「筆先三寸」日記再録 2006年10月~12月

2006年10月11日(水)

▼ジーンズのポケットに入れて持ち歩ける筆記具を探していて、街の文房具屋でLAMY pico(黒)を衝動買いしてしまった。ワンノックでびょんと伸びるアクションがムダに面白いのはともかく、期待してなかったリフィルの具合がとてもいい。LAMYは水性油性を問わず、どうもボールペンのリフィル、すなわちインクの評判が悪いのだけど、pico用の独自リフィルは最後発にふさわしく、かなり研究されていると見た。
 かなり滑らかな書き味で、わざと筆圧をかけずに書いても、かすれることもなければ、先端にインクがたまることもボタ落ちすることもない。性能だけで言えば、パイロットのA-inkに匹敵するかもしれない。
 それにこのペンは、当初の目的に照らしても、収納時は短くなって、両端は丸いしクリップはないしで、ラフな格好のときに持ち歩くには最適なのだが、結局のところ、なんちゅうか、その、定価6000円ってどうよ。

▼文房具で言えば、いまだ理想のノートにめぐり合えない私に、コクヨから期待すべきニュースが。その名も、「キャンパス ハイグレード」!

 帳簿に使用している特厚口の上質紙(100g/㎡)を使用しています。キャンパスノート(ノ-3Aなど)に比べて約3割厚いので裏うつりしにくい仕様です。表面のきめが細かいので表面の平滑性が高く、ひっかかり(筆記する時の、紙と筆記具の接触面における摩擦)が気にならず、インキがにじみにくくなっています。万年筆やサインペンでの筆記に特に適しています。

 な、なんですとー、と言って驚いてもよいノートでありませんか。ツバメノートでさえ、80g/㎡そこそこなのに。
 それが10月10日発売予定らしいので、今日の仕事帰りに梅田で探したのですが、紀伊国屋書店にもジュンク堂のデルタにもヨドバシ梅田にもありませんでした。阪神阪急大丸の梅田三大百貨店こそ行きませんでしたが、もともとこいつらは事務用ノートはからきし弱いのです。
 となると、やっぱり丸善かハンズってことになるのでしょうか。イケマンやシモジマという手もありますが。でも、本町~心斎橋のあたりなんて、次はいつ行けることやら。

▼職場仲間の勧めで、山田玲司『ゼブラーマン 全5巻』(小学館/各巻505円)を一気読み。
 原作が宮藤官九郎ということなんだけど、作者のあとがきによると原作の脚本(哀川翔主演の映画になったやつ)とはずいぶんちがうらしい。ま、映画の方は見てないので、だからどうってことはないし、比べようもない。
 コミックの方は、「現世じゃさえないヒーローオタクのおじさんが、コスプレついでにその気になって……」という、かなりありがちなお話なんだけれど(なんかすっごい既視感)、なんだかんだいって感動したといってもいい。とくに、森野や教頭の最後には胸打たれた。一歩まちがえば島本和彦になるところを、作者はよく踏みこたえたと思う。
 あとあれだ、山田玲司の微妙に小汚い絵って、ぜったいダイナミックプロに関係あると思ってたら、江川達也のアシスタントをやってたらしくてビックリ(by Wikipedia「山田玲司」)。しかも、そのときのチーフが藤島康介って(同)。えええー。


2006年10月16日(月)

 コミックスの第16巻も出たばかりだし、原作のファンとしてはやはりチェックしておかねばなるまいと、『のだめカンタービレ』(フジテレビ)を見てしまった。
 のだめの上野樹里は、かわいいしとてもよくやっている。個人的には、のだめは普段からあんなにホワンホワンしてないと思うけれど、あんな甲高い声でもないとは思うけれど、ああいうのも十分ありだ。この先も楽しみだと思う。
 一方、千秋真一の玉木宏はどうだろう。イメージに合ってるような気もするし、かなりちがうような気もする。はっきりここがと言えない、こう、なんか、微妙なモヤモヤの残るキャストと芝居だった。
 シュトレーゼマンの竹中直人は、面白いけどやりすぎ。この先、Sオケの大成功までは重要な役だけど、ここは日本語の器用な外人で十分だったんじゃないか(デーブ・スペクター以外で)。

 ただ、どうしても気になる点がひとつ。
 オープニングと中ほどに、千秋が火のついた煙草を持つシーンが一回ずつあったんだけど(オープニングのほうは実際に一口吸う)、思わず、
「千秋真一が煙草なんて吸うかよー!」
 と、ともちゃんと顔を見合わせて突っ込んでしまった。
 原作にはもちろんない、ドラマ上必要とは思えない、どうみても不自然なカットには、なんか作為的なものを感じてしまった(バーで振られるシーンでさえ煙草は出てこない)。
 なんでもかんでも陰謀主義的に考えるのはよくないのだが、あのシーンには絶対JTからいくらか出てると思う。もちろん、スポンサーのクレジットにはJTの名前はなかったけど(そんなことすりゃ丸バレだ)、近ごろはおおっぴらに煙草(を吸ってるシーン)のCMができなくなったせいでいろいろあるらしいし。あながち突拍子もない妄想ではないと思うんだけれど。

 いや実際に、JTがスポンサーでクレジットの出るドラマとかじゃ、CMそのものはマナーがどうとか環境ビデオみたいのとかなのに、ドラマの中で役者がパカパカ煙草吸っててなんだかおかしくなるよ。


2006年10月17日(火)

 その昔は、たとえばサディスティック・ミカ・バンドであったり、佐藤奈々子であったり、ジューシィ・フルーツであったり、ややくだっては、ジュディ&マリーであったり、ちょっと日和って大塚愛であったり、人にはあまり大きな声では言えないながら、キャンディボイスでしかもひねくれた女性ボーカルが好きだ(以前の日記でもちらりと書いたことがある)。
 でも、最近は面白いのがないなあ、と嘆いていたら、巨大な鉱脈を発見した。
 四十過ぎてこんな歌ばっかり聞くというのもどうかしていると思うが、ていうか、我ながらかなり危ない領域に足を踏み入れかけているような気もするのだが、どれもこれもアニメ声のきわみで非常にくだらないので、上記サイトで評価の高いやつをひと通り聞いてみた。
 おかげでたいがい脳みそも沸いてきたので、勢いで桃井はるこ(及びUNDER17)のCDを3枚ばかり、iPodに放り込んで通勤の友に聞いている(いいのか大人がそんなことで)。

 で、気づいたのだが、もちろんたとえば、「天罰! エンジェルラビィ」なんてのも、ある意味名曲だとは思うものの、私の求めるものとはどうもちがう。私はキャンディボイスにこだわりながらも、「萌え」を求めているわけではないのだ。「萌え」の表皮の下にある、「毒」や「文学性」に触れたいのだ、きっと。だから、キャンディボイスから外れても、戸川純や椎名林檎に惹かれたりもするのだろう。
 うーん。電波ソングは大鉱脈だと思ったのになあ。電波ソングの圧倒的な「萌え」の質量もすごいけどなあ。もうちょっと「毒」に自覚的ならなあ。
 とりあえず、電波ソングにはまってしまう可能性が消えて、正直ほっとした四十三歳の秋であった。

 それでも、『momo-i quality~ベストオブモモーイ~』中の1曲、「フィギュアになりたい」は、ちょっと泣けたよ。


2006年10月18日(水)

▼あーもー! またやってしもたー!
 とりあえず調べるなりしてから日記を書けばいいものを、適当に思い込みで書くから、またまた恥をかいてしまいました。

 千秋先輩は、コミックス第3巻に喫煙シーンがあるそうです。(掲示板にて報告がありました。いしさん、どうもありがとうございます。)

 じつは、家にあるのは15巻と16巻だけで、第1~14巻は人に借りて読んだので、調べようがなかったのです(姑息な言い訳)。
 でも、千秋はやっぱりサンジや次元みたいな喫煙キャラじゃないし、実際のところほとんど吸ってないんだから、ドラマでもそこはスルーしてほしかったよな。

▼ちょっと前に、NHKの取材で、カメラの前で10分くらいインタビューされたんだけど、結局、1秒も使ってもらえませんでした。なんじゃそらー。

▼仕事に関して。
 「うさぎと亀」の物語でいうと、自分はつくづく「亀」タイプだなあと思う。

 とまあ、聞かれて人前で言うのはここまでなんだけど、そう言うとたいていの人は、「“仕事は早いけれど、油断して下手を打つタイプ”とかじゃなくて、“誠実にコツコツ仕事をこなして、着実に成果を上げるタイプ”なのです」と、言っているものと勘違いしてくれる。
 実のところは、「“自分はゴール目前でも、遅れている同僚を待ってやるタイプ”とかじゃなくて、“自分のためを思っていてくれる仲間でも、寝てるような奴は見殺しにするタイプ”なのです」って言ってるんだけどね。


2006年10月19日(木)

 読まなくてもわかるような「面白い本」は、もうそれだけでげんなりする、ていうか、「どうせ面白いしー」と読む気が失せる、という話はこれまでにも書いた。
 近ごろは金欠のせいで、書店でも文庫の棚しかのぞかないのだが、最近の分に限っても、『イン・ザ・プール』、『文壇アイドル論』、『グロテスク』、『夜のピクニック』、『ジョン平とぼくと』、『楊家将』、etc.etc. と、面白いに決まっている本が目白押しである。
 だからもう、よけいになにがなんだかわかんなくなって、この1ヶ月ほどまったく本を読まずに過ごした。仕方がないので、通勤電車では、ケータイの「みんなのゴルフ」をやったり、買ってもらったばかりのDSで「MOTHER III」をやったりと、なんだか無理やりな時間の潰し方をしていた。

