そこにはない楽園(1)

2006年7月10日公開。短編小説(四百字詰め約97枚の前半部)


 深夜、キッチンのテーブルに向かって、茹で上ったばかりの卵を剥く。蛍光灯の光の下で、白木のテーブルは妙に寒々しい。中央に、金色の縁取りのある深い群青色の洋皿を置いて、剥き終えた卵をのせてゆく。卵は三つあった。
 雪夫は、物音ひとつしない部屋で、その卵を見つめた。まだ湯気を上げているその肌は、しっとりと白く輝いて、空腹を刺激する匂いを放っていた。指で触れてみると、艶のある感触とともに、指先からまだ十分なぬくもりが伝わってくる。その温かみと弾力が快くて、雪夫は何度か繰り返し指で押した。
 爪が当たって小さな傷がついた。濡れた真珠のような白い肌についた傷は、白く濁って歪んだ三日月のようだった。雪夫は眉を顰めた。
 雪夫は傷ついた卵を裏返し、テーブルの上のナイフを取り上げた。刃渡りは十センチに満たないが、端正なデザインが美しい。雪夫が去年、中古の軽自動車なら十分買えるほどの貯金をつぎ込んで手に入れたナイフだ。〝愛のない〟という名のアメリカ人の職人が鍛えたステンレスの刃は、今も刃こぼれひとつなく、剃刀のように研ぎ澄まされている。雪夫は、朝のひげ剃りから夜食の果物の皮剥きまで、たいていこのナイフ一本ですませるようになった。
 息を吹きかけてはシャツの袖で拭いしているうちに、ステンレスの刃からは指紋一筋の曇りも消え、雪夫の眼がくっきりと写り込むまでになった。外科医のメスのように硬質で美しいカーブを持つ金属に写ったその瞳は、薄く微笑んでいた。
 左手の指先で卵を押さえ、雪夫はゆっくりとナイフの刃先を当てた。ステンレスの刃はなんの抵抗もなく白い肌に吸い込まれ、まだ温かい茹で卵を薄く輪切りにした。雪夫はその作業を繰り返し、皿の上に輪切りの卵を敷きつめた。群青色の皿に並べられた白と黄色の同心円は、肺病病みの静物画家が好みそうなモチーフに見えた。
 雪夫は、ナイフを皿に滑らせて、一片の同心円を持ち上げた。ゆっくりと口に運んで、舌ですくい上げるようにして口中に納める。その動作を繰り返しながら、茹で卵を食べはじめた
 半分ばかり食べ終えたとき、雪夫は背の高いグラスに水を注いで一口飲んだ。時間をかけて食べたせいか、空腹はほぼおさまっていた。雪夫は静かに息を吐いて、ステンレスの刃の上に残っている黄身のかけらを上唇で拭いとった。
 痛。
 ナイフには薄桃色の汚れがついていた。刃先を上唇に当てると、今度は水滴のような血の滴が、鏡に似た刃の上に盛り上がった。
 血はじきに止まった。流し台でナイフを綺麗に洗い、皿にはラップをかけて冷蔵庫に納めた。
 ゆっくりと時間をかけてシャワーを浴び、雪夫は下着だけを身につけてベッドルームに戻った。
 その名の通り、雪夫の肌は白くなめらかで、細い身体は陰花植物を思わせる。小さな腰にはりついた濃紺のビキニショーツが青白い肌と対照的だ。ベッドの上に投げ出してあったパジャマをはおって、脇に置いてある人形の頭を撫でた。
 少女の姿をした人形は、腰のあたりまで金髪を垂らし、レモン色のワンピースを着て無表情に立っている。ほかに身に着けているのは両耳に光るルビーのピアスと、私立学校の女生徒が履くような小さな赤いエナメルの革靴だけだ。胸のふくらみも尻もまだまだ小さく、せいぜい中学一年生といったところだ。
 この部屋に彼女を連れてきた友人は、すでに死んだ。
 雪夫は、人形の前で腰をかがめた。人形の腰のあたりを優しく抱き寄せ、雪夫は人形に口づけた。軽くもなく激しくもなく、唇を押し当てると人形の唇にも温かみがさしたように感じられた。もちろん、彼女ははしたなく口を開いたりしない。
 雪夫は立ち上がって電灯を消した。
 ひやりとしたシーツの間に入って目を閉じた。おやすみと呟いたのは人形に向かってか、それとも単なるひとりごとか。

