男のくせに
2000年1月8日公開
これは自慢になるのかどうかわからないのだが、私はわが子に向かって「男のくせに」と言ったことがない。上の子が生まれてもう五年以上になるが、めそめそしていようがだだをこねようが、「泣くな」あるいは「いいかげんにしろ」とは言っても、「男のくせに」という枕言葉を用いたことはない。
妻とは特に話し合ったことはないが、一度、「男も女も関係ない」と注意して以来、彼女も決して言わなくなった。
だから、友人や知り合いがうちの子どもに向かって「男の子なんだからしっかりしないと」とか、「男は度胸だ」とか言うのを見ると、必要以上にどきどきしてしまう。
それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからない。今日的なモラルとしては正しいと思うのだが、いまだジェンダーの圧力の強い社会にあっては、多少なりとも「男らしさ」についての知識を身につけるのも必要であるような気もする。しかし、今はとりあえずそれらについては保留している。真に必要であればヒギンズやバグリイを読ませればよい。
だから息子たちは今のところ、行動の規範としての「男の子だから」という言葉は持ち合わせていない。
だからといって、私は「男らしさ」として括られる属性を一概に否定するものではない。「強さ」や「たくましさ」、「決断力」や「経済力」などの人間にとっての必要性を否定すべきものではないと考える。それらはやはり、「男にとって」ではなく「人間にとって」必要であると思う。
ただし、「暴力的」とか「支配欲求」とか「女性蔑視」とかのネガティヴな「男らしさ」は唾棄すべきものでしかないと考える。
私は思うのだが、「完成された人間」(というのが大げさなら「よくできた人」でもよい)というものには男も女もない。女性を抑圧する装置としてのジェンダーというものが解消されたあとでも、社会的な性差というものが存在するなら、それは「人格的な完成」に到る「道筋の違い」、「獲得順序の違い」として残るものであろうと思っている。
だから、私は「女らしさ」もすべて否定するつもりはない。「やさしさ」や「こまやかさ」、「やわらかい印象」や「地位関係を必要としない社交性」などは、女性にとってと同様、男性にとっても必要だからと考えるためである。
もちろん、ここでも「弱さ」や「依存性」、「母性神話」などの、女性を抑圧するものとしてしか機能してこなかった「女らしさ」は、認めようとは思わないのだが。
だから、私はある種のフェミニズムやメンズリブの言説には違和感を持つ。既成の「女らしさ」をすべて否定しようとするフェミニズムや、あらゆる「男らしさ」から逃れようとするメンズリブである。盥の水といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかと感じる。
しかし、違和感は持っても反対しようとは思わない。それらが必ずしも「強さ」や「やさしさ」そのものを否定するものであるとは思わないからである。それらが攻撃するものは、おそらくジェンダーと呼ばれる属性そのものではなく、その前に置かれる「男のくせに」や「女のくせに」、「女だから」や「男だから」という言葉のはらむ社会的な圧力なのだろう。
世間が「女らしいこまやかさを身につけなさい」というからフェミニストは反発するのである。「女だからといって手垢のついた『女らしさ』を要求するな」といって。また、世間が「男なら男らしく少々のことではへこたれるな」というから、追い詰められる男の子や父親が生じるのである。
私はこう反発してほしい。「私にこまやかさが必要であるとすれば、がさつであるからであって、女であるからではない」とか、「男でも女でもへこたれるときはへこたれるし、がんばるときはがんばるでいいじゃないか」とか。
子どもの話に戻る。私は親であるから子どもの成長に責任を持つ。だからあらゆるポジティヴな属性を、ジェンダーによらず身につけてほしいと思う。強くてやさしくてこまやかでリーダーシップが取れて愛する人には尽くすと同時に尊敬されるような人間になってほしいと思う。キャッチボールや右ストレートの技術と同時に料理やアイロンも教えてやりたいと思う。
「男のくせに」という言葉は抜きで。決して「男らしさ」を求めずに。
《補足》
上の文章はひとまずの本音ではあるが、必ずしも「よい考え」でないことはすぐに気づくと思う。ひと言で言えば、「ジェンダーを離れてすぐれた人間を目指せ」ということなのだが、「なぜ『すぐれた人間』であらねばならないのか」という懐疑からは自由ではない。
それについては、私自身が中途半端な人間なので、「そんなのべつにつまらない人間でもいいじゃないか」というのも一方の本音としてあるのである。
また、そういう自分を棚に上げて「すぐれた人間」であることを子どもに要求するのは、子どもの人格を抑圧するばかりにならないか、という危惧もある。
それでもやはり、ジェンダーフリーでありながら「男らしく」あることも可能だとも思うのである。
そう、私は混乱している。
これから、子育ての試行錯誤を通して、私も成長できればよいのだが。