 というところだったのだが、一昨日どうにもがまんできなくなって、旧刊だけどリハビリがてらに、ナンシー関とリリー・フランキーの対談集、『小さなスナック』(文春文庫)てのを買って一気に読んだ。
 二人の名前を見るだけで、そして彼らが対談するというだけで、超をつけてもいいほどくだらなくて面白いことが予見できるし、読み終わったら速攻で他人にやっても惜しくない本だということも想像がついていた。で、事実その通りだったわけだけれども(電車の中で何度も吹き出しそうになった。リリーのぐだぐだ具合といい、ナンシーの突っ込みといい、最高である)、ここに書きたいのは二人の天才についてではない。

 読んでる間は本当に楽しかったし、読み終わった瞬間はやっぱり満足感もあったので、なんかこう、自分でも開き直ることができたような気がする。「べつに面白い本でもいいじゃないか」と。「面白い本の何が悪いんだ」と。
 よーし、これからは面白い本でも気にせずに読むぞー。と、思ったけど、そうなるとまたまた、「バカみたいに本を買う」→「ごっついペースで読む」→「部屋が本であふれかえる」→「サイに叱られる」→「半べそで売るか捨てるかする」、みたいなサイクルが繰り返されることになるような。
 うーん、それはそれでなんだかなあ。


2006年10月22日(日)

 教育パパと思われるのも心外なのだが、ともちゃん向けに、ベネッセの「こどもちゃれんじ」を購読している。ひとつには、お父さん自身が幼少のみぎりに、学研の「かがく」と「がくしゅう」を買ってもらっていて、たいそう楽しみにしていた記憶があるので、その代わりみたいなものである。もうひとつは、夏休みその他における、「かぎっ子のひまつぶし用」に、という意味もある。
 これには毎月、小学2年生向けとはいえ、通信添削用のプリントが一枚ついてくる。これを返送すると、「赤ペン先生」が丸をつけて返してくれるのである。そこには、「がんばりシール」なるものも添えられていて、これはこれで台紙に貼ってためていくと、枚数に応じて文房具や顕微鏡セットなど、いろんな景品をもらえることになっている。ともちゃんは先日、たまりにたまったがんばりシールを、おもちゃの「電子ドラム」に換えてもらっていた(なぜよりによってそんなもんを貴様)。

 というところで、こないだ、10月分のプリントをともちゃんにやらせようとした。
「ともちゃん、もうこれやっときや。今月の分、ぼちぼち出さなあかんのやろ」
 面倒なことはこっそりサボるタイプのともちゃんではあるが、親に言われるとまだまだ素直にいうことを聞く。はーい、と答えてDSを置き、居間のテーブルでプリントに取りかかった。と見せかけて、やっぱりいやになったのか、
「うーんと、二階でしてくるわ」
 と言い残して、プリントをつかんで階段を上がっていった(二階には自分の机がある)。
 どうせ、本棚のマンガでも読み始めて、結局できないのだろうと、サイと顔を見合わせてくすくす笑っていると、二階からともちゃんの声が聞こえてきた。
「……ろばがおもしろがっておいかけてゆくと、みんないえのなかににげこみ、とをぴったりと……」
 どうやら本気で国語の問題に取りかかったらしい。でも、そんな大声で問題を朗読しなくてもいいんじゃないのか。
 そのうち静かになったので、しばらくしてサイが、こっそり様子を見に上がっていった。
「ともちゃん、真面目に机に向かってるなって思って、そーっと見たら、プリントどけて折り紙折ってた」
 2年生なら、どうせそんなこったろう。
 まあ、まだまだ一人じゃさみしいだろうし、折り紙にも飽きたら下りてくるだろうと思っていたら、今度は二階からピアニカの音が聞こえてきた。ぷーぷーぴー、ぷーぷぷー、と意外とちゃんとしたメロディになっている。いやいやいや、でも、今はそうじゃないだろうともちゃん。なぜこのタイミングでわざわざピアニカを取り出している。
 そんなこんなで1時間以上かかったと思うが、とうとうともちゃんが二階から下りてきた。
「おう、できたか。時間かかったなあ」と、笑いをこらえながらプリントを受け取った。ともちゃんは、裏表の算数国語ともバッチリできたと大いばりである。
 と、算数の一問目、引き算の問題はこう回答してあった。
「109-64=37」
 ともちゃーん、ちょっとー、これー、あんたー。


2006年10月23日(月)

 こないだ、ツタヤで「ガキの使い」のDVD(24時間鬼ごっこのやつ)を借りるついでに、アンセブのベストの3枚目を借りた(これでモモーイは4枚制覇)。しかし、それだけではちょっと具合が悪いような気もしたし、最近電波系に偏りすぎなiPodのバランスをとる意味でも、ちゃんとした女性ボーカルを聞いておこうと思って、めったやたらと売れたらしいアンジェラ・アキの「Home」を借りた。

 失敗した。ぜんぜんおもろない。
 なんだろ、この「間に合ってますから感」は。そんな声も、そんなピアノも、そんな曲調も、「もうそんなんはええねん」ていう感じである。
 ひととおり聞いてみて、なんかこう、「今井美樹でええやん」(キーはちがうけど)とか思ってしまった。で、もしそれが坂本龍一プロデュースのピアノ伴奏アルバムなら、そっくりといってよい印象でありながらも、はるかに面白いものなったんじゃないかと、まったく蛇足な想像までさせられた。
 同じように「めっちゃ売れたファースト」でも、宇多田ヒカルとか元ちとせとかはもっと楽しめたのになあ。


2006年10月25日(水)

 もう2年以上前のことになる。ガチャガチャのフィギュアを集めていた私は、久しぶりに難波にある専門店に出かけた。
 そのときも、ずいぶん間を空けての訪問だったので、バンダイHGシリーズの買い逃していたセットを幾組かと、妖怪人間ベムや赤影やハイジの気に入ったのを単品で買い足した。あれこれ選んでいるうちに、小さなプラスティックのカゴはあっという間にフィギュアでいっぱいになり、私はそれをレジに差し出した。
 その店には、ふだんはダフ屋みたいな親父か、チェックのシャツを着たメガネピザの兄ちゃんしかいないのだが、その日はバイトのローテーションの関係か、とてもかわいい女の子がレジにいた。茶髪がふわふわと、堀江由衣みたいな感じである。余計にわかりにくいたとえですまん。
 彼女は、パタパタとクールにレジを打って私に告げた。
「12,080円になります」
 1万円超えてしまった。私は思わず大きく舌打ちをした。
 彼女がはっとしたように顔を上げた。
 私は、あわてて顔の前で手を振った。
「ちゃうねんちゃうねん。うーん、1万こえたかー」
 私は、うめいて頭をかいた。
「ええおっさんがこんなもんに、なんでいっぺんにそない使わないかんのかと思てね」
 彼女は、自分が舌打ちされたのではないのがわかって安心したのか、にっこりと微笑んだ。
「いいじゃないですか。かわいくて」
 彼女はハイジのフィギュアをつまんで言った。私がかわいいわけではないらしい(当たり前だ)。
「パチンコや競馬やったら1万ぐらい一瞬やしな。まあ、よしとしとこかな」
「そうですよー」
 私は金を払い、彼女は紙袋にフィギュアを詰めてくれた。
「ありがとうございました。また来て、いっぱい買ってくださいね」
 彼女は、最後まで親しみを込めた笑顔で見送ってくれた。私も笑顔を返して店を出た。
 けれども、なぜだかその日で憑き物が落ちたらしく、私はそれ以来、ただの一度も自分のためにガチャガチャを回していない。これという理由に思い当たるわけでもないまま、専門店に足を運ぶこともなくなった。
 彼女は今ごろどうしているんだろう。
 ていうか、おかげで私のコレクションも中途半端になってしまって、ダンボールに2箱くらいあるのにそっちのほうがどうしようである。


2006年10月27日(金)

 ペリカンのM800で使っていたセーラーのブルーブラックをとうとうひと瓶使い切ったので、ちょっと目先を変えてみようと、今はプライベート・リザーブのブラックマジック・ブルーを入れている(こないだまでは、そんなややこしいインクに手を出すまいと思っていたはずなのだが、まあ君子豹変すということでひとつよしなに)。モニタじゃあれだけど、ブルーブラックというより超濃紫紺という感じの色で、クリーム色の紙に書くと非常に美しく映える。実店舗じゃ、東急ハンズとかでないと手に入らないのが玉にキズだけど。
 ただこれがとんでもなく裏写りする。セーラーのジェントルやパーカーのクインクもたいがいだったが、それどころではない。パイロットのブルーに匹敵するかそれ以上である。モールスキンに書いたときなんか、油性マジックかと思った。
 というような話はともかく、6月にモンブランの146も手に入れたし、キャップレスも1本買ったし、カーボンインク用の安物も買ったし、もうこれで万年筆はいいやと思っていたのだが、

 まーたこんなん買っちゃったー!

