみせたが、すぐに力を抜いた。アリは闇の中で白い女を裸にし、張りのある乳房をわしづかみにしたまま強引に腰を押し入れた。白い女はじきに濡れ、苦痛の呻きは泣くような声に変わった。
アリは記憶を振り払うように首を振った。歩く力も失われつつあるのにいきりたつ股間が疎ましかった。砂漠の照り返しがアリの眼を焼き続けている。アリは強く眼をつぶって、大きな甕に入れられ、水鳥に喰い散らかされた魚の臓物ようになって母の待つ小屋に帰って来た父親の槍を握りしめた。ひりつく喉の乾きと今も背を叩き続ける凶暴な陽光とが、アリを蝕みはじめていた。砂漠は見渡すかぎりの蒼穹に覆われ、ぎらぎらと光っている。
アリは白い女の天幕にあった冷たい箱を思い浮ベた。食物を入れたその箱の中は風の神ハサムィの怒りの息よりも冷たく思え、アリを恐れさせた。白い女は今では毎夜になった激しい性交の後でアリに故郷の村の話をした。村には四季というものがあり、冬と呼ばれる季節になると、白い女の村はその箱の中よりも冷たい空気に包まれるという。空は鉛色の雲に覆いつくされたまま、人々は長い間白い白い雪に埋もれた家の中に閉じ込められて暮す。それは死の季節であり、凍てついた風景は人々の生きる意志さえ根こそぎ奪おうとする。雪が消えるころには、厳冬に追いつめられて互いに殺し合い、血の海で凍った死体となって発見される家族も珍しくないという。
雪。アリはその言葉を口に出してみた。白い女に見せられた写真というものに、降りしきるその姿が写っていた。冷たい箱の冷たい白いかけらよりまだ冷たいという羽虫のようなものが画面中を埋めつくしていた。見たこともない白い大地は降り積もった雪のせいらしいが、アリは三年前村を襲ったいイナゴの大群が去ったあとの大量の死骸を思い出した。あの日、従弟のカシムは逃げ遅れて群れの真只中に取り残され、イナゴに耳と眼球を喰い荒らされて気がふれたのだった。
アリは炎熱の中で空を見上げた。喉の中で乾いた舌はふくれ上がり、熱い空気を吸うことさえままならない。雪が降ればよい。アリは思った。冷たく白い雪がこの灼熱の砂摸に降り積もればよい。アリは地画がせり上がって自分の頭を打つ音を聞いた。野牛の蹄で八つ裂きにされ血と泥と肉の塊になつて死んだ父の槍が手から離れた。
雪が降りはじめた。アリの眼は青く澄んだ空から絶え間なく降って来る白い雪を見た。雪はアリの身体に届いた。刺すような冷たさも太陽に灼かれ乾いた汗と砂埃にまみれたアリの黒い肌には心地よい。恐ろしかった太陽の光も熱ももうアリには触れてこない。アリは冷たい雪が身体に降りかかるのを感じながら祖先の霊に感謝した。この雪は村にも降っているのだろう。そして母の小屋を覆い妹の幼い心を驚かせ盲目のムガジを占い盤に釘づけにしているだろう。白い女は故郷を思い出して故郷の恋人を思い出して泣くのだろうかそれとも冷たく白い雪を身体になすりつけて自分を慰めるのだろうか。
アリは冷たい雪に次第に覆われてゆくのを感じながらあまりの冷たさに身体の感覚が奪われてゆくのを感じながら、それでもあの熱い太陽よりは快いと思った。この冷たく白い雪はすべてを許す。掟を破って砂漠に踏み入ったアリを許し、イナゴの大群に襲われて気のふれたカシムを許し、小きざみに震える手と白く濁った眼を持つムガジを許し、野牛の群れに踏み殺された父と父の死んだ夜に生まれた妹を許し、それから半年もたたぬうちに片腕のハバイや飲んだくれのカドルと情交を重ねた母を許し、そしてアリを口で玩び、アリに跨って大きな声を上げた白い女を許す。アリは冷たく白い雪が祖先の霊のなした奇跡であると思いこれが幻であってもよいすベてを許す祖先の霊の意志であればよいと思い、涙を流した。
雪は熱砂の上に降り続けた。
アリが村に還ることはなかったという。
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