 雪夫の部屋にその人形を持ってきたのは高校以来の友人で、永尾淳一郎と言った。ラグビー部あがりの大柄な体格に似合わず、美術大学の彫刻科に通っていた。小さい頃から折り紙や木切れで人形を作るのが好きだったという。高校時代、永尾は文化祭の時に六メートルもある巨大な人魚を作った。木や竹で輪郭を作り、紙を貼り重ねただけのものだったが、永尾がほとんど一人で作ったその人魚は、なめらかな肩の線と、今にも水しぶきを上げそうな鱗に覆われた下半身で、他クラスの怪物や戦車を圧倒していた。そして、後夜祭のファイヤーストームで、人魚は火中に投ぜられた。夜空に激しく火の粉を巻き上げる炎の中で、人魚は優美にのたうち、水の中で大きな魚とたわむれるように、張り子の戦車に腕をまわしながら崩れ落ちた。その光景を美しいと思って以来、雪夫は永尾と親しくなった。
 永尾が、雪夫の部屋に人形を持ってきたのは三年前の冬だった。夜遅く突然現れた永尾は、シーツにくるんだ大きな包みを抱えていた。部屋に入っても黙ったままで、雪夫が出した酒を断る時になって、やっと口を開いた。
「車なんだ。田舎へ帰るから」
 永尾はゆっくりと話し出した。田舎の父親の具合が悪いこと。美大をやめること。荷物はすべて送ってあって、あとは身ひとつで帰ればよいこと。
「おやじは花を作ってるんだ。カスミ草とかチューリップとか、カーネーションとか。花屋で安い方から十種類ぐらいの花ばかりをな。蘭も薔薇も菊も手聞をかけるのを嫌がって、めったに作らなかった。なにが花作り農家だ。ひと抱えで千円にもならない花ばっかり作りやがって」
 雪夫は故郷の風景を思い出した。太平洋に突きだした半島の先端近くで、一年中おだやかな陽光に包まれ、丘の上からは水平線が見えた。雪夫はしばしば学校を抜け出しては、きらきら光る海面を飽かずに眺めていたものだ。
 雪夫は、永尾が家族のことを話すのを初めて聞いたような気がした。昔からの友人でも、そんな話はしたことがなかった。永尾が話すことを避けたのか、雪夫がもともとそういう話を嫌ったせいなのかはわからない。
「おれは花は好きだった。改良に改良を重ねた奇形のような蘭だって、なんだか健気じゃないか。一生懸命、太陽に向かって花を開いてさ。だから親父の仕事も手伝うのは、好きだった。けど、馬鹿な親父を嫌いでね、よく喧嘩したよ、殴り合いの。そのたびにお袋が泣くんだ。い、妹と抱き合って、子どもみたいに大声でさ」
 永尾の話はひとりごとに近くなった。
「そのおやじが倒れたんだ。心臓らしい。ハウスの管理がめんどくさい時期だろ。苗床だなんだってあるし。外は寒いし。朝早くに表で倒れて、もう少しで凍死するととろだったらしい」
 雪夫は、ふうむと息を吐いた。
「それで大学やめるのかって言いたいんだろ。それだけじゃないんだけどな」
 永尾は目をそらして、シーツに包まれたままの荷物を見つめて黙りこんだ。雪夫はあえて話をせかさず、立ち上がってコーヒーを入れた。永尾は、雪夫がキッチンに立ったのも気づかないように、再び口を開いた。
「美大に来るような連中って、どうしようもない俗物ばかりなんだ。シュルレアリスムだのバウハウスだの、ポストモダンの哲学と芸術の相関だの、わかってんだかわかんないんだか能書きばっかり大好きでよ。くそったれめ。それでなに作ってると思う。夜中に交通標識かっぱらってきて、大きな歯車やら古タイヤやらを有刺鉄線でくくりつけて、タイトルが『マヨネーズの狂気』ってんだぜ。馬鹿にしてるよなあ」
 雪夫はコーヒーをカップに注いで、永尾の前に置いた。
「ああ、すまん。そうだ、これをおまえにやろうと思って持って来たんだ」
 急に正気に返ったように、永尾の口調が変わった。シーツの中から現れた人形は、雪夫を驚かせた。人形の青い瞳は視線を吸い込むようで、雪夫は、一目で彼女に魅せられたのを確信した。
 人形は全裸だった。身につけているのは、甲にベルトのついた真っ赤な革靴だけだ。すらりとした肢体は、まだ幼さの残る少女であることを示していた。永尾は雪夫の目の前に人形を横たえたが、なめらかな股間に刻まれた一筋の線が妙になまめかしくて、雪夫は目のやり場に困った。
 人形はマネキンのようではなく、肘や膝はボールのようなものでつながっていた。腹部もいくつかに分かれていて、中央には縦長のへそが小さく刻まれていた。