 だって、スケルトンのが一本欲しかったんだもん。軸が透明ってだけならサファリにもプロフィットにもあるけど、あれらはカートリッジとコンバータの両用式で、吸入式はめったにないんだもん。これだって、生産中止だったのがやっとちょびっとだけ復活したんだもん。定価でも1万なんだから安いほうじゃん。って、だれに必死で言いわけしてますか私。
 ちなみに、これを手に入れたのは梅田の阪神百貨店で、私にしては珍しく定価で購入したのだが、やっぱり百貨店だなあというのがその対応。
 ウインドウをのぞいて、「これ見せて」という私に、当然のようにインク瓶にペンをつけて試し書きをすすめてくれる。
 私が、ふうむ、と言っただけで、「もっと細いのも、太いのもございます」と、EFだのMだのBだのを目の前に並べてくれる。もちろん、試し書きのためである。
 私がEFを気に入ったと見ると(もうその時点で、「これください」って言ってた)、「ほかの在庫もございますので」と、頼みもしないのにもう1本EFを持ってきて、インクにつけて差し出す(こっちのほうがずっと書き味が良かった。出してくれてよかった)。
 そりゃもう、いたれりつくせりである。
 買うと決めたペンは、ペン先を一生懸命洗ってくれるし。
 もちろん、それくらいのこと(多種類ニブの試し書きだとか、在庫複数本の試し書きだとか)は、どこだってさせてくれるはずなのだが(させてくれない万年筆屋はパチと踏み倒して差し支えない)、感心したのはこっちが何も言い出さないうちに、次から次へと用意してくれたということである。
 さすがは老舗百貨店。ていうか、万年筆売り場の女性はメーカーから派遣されてる人が多いっていうから、さすがはプロっていうことなのかな。
 とりあえず、せっかくのスケルトン軸だし、きれいなインクを入れたいと思う。グリーンとかターコイズとか。
 さて、どこのがいいんだろう(またまたインク放浪記がはじまるヨカーン)。


2006年10月30日(月)

大西科学『ジョン平とぼくと』(ソフトバンク・クリエイティブ・GA文庫/590円)
 私にとって、ジャッキーさんは新屋さんやキースさんにならぶ雑文サイトの大先輩だったりして、足かけ二世紀にわたって尊敬おくあたわざる存在なわけですが、今回そのサイト名を筆名にして書いた小説もとても面白くて、私はわがことのようにうれしかったりします。
 というわけで、今日読み終わったので感想文。
 この小説は、「ゆるい」をキーワードに語られるのをよく見ます。朝日新聞に出た書評(細谷正充)など、モロにそうでした。ちょっと引用してみます。

 不思議な手ざわりを持つ、新人のデビュー作だ。魔法が日常的に存在する現代日本を、緻密に構築する一方、魔法が苦手な主人公と、その使い魔のキャラクターが、実に“ゆるい”ものになっている。なにしろ使い魔の犬の名前が、ジョン平だ。このセンス、尋常ではない。独自の魅力に溢れた、ファンタジーである。

 まあみんな、主人公の使い魔である犬のジョン平を「ゆるいぬ」と断じた、小川一水の優れた解説に引きずられているところもあるのかもしれません。
 でも、私には、緻密な世界設定や隙のない魔法の設定、にもかかわらずその上に構築される物語の主人公(たち)が持つ「ゆるさ」、あるいは「ダメ具合」というのは、ライトノベルが得意とする「ヒーローやヒロインが大活躍する波乱万丈な物語」に対するアンチテーゼにしか見えません。そういった、安易な類型やモジュールの組み合わせで、耳当たりよく都合よく書かれた物語を決然と拒絶するという作者の矜持は、雑文めかしたあとがきにはっきりと書かれていますし、物語の中でも、使い魔の被害を食い止めた、(驚くべき)3つの秘策にはっきりと現れているような気がします。
 ですからつまり、こうも言えるかもしれません。「この物語は、“ゆるい”のではない、“リアル”なのだ」、と。
 私たちの生きる現実世界の設定の緻密さは、どんなファンタジーも及びません。世界中の物理学者や数学者、哲学者が何百年もかかって、やっとおぼろげながら見えてきた、というところです。さすがは神様というところですが、そこまで完璧な設定世界で、私たちはどんな物語を生きているというのでしょうか。
 なんとなく適当に学校へ行ったり会社へ行ったり、人間関係での苦労や、ニュースを見て舌打ちすることはあっても、まあまあ一日息災に過ごせたと布団に入って一日を終える。べつに世界を救うために戦ったりしてないし、不思議な力を持つわけでも、理不尽には常に刃向かうわけでもありません。
 私たちは、この物語の主人公同様、少しの向上心と多くのダメ要素を持ちながら、日々“ゆるく”暮らしているのです。
 この物語の中では、魔法や使い魔が飛び交いますが、そういう意味で結局のところ、このお話はファンタジーというより、“リアル”な青春小説なのでしょう。

 蛇足ですけど、主人公の一人称ですすむ文体が、もうなんかすっごい“雑文ぐせ”がついてる感じで、それがもうおかしくておかしくて。いつ北見君が、“……だったのです。しくしく。”と書くのかと無駄にはらはらしてしまいました。このへんは、同じく「ぼやきがちな主人公の一人称」で書かれた、「ハルヒ」とははっきりちがうところですね。
 あとそれと、ツンデレの猫とか、賢者風のカラスとか、もちろんぼーっとしたジョン平とか、使い魔がみんなギザカワユスなぁ。


2006年10月31日(火)

 いじめによる子どもたちの自殺が続いていて、本当に胸が痛む。いやマジ、きれいごとじゃなくて、こちとらぼちぼち思春期に入ろうかという子どもを持つ身、新聞記事やニュースを見るたびに涙が出そうになる。
 で、あれだ、これにからんで心底むかつくのが、ボケの校長やスカタンな教育委員会のコメントだ。「いじめは確認できませんでした」、「いじめとの認識はありませんでした」、「いじめが今回の自殺に直結したかどうかは……」、ああだのこうだの、それで責任が軽くなるとでも思ってんのか。子どもが死んでて遺書まであるのに、とりあえず土下座からやろっちゅうねん。お前らまとめて、腹筋二万回および陰毛ふりかけご飯の刑じゃカス。
 最近の岐阜の女子中学生の例とかでも、二転三転したという校長のコメントの報道を見ていて、もちろんはらわたが煮えくり返ったのだが、一方で妙な感想が心に浮かんだ。「田舎もんだなあ、こいつ」と。
 これは仮想の「田舎もん」ということで、リアルな田舎の人や岐阜の人を貶めるつもりは毛頭ないので勘弁してほしいのだが、その場しのぎや責任逃れに終始するお山の大将の組織防衛って、まあ公務員にありがちといわれればそれまでなんだけど、ほんとうに無様だ。
 そして、今日の新聞記事で報道されてたのだが、昨日の国会でもそのへんが話題になり、相変わらず、「国が」、「現場が」、「教育委員会が」、「システムが」、「制度が」と、責任の押し付けあい、ていうか原因の指摘争いみたいなやりとりがあったらしい。

 もうそんなのやめようよ。いじめはなくならないよ、絶対。そこからはじめようよ。
 そもそも、殺人も放火もぜんぜんなくならないんだよ。子どもに限っても、万引きやカツアゲや暴力沙汰は当たり前のようにあるじゃないか。「心の教育」や「民事責任」で、いじめだけがなんでなくなると思うんだ。
 “識者”のみなさんは、自分の子ども時代のこと忘れたのかな。それとも、お上品な私立に通ってて知らなかったのかな。人間には知能指数やテストの成績だけじゃなくて、モラルにも偏差値があるってことを。で、そのモラル偏差値が20台30台って子どもが、ごろごろいることを(もちろん大人にもいるけどそれは別の話)。
 まあ、いじめが「なくならない」というのは言い過ぎかもしれない。「必ず起きる」の方が正しいと思う。そのうえで、子どもをどう守るのか考えましょう、ということだ。

 で、話は元にもどるけれど、とりあえず学校の隠蔽体質をなんとかしよう。でも、これはじつのところ校長が悪いんじゃないから、とおりいっぺんの研修なんかじゃどうにもならない。まず、「いじめはあってはならない。いじめっ子を生んではならない。いじめを生じさせる教師は失格」という、前提から見直さないといけない。
「どんなにいい学校でも、カリスマ先生でも、いじめの発生は防げません。いじめっ子は絶対ひそんでいます。一人見つけたら、30人はいると思ってください。火事やゴキブリと同じです。だから小さな火の元でも卵でも見かけたら、だれであれ、すかさずみんなに協力を仰ぎましょう」
 それでいいと思う。いじめやトラブルの「発生」まで、ぜんぶ学校や先生の責任にするから、まともな先生が苦労するのである。みんな「見て見ぬふり」をしてしまうのである(今日の文章では、いじめに加担するようなクソ教師のことは問題にしていません)。
 そして、教育委員会は評価の軸を変えればいい。
「個々の教師は、いじめを芽の段階から管理職に報告しろ。いじめは学校全体、保護者こみの地域全体で取り組むべき課題だし、対応が早ければ早いほど子どもの被害も小さくてすむ。管理職は、それを全部教育委員会へ上げてこい。現場で抱え込むな。上がってくる“いじめの芽”の数が多いほど校内の風通しとしてプラス評価してやる。マイナス評価は数ではなくて、“いじめの芽”への対応で見る」
 やれシステムだ制度だって、時間や人や予算をかけていじらなくても、そんな感じの風潮にするだけで、ずいぶん変わると思う。

(じつをいうと、大阪って、いじめや校内暴力の認知件数が全国的にも突出してるんだけど、もともとガラが悪いというのも差し引いても、そのへんの風通しのよさによる結果もあるだろうという意味で、そこそこ信頼しているところがあるのだ。)


2006年11月1日(水)

 いや、もうほんま、しょこたん最高。なにが最高って、Youtube さまさまってとこなんだけど、真骨頂はやっぱり、これとそのつづき(リンク切れ。Youtubeに「正しい和田アキ子の作り方(講師:中川翔子)」という動画があった。2023年9月17日註)。腹いたいー。こいつもうほんま、天下の和田アキ子に向かって、なにをやっとんねんなにを。「あんた、バカァ!」て。
 あと、ここにまとまってる「考えるヒトコマ」の、抜群にうまい絵師っぷりもどうよ。あ、絵師っぷりではこっちのがいいかな。
 ほんで、85年生まれのくせに、ブルース・リーヲタで聖子ヲタて。自分のシングルでも無意味なほど歌うまいし。

 というわけで、おもいっきり Youtube その他にリンクをしておりますが、中川翔子ってアイドル史的にはかなり珍しい存在のような気がする。ここまでディープなオタク属性や絵師属性(とくに楳図絵を描くような)なんて、かつてのアイドルなら絶対に事務所に封印されてたはずだもの。


2006年11月4日(土)

▼この日記で、ちょっと前にはモモーイの話を書いて、前回はしょこたんだったわけですが、ええ年したおっさんがなに言うとんねんというような話はさておき、ヲタ系アングラの巨人である前者と、基本的にはオモテの住人である後者が、どこかで激突すれば面白そうだなあと妄想したりもします。そのシーンがもし表のマスコミで取り上げられれば、まるで「ボック vs 猪木」だよなあと妄想もふくらむのですが、それはいくらなんでも欧州の帝王と燃える闘魂に失礼かもしれません。
 でも、どっかのプロデューサーが企画してくれないかなあ、この二人で、「電波アニソンカラオケ50連発」とか、「モモーイの原作をリアルタイムでしょこたんが漫画にしていくコーナー」とか、「二人で朝の3時半にVIP板に突入」とか。25時半からとかの枠で(しかも特番で)いいからさ。

▼「童謡の謎」シリーズで有名な合田道人さんですが、今まで何冊も本を出されていながら、どう考えても謎の多い「森のくまさん」と「やぎさんゆうびん」は扱っておられなくて、「むっふっふ、俺の文章に恐れをなしたか」と、もうほとんど統合を失調する勢いで小鼻をふくらませておったわけですが、今度の新刊、「日本人が知らない外国生まれの童謡の謎」で、とうとう「おおブレネリ」に一章を割いておられます。
 そこで立ち読みしてみたのですが、戦争の話題に結びつける手際といい、そこここに見えるセンテンスといい、私の文章を参考にしたとはいわないまでも、見たにちがいないような文章が散見できて微苦笑しきりというところでした(妄想驀進中)。

▼いじめの話では、「kom's log」このエントリもご覧ください。やっぱりいいなあkmiuraさんってば。


2006年11月5日(日)

 さっき、フジテレビの「平成教育委員会」を見ていて、「給食の時間」を眺めながら思ったことをひとつ。
 今日の料理も見るからに金がかかっててすごかった。「広島大田川の天然の子持ち鮎の塩焼きに山ほど松茸の入ったあんをかけたもの」、「京都丹波産の松茸と飛騨牛のしゃぶしゃぶ」、「トリュフ山盛りの混ぜご飯」などである。そりゃうまいだろうというようなものばかりだったし、出演者ももだえんばかりの表情で堪能していた。
 で、この場面を見ていて、心の底から思った。「なんかすごい下品だ」と。
 だいたいこの、安倍首相まで来るという店の料理人とやらが、ものの値段や講釈を声高に言うという品のない野郎だったのだが、下品だと感じたのはそれではない。金にあかせてかき集めたような高価な食材を口いっぱいにほおばって、そしてそれをみんなで喜ぶ、ありがたがる姿に、なんともやりきれないような下品さを感じたのである。
 もちろんこれは貧乏人のひがみではないし、どこぞのPTAが言いそうな「世界には飢えた子どもたちが……」などという寝言を言うつもりもない。
 うーん、下品だなんていうから角が立つのかもしれない。早い話が、「そりゃ、江戸っ子の粋とは対極ってもんでしょう。野暮も野暮、野暮の骨頂ってとこじゃないですか」みたいなニュアンスである。私は江戸っ子じゃないけれど。
 あんなものは、料亭遊びの折に、亭主の洒落でちょこっと出されて、「うめえもんだね、こうして贅沢に食うとやっぱり」と気恥ずかしげにつぶやいてみせるようなもんだろう。自慢げに店のメニューに載せるべきものでは決してないし、大枚はたいて食ってありがたがるような、そして吹聴するようなものでもないと思う。

 よく似た話になるが、私はトロの握りも、なんかこう下品な気がして平気な顔では頼めない。
 そもそも江戸前の握り寿司が生まれたころ、マグロは「下魚」であって、決して高級な食材ではなかったんだし、しかも脂身なんてのは、食えたもんじゃないとして捨てるところだったのである。というような、ガチだかガセだかわかんないネタ(たぶんガチ)を耳にしたおかげか、トロはもちろんうまいのはうまいんだけど、どうも喜んで食べるのには抵抗がある。
 で、最近やっと適切な例に気づいたのだが、トロってすき焼きに使う牛の脂身、鍋の底に残ったあれを食ってる気になるのである。あれも、脂身が平気なら本当にうまいし、でもいくつも食べるもんじゃないし、もとより品がない。私としては、ぴったり印象が重なるのだ。
 だから、気取った寿司屋で続けてトロを頼むやつとか、そのトロを一貫二千円とかで出してくる店だとか、もうほんと、雷でも落としてやりたくなる。

 と、ここまで書いてみたものの、今日の話はどこまで共感が得られるか自信がなくなってきた。
 でも、うまく言えないけど、「金にあかせば食えるようなものを、金にあかせて食う」という行為の、“いやしさ”みたいなのだけでもわかってほしいなあ。


2006年11月7日(火)

 見つけたー! やっと見つけたー、「コクヨ キャンパス ハイグレード」!
 先週、絶対入手してやると意気込んで、堺筋本町のイケマンから心斎橋へ出て、そごうの丸善、東急ハンズ、ロフトにカワチとめぐり歩いても見つからなかったのに。今日、ふと立ち寄った新大阪の小ぶりな文房具屋で見つけてしまった。
 でも、B罫30枚のが3冊とA罫30枚のが1冊しかなかったので、とりあえずA罫のを買って帰った。

 いやー、これはいい。すばらしい。
 まず、とてもとても平滑で、万年筆の書き味がいい。LIFEの「VINCENT」シリーズ(ダブルリングしかない)や、MARUMANのカバーノート(すごく裏写りする)に勝るとも劣らない。
 そして、ここが重要なのだが、まったくといっていいほど裏写りしない。手持ちのインクの中でも、裏写りして困っているプライベートリザーブを使ってもびくともしない。ぐりぐりと丸や四角を塗りつぶしても、裏には抜けてこない。
 ついで、インクのにじみがない。フローのいいインクでも、描線がくっきりシャープで気持ちがいい。悪筆な私ではあるが、撥ねも払いも思うように書ける(気がする)。
 あと、紙の厚みがあって手ごたえがいいとか、罫線の色も薄くてじゃまにならないとか、いいことずくめである。安いし。
 これで、U罫(8mm罫)50枚を見かけたら、10冊くらいいっぺんに買ってしまいそうだ。

 欠点はないに等しいが、あえていうなら、紙面の平滑さとにじみにくさを担保している、「繊維の稠密さ」が鉛筆やシャーペンに対しては、若干裏目に出たかもしれない。平滑さは芯の滑りやすさでもあって、どうも書きにくい(芯の粉体がのりにくい)気がする。そのぶん、鉛筆の線は消しゴムでとてもよく消えるんだけど。
 おなじく、にじまない「稠密さ」のおかげで、インクが少し乾きにくい(紙自身の吸い込み量が少ない)気がする。とはいえ、間違いなく短時間で乾くし、横書きならさほど気になるレベルではない。

 そんな感じかな。これで、用紙がクリーム色で、モールスキンみたいに軽く180度開く綴じ方なら、百冊くらいまとめ買いして、一生これでいくんだけど。


2006年11月8日(水)

町田康『パンク侍、斬られて候』(角川文庫/629円) について、その1。

 すごい。めちゃめちゃすごい。解説で、高橋源一郎が絶賛(一部引用は下の通り)しているけれど、それどころじゃない。

「古き善き時代」の言葉たちが、おぞましい現代の言葉たちと合流した瞬間、奇蹟が起こった。誰もが口にすることさえなくなっていた「希望」が、あるいは「未来」というものの可能性が見えたのである。

 この解説には、時代小説の言葉を“現在”にぶちまけて、それをもう一度構築しなおした言語芸術の光輝の眩しさ、みたいなことが書かれているような気がするのだが、この小説の凄みは雑多かつ精緻なその言語世界にとどまらない。
 とにかく、少なくともこの十年ほど、読んでいてこんなにショックや戦慄を感じた小説はない。感動でもなく、興奮でもなく、もちろん恐怖でもないにもかかわらず、鳥肌を立てて涙ぐんでしまう読書体験など、生まれて初めてかもしれない。

 単行本で出た当初からあちこちで話題になっていた小説なのに、なにをいまさらと思う向きもあろうかと思う。それはもうほんとうに自分の不明を恥じざるを得ない。元版が刊行された当時、私は冒頭をパラパラと立ち読みして思ってしまったのである。「そうやすやすと筒井を超えられるものか」と。
 いうまでもなく、筒井康隆には、「村井長庵」や「万延元年のラグビー」、「空飛ぶ表具屋」などをはじめ、(ドタバタも含めて)時代小説の傑作が数多くある。くわえて、その名の通り「時代小説」という、恐ろしく実験的な傑作短編もある。それで私は、不覚にも早合点して、「それを長編でやられてもなあ」と思ったのである。

 話は変わって、1988年6月のことである(読書ノートをつけているとこんな風に時期が特定できて便利。この4月に私は就職したのだった)。私は評判になりつつあった、吉本ばなな(現よしもとばなな)の『キッチン』を読んで、軽いショックを受けたことを覚えている。斉藤美奈子によると当時吉本ばななとコバルト文庫を結びつけた批評はほとんどなかったそうなのだが、守備範囲だけはめったやたらと広かった私は、日記帳にこう書きつけた。
「吉本ばななはこの作品で、新井素子がいくら書き続けてもたどり着けなかった場所へ、あっさりと到達している気がする」

 今回も私は似た感想を持った。しかし、今回の比較対照は、新井素子とは比べようもない、私が敬愛してやまない現代文学の巨人である。そんな感想を持つことすら恐れ多いような気がして、どうもここに書くのがはばかられるのだが、えーい、感じたものは仕方がない。私はこう感じた。
「この作品で、町田康は、石川淳を超えたかもしれない」

(この項続く。次回はいつになるかわからないけど、とりあえず『至福千年』と『狂風記』くらいは読み返しておかないと。)


2006年11月9日(木)