 永尾は人形の腿と背に手を添えて、その場に座らせた。両腕を脇に垂らし、脚を投げ出して座った姿は、首が横に傾いだせいで、犯されて殺された少女の死体のようにも見えた。
「球形関節っていうんだ。たいていの格好ならできる。だからって、おもちゃにはしないでやってくれよ」
 永尾が微笑んだ。
「いいだろ。お前ならわかってくれると思ったんだ。大学のクズどもはこんなものが作りたかったら、おもちゃ屋へ行けってぬかしやがったけどな」
 雪夫は人形を見つめた。無表情な人形が、微笑んでいるようにも見えた。思わず、手を出して頭を撫でた。髪を持ち上げるとシルバーのピアスをつけた形のよい耳がのぞいた。首をまっすぐに戻してやり、脚をそろえて、両手は腿の上で重ねた。今度はずいぶんお行儀よく見えた。永尾はますます嬉しそうにな表情になった。雪夫は、本当にもらえるのかと何度も念を押した。
「ああ、やるぜ。そのために持ってきたんだから。そうそう、こいつの名前は適当につけやってくれればいい。おれはナナって呼んでたけど。本格的に作り出して七体目なんだ。だからこいつの前のはロクっていう」
 雪夫はその名前も気に入った。何度か呼びかけてみた。返事はなかった。
「おまえの目を見てわかったよ、ここへ持ってきてよかったって。おまえはどうも変わってるからな、昔から。なにがどうって言われても困るけど」
 永尾は頭をかいた。
「一度喧嘩に巻き込まれたことがあったろ、おれと一緒にいて」
 雪夫は覚えていた。永尾は決して不良というわけではなかったが、厚い胸板と脱みつけるような目つきが災いして、よく他校の生徒に喧嘩を売られた。そのときも駅前のハンバーガーショップから出てくるなり、頭の悪そうな三人組に因縁をつけられたのだ。
「おまえは噴嘩どころか拳を握る真似もせずに殴られたよな。でも逃げも謝りもしなかった。それでおれが連中を殴り倒すと、一人ずつ顔面を踏みつけたろ、革靴で。全員鼻を折ったぜ、あれで。おれは連中よりおまえの方が怖かったよ。怒ってる顔も嬉しそうな顔もせず、きっちり一発ずつ腫を踏み降ろす格好つったら」
 雪夫は苦笑した。人を傷つけたのは、後にも先にもあれ一度だった。あの時の感触は、今でもふとした折に足の裏に蘇ることがある。
「それだけで変人扱いするってのは、フェアじゃないって気もするけど、まあ芸術家の勘ってやつだ、勘弁してくれ」
 そう言って永尾は破顔した。
 二人がコーヒーを飲み終える頃、永尾は故郷で花作りに専念すると言った。雪夫は彫刻のことやガールフレンドのことを訊ねたが、意志は固いようだった。
「おまえはもう忘れてるだろうと思うんだが、おれの妹は、ダウン症だろ。だからちょっと頭が弱くてな、その相手もしてやりたくて」
 永尾は空になったコーヒーカップの底を見つめて、そう言った。
「小柄で、ぽっちゃりしてて、可愛いやつなんだけど、頭の中は小学生ってやつだ。今年十八になる」
 雪夫は慰める言葉を探したが、見つからなかった。永尾の目と口調は、まぎれもなく妹を愛している者のそれだった。ハンデを背負った妹が愛しくてならないようだった。
「ああ、可愛いよ。花と人形が大好きなんだ。おれが幼稚園の頃から人形ばかり作ってたのも、親父が野菜をやめて花を作りはじめたのも、あいつのせいなんだ。新聞紙を折ったり貼ったりして作ってやった人形でも、本当に嬉しそうに楽しそうに、一日中話しかけたりして遊ぶんだ。畑が花でいっぱいになる頃は、親父に怒られるのもおかまいなしに花の中で転げ回って。おれの家はあいつのおかげで毎日が明るかったよ。馬鹿な教師や近所のばばあは的はずれな同情ばっかりしてやがったけどなあ」
 雪夫はいつの間にか人形を自分の隣に座らせて、その膝に手を置いていた。自分の手のぬくもりが人形のなめらかな肌に移り、しっとりと汗ばんだような感じが快かった。