▼昨日今日と、私は一日中不機嫌な表情で、職場の皆様にはご迷惑をかけておりますが、たんに口内炎が痛いだけですのでお気遣いは無用に願います。
 というところで、さっき薬箱に口内炎用のパッチを見つけて(そういえば、なおちゃんのために買ったのだった)、唇をむにーっと引っぱって貼り付けたらあら不思議、痛みがぴたっと収まったではありませんか。なんという即効性かこれは。ていうか、口内炎が痛いのは炎症そのものではなくて、しょっちゅう当たる歯や舌先のせいでしかないということなのでしょう。
 でも、このパッチってば、ちゃんと効くかどうかより、口の中に貼ってもぜんぜんはがれないところが一番すごいと思う。

▼三崎亜記原作の、『となり町戦争』が映画化されるらしい。
 なんと、原田知世が香西さん! やられたー! そうきたかー。
 私は、香西さんはもっとクールビューティー系の、たとえば地味な芝居をするときの釈由美子や中谷美紀みたいなタイプを想像していた。あるいは、石田ゆり子みたいな、生真面目でつかみどころがない系の美人を。
 でもそこへ、原田知世! かつて80年代に「究極の選択」が大流行したとき、「原田知世みたいな男と、小錦みたいな女と、するならどっち?」とまで言われた、時をかける少女! そうかその手があったか、と私は膝を叩き天を仰いで、プロデューサーの慧眼を讃えた。
 今となってはちょっとトウはたっているものの、真面目で素直でおっとりしたところもあって、なにより地方都市の女子公務員。これ以上のキャスティングは、ちょっと思いつかない。
 にもかかわらず、主人公が江口洋介! これはちがうだろう。この年でこの顔でこのガタイじゃ、アクション映画になっちゃうよ。だめだめ、これはまったく的外れ。ここは、巻き込まれ型の基本ヘタレ属性のキャラ(のできる男優)でなきゃ。伊藤淳史とか伊藤英明とか佐藤隆太とか金子昇とか(TOKIOの誰かでもいいや)。
 でも、この映画が面白くなるかどうかは、やっぱり監督(と脚本)次第だと思う。原作が、不条理戦争小説ではなく、もちろん市街戦小説では決してなく、反戦小説ですらなく、ただの公務員パロディだってことさえつかんでてくれれば(そういう意味で、愛媛県東温市の全面協力にはちょっと期待)。


2006年11月12日(日)

 北九州で、校内のいじめ(による恐喝)を「金銭トラブル」と市教委に報告していたことで指弾された校長が自殺した。
 昨日のニュースで記者会見の映像を見たときは、私もやっぱり、死ねとは思わないまでも、またかこのクソボケカス全躯保妻子のクズ野郎、と思ったわけですが、自殺の報にふれるとさすがに同情を禁じえません。家族もいるのに、なにも死ぬことはないのに、それほど思いつめるなら、泣いて謝ればよかったじゃん、それがいやなら退職すればよかったじゃん、蒸発すればよかったじゃん、それをなにも首をつらなくても、と。
 いじめによる子どもの自殺についても同じです。逃げればよかったのに、休めばよかったのに、大人に助けを求めればよかったのに、とにかく死ぬなんてなんて悲しい選択を、などと思ってしまいます。
 そして、たしかにそう思いつつ、そんな思いをどうしても捨てきれないまま、同時にそんな考えが本当に浅はかであることを知る自分がいます。

 そういったやりきれないニュースにふれるたびに思い出す映像があります。
 それは何かの特番でした。「世界の衝撃の映像!」みたいなやつだったと思います。カーレースの車が舞い上がって観客席に飛び込むような事故の映像や、曲技飛行中のセスナ機が墜落する映像、強盗が店員に向かって発砲する防犯カメラの映像などが、次から次へと紹介される番組でした。いまも年に一回や二回は、どこかのテレビ局でやってるようなやつです。
 その映像は、とても記憶があいまいなのですが、南米のどこかの都市のホテルだかマンションだかの火災のニュースだったと思います。
 その建物はかなりの高さのビルでしたが、内側から派手に燃えているようでした。そして、たぶん部屋まで炎が回ってきたのでしょう、見上げるような高さの窓に、中にいたとおぼしき人が、外からしがみつくようにして張りついていました。それも何人も何人も。いくつもの窓の外側で。
 私はその画を見ながら、「ひゃーこえー、でも消火活動は始まってるし、はしご車もいるし、もう少しの辛抱だ、がんばれ!」と思っていました。 にもかかわらず、ほんの数秒後、画面の中のその人々は、高い窓の上から次々と飛び降りていったのです。並みの高さではありません。そんなもの、一秒後には確実にまっ赤なトマトです。
 私は心の中で叫びました。「えー! なんで飛ぶねん! その高さで助かると思うんか! ちょっとくらい火傷しても、じきに助かるの見えてるやんけ。あとちょっとくらいがまんせえよ」
 でも、その人たちは飛んでしまいました。死ぬ気などなかったはずなのに。生きのびたかったはずなのに。100%死ぬことがわかってる高さから飛んでしまいました。しがみつく手すりの熱さや、迫り来る炎の恐怖に追われて。

 自殺とは、本来そういうものなのかもしれません。
 私たちはいとも簡単に「死ぬくらいなら、○○すればいいのに」と思ってしまいますが、本人にとってはおそらく、「○○するくらいなら、死ぬ方が楽」なのです。その○○が、他人にはどれほどたやすいものに見えようとも。
 今度の校長でも、「説明して、謝って、つるし上げ食らって、謝って、教育委員会に報告して、謝って、マスコミに手ひどく扱われて、家族にも白い目で見られそうだし、学校でも立場ないし、……うぁー、もうー」となったのではないかと想像します。そして、そんなことどもを引き受ける苦痛に比べれば、あるいは逃げ出して卑怯者呼ばわりされるよりは、と思ったのではないかと。
 いじめられた子どもも然りです。「学校へ行けばまたいじめられる。親に言うと、説明しないといけないし、心配かけるし、逆に責められるかもしれないし、自分がいじめられるような子どもだってのを打ち明けることになるし、学校で問題になってもあの連中とは顔合わさないといけないし、先生はシカトするし、やっぱりいじめられてる自分と向き合うのもきついし、とにかく毎日のいじめでもうぼろぼろだよ」となったような気がします。それはもう、真っ赤に焼けた手すりにつかまっているようなものです。がまんできずに手を離したからといってだれが責められましょう。

 とにかく私は、今後も「なにも死ななくても、いくらでもほかに……」と思ってしまうでしょう。思ってしまうでしょうがしかし、安易に口に出すのは控えようと思います。自殺を選んだ人にとっては、死ぬより簡単な「ほかの手段」なんて、きっとどこにもなかったのです。


2006年11月13日(月)

 岐阜では県庁の部長さんが、大阪で中学1年生が、埼玉では中学3年生が。新聞を読むのもつらい自殺のニュースが続いています。

 というところで、自殺の話の続きです。
 自殺とは、「自分の生命肉体を捨ててまで、自我を守ろうとする営みである」と喝破したのは岸田秀ですが、苦しみに追い詰められた人が死ぬ以外の方法を見つけられない理由はそこにあります。
 私たちはよく、「自殺するくらいなら、〇〇すればいいじゃん」と言いがちなことは昨日書きました。
 でも、実はその言葉は、いくらかの思いやりや許しを含んだ声かけでもなんでもなく、ただの「結果論」でしかないのです。
 たとえばここに、仕事の不始末の責任を取って退職した(させられた)人がいるとします。あるいは後始末も含めて、すべてほっぽらかして逃げた人がいるとします。
 私たちは、その人がどれほど苦しんだのかなんて見ようとしませんし、また努力しても見えるものではありません。私たちにとってその人は、「不始末がばれてクビになった人」であり、「責任もとらずに逃げた卑怯者」でしかありません。「自殺せずにがんばった人」などでは決してないのです。その人がいくら、「そうしなければ、私は死ぬしかなかったのです」と涙を流して言い張ろうと、私たちは鼻先であざ笑い、指を差してののしることでしょう。
 いじめられっ子もそうです。なんとか自殺を思いとどまって、必死の思いでほかの手段をとったとしても、そこに現れるのは、「親や先生にチクるやつ」や「ただの不登校」、あるいは「やりかえせずに逃げる一方のヘタレ」でしかありません。だれも、「自殺しなくてよくがんばってる」とは思ってくれません。
 自殺する人間は、だれよりもそのことをよくわかっているのです。
 ひとりで立ち向かうには厳しすぎる状況の中で、ダメのクズのと呼ばれることなく、「自分」として「自分」を守るには、すべてを抱えたまま死ぬしかないのです。

 だから、「死ぬ気だったら、なんだってできるじゃん」なんて、深く考えずに言ってはいけません。
 逃げ回る人や隠れたがる人を、うかつに責めてはいけません。
 20代のころ、ガチの遺書を書いたことのある私からのお願いです。


2006年11月15日(水)

 これがいわゆる「バカ調査」なのかどうかは、原ペーパーを読んでないので判断のしようがないのだが、全国の高校生7200人を対象に行ったということなので、かなり気合と金をかけたものだったのだろう。というところで、新聞記事を3本ばかりご紹介。

「親友いない女子高生、精神的にいじめた経験2倍」(産経新聞)
「精神的いじめ、加害・被害4割が両方経験――京大など高2調査 立場、頻繁入れ替わり」(読売新聞)
「いじめ加害者・被害者、容易に変化 京大助教授が調査」(朝日新聞)

 これらの記事から読み取れる結論は、「類は友を呼ぶ」と「いじめはバカの仕業」の2点である。
 前者については、朝日新聞の「いじめたことのある子がいじめられた確率は、いじめたことのない子がいじめられた確率より、小学校時代は7~9倍、高校時代で16~17倍高かった。」から容易に類推できる。「そういう連中」は、小さいころから「そういう空間」で過ごすのであるし、「そういう高校」へ行くということである。高校で確率がはね上がるのは、偏差値で輪切りにされた結果、いじめっ子が行くような高校ではバカ度が煮詰まるのかもしれない。
 後者については、これも朝日新聞の「また、1日のテレビ視聴が1時間以内の子に比べ、4時間以上の子がいじめをした経験は、高校男子で1.2倍、同女子で1.4倍多かった。ゲームの時間や携帯電話のメール交換頻度でも同じ傾向が出た。」からわかる。これは、ゲームやメールが直接作用しているわけではない。テレビやゲームやメールに対して自制の効かない人間が、いじめるという行為に対しても自己をコントロールできない、という話に過ぎない。あるいは、ゲームやメール以外で、幅広くお楽しみやストレス解消の手段を持つ者はいじめを行いにくい、ということかもしれない。
 これらの記事のうちで、とりあえず示唆に富むのは、産経新聞の、

 高校生で「精神的いじめ」をした場合の、学校や家庭での人間関係を調査。「心から信じられる友達がいるか」との問いに「いない」と答えた子は「いる」に比べ女子は2倍、男子も1.3倍いじめた経験が多かった。同様に「真剣に話を聞いてくれる先生がいない」子は「いる」に比べ男子で1.7倍、女子で1.6倍、「親が真剣に話を聞いてくれない」子は聞く場合より男子で1.7倍、女子で1.9倍いじめた経験を持っていた。

 だろう。これらの差が統計的に有意かどうかは注意が必要にしても、「周囲とのよい人間関係に恵まれた人間は、いじめることが少ない」と見てよい。
 というわけで、私が感じた、子どもがいじめる側に立つことのないよう注意すべきこと。

  •  お楽しみやストレス解消の手段は、バリエーションを広く持ちましょう。

  •  快楽に対する自制心を身につけましょう。

  •  いい友だちをつくりましょう。

  •  周囲の大人は、見守り、寄り添う気持ちを持ちましょう。

 こう並べると、なんか当たり前の結論だな。
 ただ、うちの子どもたちには、付け加えて言いたい。「たとえ、いじめに手を貸さなくても、拱手傍観も同罪である」と。


2006年11月16日(木)

 え゙ー!! 藤原紀香が陣内智則と結婚!
 ええー、もうなんかあかんわそんなん。マシューと乙葉とか、キム兄と辺見えみりとか、芸人の結婚では意外な組み合わせが続いてるけど、ケタちがいの「なんじゃそら感」である。
 藤原紀香は、ぜったいミルコみたいなんと一緒になると思てたのに。ていうか、ならなあかんのに。
 だって、陣内がまん中にいて、たむけんとかほっしゃんとかケンコバとか芸人仲間で集まってるところに、藤原紀香がお茶出したりするんか? なんかぜったいおかしいて、その画。陣内が家に帰ったら、おかえりーて藤原紀香がおんねんで。レオパレスのCMかっちゅうねん。

 とにかく、べつに藤原紀香のファンでもなんでもないのに、なんかごっついくやしい気がするのはなぜ(あとそれと、神田うのの結婚ニュースも、押尾学×矢田亜希子の入籍ニュースも、吹っ飛んでうれしい気がするのはなぜ)。


2006年11月20日(月)

 こないだから風邪を引いてて、金曜日なんてノドチンコが腫れあがるという珍しい経験までしてしまった。本人としては喉が痛くて仕方がないんだけど、やっぱり気になって舌で探ってみると、喉の奥に皮をむいたブドウの粒がぶら下がってるみたいな感じがして面白かったりして。
 そして、土曜日は前々からの予定だったこともあり、家族で私の実家へ泊りがけで遊びに行ったのだが、もちろん私は熱もあるし、ぐんにゃり&ごろごろしていた。ところが、問題は昨日の帰りぎわである。
「なあ、帰りに梅田で買い物せえへん?」
「なんでやねんな。おれ風邪ひいてしんどい言うてんのに」
「デジカメ買ったげるから」
「行く行く行きます、ほら風邪なおった、今なおった、めっちゃなおった」

 今持ってるデジカメはちょっと前ので、400万画素ってのはまだしも、手ブレ補正が普及する前の機械なので、室内ではつらかったのである。とくに、体育館やホールなどでの、ちょっと離れた被写体はほとんどあきらめないといけなかったのだ。
 そんでもって、やっぱり手ブレ補正ならパナソニックだろうってことで、LX-2に即決。コンタのT2やライカのミニルックスにも通じる、レンズ部の突き出したかっちりとしたデザイン、そのおかげによるレンズ周りの高スペックが気に入った。あと、手でさわれるスイッチ類が多いところとか、オールマニュアルで扱うことも織り込みずみだとか、数寄者向けの仕様も好ましい。あゆとやらが宣伝している女子供向けのモデルとは大違いである(実はそんなに違わない)。ヨドバシのポイントも15%還元で大満足。
 そのあと、サイの買い物につき合わされたのだが、こっちもたいてい疲れてきたところへ、大変な人ごみの百貨店の中を行ったり来たり、これがつらかった。子どもたちは、途中のフロアにあったベンチに放置してきたままである。
「何をさがしてんねん」
「ん? コートやねんけど」
「まあ、これから寒なるけどなあ」
「ちゃうねん、寒いときに着るやつはあるねん。なおちゃんの卒業式に着ていくやつ」
 ええー、おまえそんなん、まだごっつい先の話やん。そんなん、正月過ぎのバーゲンで買うたらええやん。
 もちろん、いつものようにそんな私の主張は容れられず、サイは欲求を貫徹して、希望どおりのコートを購入あそばされました。
 そのままでかい紙袋を抱えて、子どもたちをピックアップに行くと、二人してベンチでのびのびゲームボーイをしてやがりました。そして、家族みんなで梅田で晩ごはんを食べて帰りましたとさ。めでたしめでたし。

 って、ちゃうわー! なに、めでたしめでたしで結んでんねん! 今日になっても、おれひとりぜんぜん風邪なおってへんのんじゃー。朝から晩遅うまで仕事やったのにー。喉痛いし、頭痛いし、寒気するし、もうほんま、わややっちゅうねん。明日も昼からじゃまくさい会議あるのに。
 どっとはらい。< いや、それもそれやし。


2006年11月23日(木)

 こないだも書いたけど、藤原紀香って別にファンでもなくて、「大奥」も「だめんず」もどうでもいいんだけど、これ見ちゃって(YouTubeはリンク切れ。藤本敏史回を紹介した記憶あり。2023年9月17日註)。

 どんだけかわいらしいねん。やっばー、そら陣内も惚れるわ。


2006年11月28日(火)

▼先週買ったデジカメは、早速こないだの土曜日に出番があって、体育館で行われた仕事関係のイベントで100枚ほど撮った。
 いやあ、たいしたもんだ、手ブレ補正。屋内でズーム使ってるのに、ノーフラッシュでもほとんどぶれない。相手がジャンプしたり踊ったりしてるしてるときはさすがに注意が必要だが、普通に動いている分には、肉眼で見ているほどの明るさのまま、ぴしゃっと止めて撮れる。
 前のデジカメ買って数年しかたってないけど、無理して買った値打ちはあった。思わず予備のバッテリーまで買ってしまった。
 で、今度はこれにどんな要素が加われば買い替えを考えるんだろうと思うのだが、(単純な画素数を別として)あと考えられる要素としては、「明るいレンズ」、「早いシャッター」、「でかいCCD」くらいしかないので、コンパクト機ではもうすでにこれが限度だろう。
 F値の小さいレンズと1/8000secのシャッターなら、すでに35mmの1眼レフがあるので、この先買い替えるとしたらどちらかが壊れたときくらいのような気がする。

▼もの買った話が続いて恐縮な気がするけど、じつは先週、とうとう高圧洗浄機まで買ってしまった。ホームセンターでよく見かける家庭用のやつでも最低1万5、6千円ほどするので今まで躊躇していたのだが、中国製ながら1万円を切るのを見つけたので思わず買ってしまったのだ。
 日曜日に半日かけて使ってみたが、これすごい。ほんとすごい。門柱なんて、「え、こんな色やったんか!」みたいな感じである。ブロック塀にせよ、ガレージのコンクリートにせよ、これまでデッキブラシでへとへとになるまでこすってもきれいにならなかったのが、ブシュシュシューと一瞬で見違えるようになる。向かいのおじさんまで、「ほお、きれいになるもんですなあ」とわざわざ見にきたくらいである。これならきっと、車のホイール洗いとか庭石の苔落としとか自転車のドライブトレインの汚れ取りとかで、ものすごい威力を発揮すると思う。
 一戸建て住民は全員買うように(作動音が洒落にならないくらいうるさいけど。年に何度も使うもんじゃないけど。ホースをのぞいても掃除機くらいあるのでえらく邪魔になるけど)。

▼アンビシャスカードは、クラシックパスを使う手順は初心者にはあまりオススメできません(トップチェンジやパームも)。前田知洋さんでさえ使ってなかったと思います。ふじいあきらさんは、クライマックスでびっくりするほどエレガントなクラパスを見せてくれますが。
 最初はやっぱり、「フォールスシャッフル→ダブルリフト→ティルト→ダブルリフト→そのまま曲げて、トップを中央へ→トップにぴょこんと元のカードが!」のような手順で十分だと思います。
 相手がダブルリフトを知っているような半可通の場合は、ダブルバックという両面が裏模様になっているカードを使うのも一興です。ダイ・バーノンがハリー・フーディニをひっかけた手順が有名です(マジックは3回見ればわかる、と言ったフーディニを7回騙したとか)。


2006年12月4日(月)