「おれは、あいつと花を作るのが楽しみなんだ。いくら知恵遅れだって、そうひどいわけじゃない。畑仕事も家の手伝いも十分できる。あいつと朝早くから畑に出て、お日様の下で汗をかいて、昼には木陰で弁当を食うんだ。おれは一生そうして暮らしたっていいと思ってる。人形を作るのもくそみたいな芸術のためじゃない。可愛いあいつを喜ばすためにだけ、これからは作ろうと思うんだ」
 永尾はまるで恋人のことを話すように、妹について語った。大きくなった妹を風呂に入れるのが恥かしかった頃のことや、布団の中で夜中までくすくす笑いながらしゃべっていて、布団の上から父親に蹴飛ばされたことも話した。雪夫はその光景にどこか隠微な匂いを感じつつも、うらやましいと思った。永尾の妹のハンディキャップについての同情など、それこそ的はずれに思えた。
「ナナは持って帰らないよ。ヨンをきれいに壊されたし。ナナはペイントもずっとデリケートなんだ。帰ったら丈夫なのを作ってやるさ。これからはいくらでも時間があるんだ」
 小一時間ほどいただろうか。永尾は、こんなに自分のことを他人に話したのは初めてだと言いながら、さっぱりした表情で腰を上げた。
 雪夫は人形の礼を言いながら玄関まで送り出した。
 永尾の姿を見るのはそれが最後になった。
 翌朝のニュースで、永尾がトンネル内の玉突き事故に巻き込まれて死んだのを知った。最後尾の大型トラックに始まり、八台の車がトンネル内で炎上し、六名が死んだという。永尾の車はそのうちの後ろから三台目にあったらしい。ほとんどの死体は炭化していたとアナウンサーが言った。
 雪夫は永尾が即死であることを祈った。妹の名を叫びながら炎に焼かれて死んだとは考えたくなかった。
 永尾の妹は、やさしい兄の帰りを楽しみに待っているはずだ。雪夫の脳裏に、ビニールハウスの中にしゃがんで、花々に兄の帰りを告げているダウン症の少女の姿が浮かんだ。
 結局雪夫は、永尾の葬儀には出席しなかった。ただ、永尾の形見となった人形のために、その日レモン色のワンピースとルビーのピアスを買った。

 翌朝、目覚めると十時近かった。大学も春休みに入ってしばらくたつが、最近休学届を出したばかりの雪夫には、すでに関係のない話だ。そもそも去年の秋から研究室へは足を運んでいない。
 朝食代わりに、昨夜の茹で卵の残りをカフェオレで流し込んだ。ついでに、いつもの錠剤をいくつか飲んだ。医者は軽い抗鬱剤だと言っていたが、関心はない。ただ、妙な胸苦しさを感じなくなったのと、部屋を出るのがさほど億劫にならなくなったので、それなりの効用はあるのだろうと思っている。
 雪夫は、仏文科の修士課程で一年を終えたばかりだった。指導教授はバルザックの研究で知られていたが、雪夫にはどの論文にもなんら目新しさも、尊敬に値する緻密さも感じられなかった。事実、教授は学部学生の感想文めいたレポートを、自分の名義で学会誌に発表したことさえあった。そんな教授に、研究している小ロマン派や象徴派の詩人について難癖をつけられているうちに、雪夫はゼミから足が遠のくようになってしまい、修士論文のテーマ変更を迫られるにいたって休学を決意した。
 とはいえ、大学と完全に縁が切れたわけではない。社会学部の教授が主宰している評論誌に、ときおり翻訳を頼まれることがあり、大学へはしばしば足を運んだ。フランス人の書いた短い文芸評論が多いが、今は九十年ほど前の短編の翻訳を手がけている。シュルリアリスム前夜を特集するとかで、その教授が選んでよこした無名作家の小説だ。
 アポリネールらによるによるサドの再発見に先立つ時期の作品のようだが、作者はどこかで手に入れて読んでいたのだろう。革命直後の貴族の若者を主人公にした、悦楽と退廃を描いた作品だ。若者は傲慢で享楽的な古城の主で、居城の庭園の改造に着手する。シンメトリカルな美を持つ庭園や噴水をすべて破壊し、アダムとイブが知恵の実を口にする以前の楽園を作り上げようとする。だから最初に殺されるのはそれに反対した庭師頭だ。原題は「婚礼の庭~未完成の楽園と退廃」といったが、若者が破滅に至る結末を読んで、「そこにはない楽園」とした。その程度の意訳は許されるだろう。