 昨日の日曜日は天気もよかったので、家族で遠足に出かけました。目的はこの時期当然のこととして紅葉狩り、行き先は、夫婦そろって三十数年ぶりだという箕面の滝ということになりました。
 今のサイとつきあってたころは、箕面から目と鼻の先にある町で毎日のように会っていたのに、一度もデートで行ったことがないというのも、今にして思えば不思議な話です。
 そこへ今になって、二人の間にできた小6と小2を連れて出かけるわけですから、これもなんだか不思議な気がします。もちろん、不思議でもなんでもないとも思うのですが。
 ま、それはさておき、スカッと晴れた高い空の下、全山とは言えぬものの紅葉もきれいで、滝つぼのそばで食べた食事もおいしくて、肌寒い季節とはいえ日差しが暖かで、とても楽しい遠足となりました。途中の昆虫館を冷やかしたりしながら(蝶の放し飼いとか中米のゴキブリの群れとか、すごく楽しめた)、なおちゃんとともちゃんもずいぶん喜んでくれたようです。
 駅までの帰り道、まだまだ日も高かったので温泉に寄って行こうかということになりました。箕面には、ほんとに古くからのスパーガーデンというところがあるのです。「♪みの~、おんせん、すぱーがーでん」というCMのメロディは、関西人ならだれしも骨の髄まで染み付いているのですが、実際に行くのは私たちもさすがに初めてでした。
 いくらか期待はしていたのですが、設備も建物もこぎれいにはしてあるものの、もともとが古いせいか、今はやりのスーパー銭湯などに比べるとどうしても見劣りするようです。料金にしてもサービスにしても。
 それでも、大浴場はさすがにとんでもなく広く、結構多くの人が利用していました。
 そんなこんなで、子どもたちと露天風呂などにも入りながらくつろいでいると、ともちゃん(小2)が私の手を引きました。
「なあなあ、お父さん、あの人、体に刺しゅうしてる」

 うっわー、そんなことリアルに言う子どもがいてるとは思えへんかったー。そんなんマンガの中だけやと思てたー。
「こらこらこら、じろじろ見るなじろじろ。あれは刺しゅうとちゃうから刺しゅうと。せやから指さすなて、それほんまやめて」
 こっちがうろたえるっちゅうねん。


2006年12月7日(木)

 毎年、クリスマスのイルミネーションが街を彩るこの時期になると、来年の手帳に悩む羽目になる。近ごろは文房具屋ばかりか、本屋の店先でも手帳を山積みにして売っているので、いやでも目に入る。
 とりあえずこの1年半というもの、スケジュール管理の便利さや、パソコンのプリントアウトとの相性のよさ、各種資料の可搬性などに惹かれて「超整理手帳」を使ってきたのだが、それらの魅力はいささかも減ずることなく強烈であるものの、やはり少々飽きてきた。縦長で不細工だし。
 というわけで、去年の暮れにごっついほめたのに、それはもうおしまいにして、来年用に手帳を変えることにした。

 そこでまず、条件を考えてみた。
 今、私は3冊の手帳とノートを併用している。「スケジュール管理と参照資料用の超整理手帳」、「仕事上の出来事を何でもかんでも書きつけるツバメノート」、「プライベートなよしなしごとや思いついたネタをメモするためのモールスキン」の3冊である。これをなんとか一本化したい。これが第一の条件である。
 第二が、手帳をスケジュールの備忘録にとどめたくない、というものである。「何日の何時に会議」、「いつ誰某に会う」とかだけで埋める手帳はもういい。「この日までにこういう調整」とか、「ここではあの課とあの部の動向にこういう点で注意」とか、プランや計画に関わるアイデアやタスクもきちんと書き込みたいのである。そのほか、「今日の打ち合わせでこういうことが決まった」とか、「あの部のAさんからこういう依頼があって、こっちのBさんにつないだ」とかの、日誌的な内容も。
 第三に、ポケットサイズとは言わないまでも、持ち歩くのに苦のないサイズがありがたい。
 第四に、いままで使ったことのないタイプに挑戦したい。

 第一と第二の条件を完全に満たすなら、システム手帳で鉄板である。ファイロファクスにせよフランクリンプランナーにせよ、そのために生まれたようなものだからである。でもこれは、第三と第四で却下。そもそもリングが手に当たってうざったいし、使い終わったりフィルの管理も実は意外とめんどうなのだ。
 となると、書き込める量からいって、モールスキンのダイアリー(1日1ページの)か、クオ・ヴァディスのABP2あたりか。でも前者は紙質に難があるし、後者は微妙にでかい。

 というところで、来年の手帳は、「ほぼ日手帳」に決定! 24時間分の時間表示や、4mm方眼の使い勝手がよさそうだ。文庫本サイズのA6なので、資料も50%縮小コピーで十分貼り付けられるし、仕事と関係のないネタ帳にしても、オプションには挟み込み用メモノートがある。
 見てくれの子どもっぽいのが玉に瑕(ていうか、ごっついキズ)だが、非常に薄い紙なのに、万年筆の特別にじみやすいインクで書いても裏写りしないのはありがたい。
 ひとまず今週から使い始めて、非常に調子がよさげなのだが、さて来年いっぱい使ってみて、じゃあ再来年も、となりますかどうか。


2006年12月8日(金)

 私は見たとおり、健全な中年のおっさんであるので、ミニスカートの女性が前を歩いていると、見逃すことなく「おおお」と反応する理性は持ち合わせている。しかも、それが十分以上に細い脚の持ち主で、現今流行りのニーハイの上に絶対領域がきちんと確保されているような場合は、「おおおおお」と約60%増しで反応するだけのマナーも身に付けているつもりである。
 もちろんそれがこれから上ろうとする階段の下であったりすれば、「パンツ見えねえかな」と正当な期待を抱くわけであるし、その期待が確実に達成されようとしているにもかかわらず、当該の女性がバッグを背後に回してスカートを押さえたりすれば、チッと舌打ちのひとつもして見せるという作法もわきまえている。
 すべからく「おっさん」はかくあらねばならぬ。これを読む後進は肝に銘じておいてほしい。

 というところで、今日の新大阪駅である。私5メートルほど前を、紺のブレザーにグレーのスカートという制服姿の女子高生が三人、笑いさざめきながら歩いていた。手のスポーツバッグが大きいところを見ると季節外れの修学旅行生なのかもしれない。
 それがとにかく、この三人のスカートが短かった。ひざ上20センチどころか、私の目の位置が高いからいいようなものの、下手するとパンツの底よりスカートの裾の方が位置が高いんじゃないかというくらい短かった。チアリーダーもびっくりの、大阪ではまずないスタイルである(大阪にはマイクロミニの女子高生ってほとんどいない)。
 その三人は、後ろの人間など毛ほども気にする様子もなく、目の前の長い階段へ向かっていく。それは、ほんの数メートル後方を歩く私も上ろうとしている階段である。この分では確実にパンチラどころか、丸見えを通り越して、パンツ丸出し状態の女子高生の後ろで、私は階段を上ることになる。かといって、今さら引き返すのも、距離を開けるのも不自然であるし、そんなことするとなんかもったいない気もして敗北感を感じそうだし、私はどうにもできずに、ただあわわわわと思いながら、彼女たちの後ろを歩いていた。
 で、彼女たちが階段に足をかけた瞬間、私は自分の靴に目を落としていた。そのまま、自分のつま先を見つめながら、長い階段を上りきった。そこで初めて顔を上げると、短いスカートの女子高生たちは、相変わらず互いに顔を見交わして笑いあいながら、はるか前方を歩いていた。

 ていうか、どんだけ気ィ小さいねん、自分。
 おっさん道を極めるにも、まだまだ前途遼遠である。


2006年12月10日(日)

川上弘美『真鶴』(文藝春秋/1429円)
 こわい小説である。冒頭の「歩いていると、ついてくるものがあった。」というセンテンスで、ぞわりと鳥肌が立ち、「ktkr」と感じたまま、最後までその緊張感は途切れない。
 主人公は四十代の女性エッセイスト。中学生の娘と、七十近い母親と、三人で暮らしている。夫は、十年以上前に不意に失踪したまま、消息が知れない。だからなのかなんなのか、妻子持ちの恋人がいる。
 とはいえ、そんな設定も、真鶴(地名)という場所を軸としたストーリーも、たぶん実はどうでもいい。

 浮かんでは消える夫の思い出、娘の成長と母親としての戸惑い、恋人との逢瀬と想いの揺らぎ、つきまとう異界の存在、幻とも現実ともつかぬ世界の行き来、そして女性の深い深い生理。
 それらが交互に現れるのを読みながら、読む者はこわい思いに襟首をつかまれたまま、どこか現実とは隔たった世界で浮遊するような読書を強いられる。

 これまでの川上弘美は、異界から来た異形のものを描こうと、もてあますような女の性を描こうと、底の底ではユーモアですくいとってきたと思う。デビュー作の「神様」にせよ、代表作とも言うべき『センセイの鞄』にせよ。
 それがこの作品では、滑らかで平易な文章であることは変わらないのに、多い読点と短いセンテンスの積み重ねで、ぞわぞわとした物語の棘を直接読者の肌にこすりつけてくる。持ち前の、そしてそれが武器でもあった、ユーモアのセンスを慎重に細心に徹底的に排除しながら。
 だからこの本はとてもこわい。とくに男にとっては。


2006年12月13日(水)

 すでに世間は大騒ぎなので、ニュース記事にもとくにリンクは貼らずにおくけれど、Winnyの開発者に対して、罰金のみの有罪判決が下された。
 なんだかなあと思うし、そんなもんだろうとも思う。ネット上では、厨どもによるny擁護一辺倒の言説であふれかえることが目に見えているけれども。

 Winnyがすごい技術であることは、文科系の素人にもわかる。なにしろどんなOSでもシステムでも、ソフトさえ走れば有効なノードとして機能して、ファイル共有の一端を担うのである。素人にしてみれば、現技術より、すでにSF寄りのようにも見えてしまう。

 今回の話でよく目にするのは、包丁のたとえである。日刊スポーツの記事になったひろゆきさんの台詞を引用する。
「積極的に意図をしていなくても、有罪というのであれば、包丁を売っている人が殺人に使うとは思ってなかったとしても、殺人に使う人がいたら、有罪ということになってしまうので、いまいち判断に苦しみます。」
 たいていの人間は、ここで「そうだよなあ」と思ってしまう。私もそう思う。

 包丁の話の前に、まずひとつ。「積極的に意図をしていなくても、有罪」というのはいくらでもある。「業務上過失致死」などはもちろんそうであるし、「未必の故意」なんてのは、今回の話にぴったりである。
 ナプが行き詰まりかけていて、グヌテラも優れたところがありながらイマイチで、MXが隆盛しつつも限界が見えていたころ(まあ早い話、ネトランの全盛期だ)に、満を持して放り込んだWinnyである。あれだけの技術者が、「積極的な意図」はなかったにせよ、結果は十分想定できたに違いない。

 で、「包丁」である。ひろゆきさんには悪いが、あれは売っていたわけではない。ティッシュのように無料で配っていたわけでもない(ティッシュは匿名とはいえ対面での手渡しが前提だ)。「ご自由にお持ち帰りください」と札を立てて、道端に山積みにしてあったのである。
 でも、その包丁が犯罪に使われたからといって、配った人間が罪になるっておかしいのはたしかだ。包丁は凶器にもなるにせよ、本来は料理に使うものだからである。

 しかしこれが、包丁じゃなくてピストルだったらどうだろう。
「ご自由に持ち帰りくださいと、ピストルを道端に山積みにしておいたら、それで人を撃つやつがいた」
 そんなもん、あほかーである。あたりまえじゃぼけーである。ピストルは人を撃つためのものだからである。

 じゃあ、猟銃ならどうだろう。ハンティングは、れっきとしたエキサイティングな紳士のスポーツである。
「ご自由に持ち帰りくださいと、散弾銃を道端に山積みにしておいたら、それで人を撃つやつがいた」
 これもだめだな。どう考えてもなんか罪になりそうだ、ていうか、そもそも無茶だ。

 これが日本刀でも、世間の反応は同じだろうし、模造刀やニンジャソードでも有罪感はあんまり変わりそうもない。「ひのきのぼう」でやっと五分五分くらいか。
 一方、「ガラスの灰皿」なら100%セーフだろう。学校対抗で乱闘中の中学生に配るとかじゃなければ。これが「靴下」になると、どこで誰に配ろうと、絶対にセーフだ。砂利を詰めれば、人くらい簡単に殺せる鈍器になるとしても。

 話は変わって、「技術は価値中立」であるとして、「アインシュタインが、ヒロシマの罪で裁かれるのか」という言い方もある。そりゃそうだ。P-38で人が撃ち殺されたとしても、ワルサー博士が罪に問われるわけはない。
 でも、除草剤とガソリンとむにゃむにゃでナパーム弾が作れるよと、懇切丁寧にテロリストに教えたおかげで、無辜の市民が何人も丸焼けになったとしたら、教えた人間を幇助の罪に問うのはおかしくないだろう。あるいは、「あの演説会場を狙うなら、あのビルが一番だ」とデューク東郷に教えた人間が、大統領の暗殺に関して無罪であるとは思わない。

 ということで、本日も長々と書いたが、結論はひとつ。

 根拠のいいかげんなたとえ話で、説明した気になってる奴や、言い返したり言い負かしたりした気になっている奴は、馬鹿と踏み倒して大いに結構。


2006年12月17日(日)

 このページの上の方、10月17日の日記で電波ソングがどうとか書いているけれど、ダダハマリは避けられたとはいえ、やはり私の頭蓋骨の中では、萌えヴォイスにいくらか脳内麻薬が分泌されるような水路が出来上がっているらしく、このところ自分の年も考えずにいろいろ買ったり借りたりしてしまっている。
 まず、2ヶ月前に買った「momo-i quality -ベスト オブ モモーイ-」(リンク先は試聴も可)。これが気に入った勢いでUNDER17のアルバムは3枚ともツタヤで借りた。桃井はるこは、その昔「月刊ASCII」にコラムを連載してたのしか知らなくて、私の中では“アキバ系ギャルライター”ということになっていたのだが、(どっち向きかはさておき)これほどまでのアーティストであったとは不覚にも知らなかった。まず声がすばらしい。舌ったらずで、少し鼻にかかった、萌えヴォイスのひとつの完成形である。現実にそばにいたら、「おまえなんじゃその声ー!」とスリッパで頭をはたくかもしれないけど。とくにアンセブの方は、小池雅也のギターもベタで最高。
 ついで、なにかないかなあと探していて、I'veとやらが評判よさそうなので、「Collective」というのを不見転で買ってみた。うーん、楽曲がトランスっぽくて、ボーカルもちゃんとしてるけど、これは求めているものとはちょっとちがった。ここで、「こんなんやったら、trfでええやん」とか書くと、その筋(どの筋?)から、ものすごいお叱りを受けそうなので、それは書かずにおく。
 そんでもって、次に買ったのが、U嬢による「U☆TOPIA」。これはいい。声も曲も、繰り返し聞いていると、溶けた脳みそが鼻の穴から流れ出しそうである。とくに、「我愛イ尓(ウォーアイニー)」だの、「Special Day」だの、口もまぶたも半開きで中空を見つめながら聴くにふさわしい。
 で、昨日買ったのが、I'veの名誉挽回をはかる一枚、「SHORT CIRCUIT」である。これはもう、「恋愛CHU! -Remix-」やら、「さくらんぼキッス ~爆発だも~ん~」やら、歴史に残るような名曲ぞろいで、KOTOKOと詩月カオリの真骨頂を堪能できる。

 でまあ、とりあえず、これをもって電波ソングめぐりはおしまいにしようと思っているのだけれど、私のiPodに「萌え」という名のプレイリストがあることはくれぐれも秘密だ。


2006年12月25日(月)

▼今月14日に、待ちに待ったDS版シレン、「不思議のダンジョン 風来のシレンDS」が出たので、速攻で買った。
 どうやらこれは、SFC版のリメイクらいのだが(私は、ゲームボーイカラー版の大ファンなのだ)、やはりというべきか、にもかかわらずなお、というべきか、やりかけるとはまるはまる。手から離せない。通勤の往復はおろか、寝る直前まで布団の中でやってしまう。仰向けでやっていて、うとうとしたはずみに顔面にDSを落としたときは、痛いより恥ずかしい気持ちの方が強く湧く。
 てなわけで、ここんとこ更新できねえんだよべらんめえ。

▼先週のことである、ともちゃんが突然、サンタさんに手紙を書くと言い出した。聞けば、クラスの友だちがサンタさんに手紙を書いたところ、写真入りの返事がかえってきたというのである。それを学校で自慢されて、自分もほしくなったらしい。
 ここで、そんなアホなと一蹴すれば父親がすたる。「よっしゃ、あて先はインターネットで調べたるから、好きなように書け」と、父親として威厳を発揮せねばなるまい。
 というわけで、ともちゃんは手紙を書いた。
「サンタさんへ いつもいつもプレゼントをもってきてくれてありがとう。今年はいい子にしてたので ロックマンのゲーム(アイスペガサス)をおねがいします。 2006年12月20日 ○○○○(ともちゃん)より」
 そらもう、サンタさんも返事くれるっちゅうねん。サンタのポートレイトも、メリクリのロゴも、グーグル様のイメージ検索でバッチリである。返事のハガキには、「メリークリスマス! いつもいい子にしてるかな? あそびにもべんきょうにもがんばってるね! クリスマスにはきっと行くので、プレゼントをたのしみにね! サンタクロースより」の文章もつけた。表には、ごていねいにも英文表記のあて先も書いた。
 そりゃもう、朝起きて、返事が届いたよと言われたともちゃんのうれしそうなこと。当然のように学校へ持っていって、自慢したおしてきましたとさ。
 クラスのみんなも本気でうらやましがってくれたとのこと。よかったね、二年生。

▼昨日のM-1の話。すでに言及はあちこちでされてるので、さらっと。
 ポイズンガールバンドは声を張っちゃダメ。分厚いだらだら感が身上のはずなのに。「マヨネーズの入った靴」で終わった。プラン9は「1ツッコミ4ボケ」の構成を、無理に活かそうとして逆に活かしきれてなかったような。も少しコント寄りでもよかったと思う。トータルテンボスは、今まで個人的に面白いと思ったことがない。しかし今回、一番「うまいなあ」と感心したのがこのコンビ。昔のこだま・ひびきみたい。笑い飯は限界に近いかもしれない。初登場時は衝撃的だったいわゆる「ダブルボケ」もマンネリ感は否めない。そして、変ホ長調。アマチュアに対して、やすよ・ともこもびっくりの中年OLマシンガン漫才を期待した私がバカでした。ただのメンバメイの再来(あるいは、だいたひかるの漫才版)でした。ネタは結構笑ったけど(じつはテンボスより)。
 で、最終決勝組である。三組とも文句なしに面白かった。麒麟は以前のシュール色が抜けてきて、田村いじめの方向に向かいつつあるようだ。ここで川島の体がもっと動くようになるなら、コント55号の全盛期に迫れるかもしれない。フットボールアワーはすでに円熟。岩尾のウザさを抜群によく活かしたネタの展開だった。つか、下手したらまたまた優勝するんじゃないかと思った。そして、チュートリアル。いやもう、「ブログに書いてええか」は余計だったが、イケメン徳井のシュールなエスカレートボケも、福田の真剣に迷惑そうなツッコミも、4分という場で最大に機能していたと思う。

 じつのところ、私は決勝の面子を見た瞬間に思っていた。去年のネタを思い出して、「あ、こらチュートリアルで鉄板やな」と。あと出しジャンケンみたいで申しわけない書きようだが、予想が当たってちょっとうれしい。

▼妻がいて、小学生の子どもも二人いて、本人もすでに四十をはるかに過ぎてしまった。こうなるとクリスマスは、一年のうちの「ただの楽しい一日」に過ぎなくなってしまう。カップルで過剰に楽しむべき日でもなく、孤独に打ちのめされて世界を憎む日でもなく。
 だから、ネットのあちこちで見られるクリスマスネタがピンとこなくなった。これも年取ったっていうのかなあ(でも、「革命的非モテ同盟」とかはすっごい好み)。

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