 この手の翻訳仕事はすでにかなりの数を引き受けてきたが、雪夫は決まったペンネームを持っていなかった。今回は、あまりにサドを意識した内容であることと合わせ、有名な歴史小説家の命名法にあやかって、「龍遼一郎」とした。
 雪夫は、近くのファミリーレストランで簡単な昼食をすませ、翻訳の参考にとビデオショップでパゾリーニを借りた。今日はもうたいして用事はない。たいした用事など、毎日ない。食事と必要な用足し以外で部屋を出ることさえ、今やほとんどなくなった。以前はしょっちゅう足を運んだ都心の大きな書店にも近頃はめったに出かけることもなくなり、新刊小説でさえネットで注文してすませるようになった。一週間近く他人と言葉を交わしていないことに気がついて驚くことがある。
 ガールフレンドもいるにはいるが、大学へ行かなくなって次第に会うことも間遠になりつつあった。もう別れたことになったのかどうか、自分でもはっきりしない。彼女は就職活動で忙しいらしい。以前電話で話したときも、希望の会社はどこも厳しいと、疲れのにじんだ声で話していた。雪夫には縁のない話題で、冷たいわねとなじられたことを覚えている。
 彼女の名前は伊藤杏子といった。杏子は、この間まで同じ仏文科の三年生だった。だからこの春四年生になる。出会いは去年の春先のゼミのオリエンテーションだった。その年、雪夫の属するゼミを志望したのは杏子を含めて四人の女子学生で、四年生や雪夫を含む大学院生とのちょっとした話し合いの場がもたれたのだった。もちろんその場には、教授助教授講師助手といった教師連もいた。
 杏子は四人のうちで最も美しかった。つやのある髪を背中まで伸ばし、プラチナのチョーカーをつけた細い首筋と、澄んだ大きな瞳が印象的だった。いや、雪夫が惹かれたのは杏子の指だ。少し大きめの手は白磁のようになめらかな肌に包まれ、柔らかなピンクのマニキュアをのせた先細りの指は雪夫の視線を捕らえたままにした。
 雪夫は、杏子の自己紹介を覚えている。
「伊藤杏子です。一月十六日生まれの山羊座です。血液型はB型で、趣味はバードウォッチングです。今朝、外の池のほとりでカワセミを見かけて感激しました。ここへ来た理由ですけれど、高校時代にカミュを読んで、仏文科へ行きたいと思いました。今はカフカに興味があります。あとアンドレ・ブルトンのシュルレアリスム詩なんかも。よろしくお願いします」
 紋切り型の自己紹介を本人は楽しんでいる様子に見えた。雪夫は、かすかに漏れる皮肉な調子に微笑んだ。
 助教授が大きな音を立てて舌打ちをした。この男はストリンドベリあたりの未発掘の短編をほじくり出しては翻訳している。伝統的といえば聞こえはいいが、頭の固さでは教授にひけを取らない。
 教授が口元を歪めて言った。
「ほお、カフカが好きなの。じゃあ、君の成績はこれから可と不可だけにしてあげよう」
 自分で下品な声を上げて笑った。同じ冗談を繰り返し聞かされている他の学生は、片頬を動かすだけのサービスで答えた。
 杏子は淡く微笑んでいる。ただ、喉のあたりが二度ばかり強く引きつったのが見えた。それで雪夫は、杏子が吐き気をこらえていることに気がついた。吐き気がするほどくだらない、とはよくいうが、本当に嘔吐を催す感受性の強さに少し心を動かされた。
 その夜の新入生歓迎会をきっかけに、雪夫は杏子と打ち解けて話すようになった。それから、大学にほど近い杏子のマンションを訪れるようになるまで、一ヶ月もかからなかった。そこで杏子が親元を離れて一人で暮らしていること、フランス趣味が昂じて父親にプジョーを買わせたことなどを知った。

 リビングでDVDを見ているとチャイムが鳴った。ドアを開けると、小さな女の子を連れた女が立っていた。あなたは神様を信じますか。雪夫は、生活に疲れたような薄汚れた格好と妙な抑揚で聖書を売りに来る、よくある親子連れかと思った。しかし、目の前の二人はこざっぱりとした服装で、とりわけ女の子のトレーナーがブランド物らしいのが目を引いた。
「こんにちは」
 母親らしい女が口を開いた。
「今度お隣に引っ越して来ます、早坂と申します」
 雪夫は口の中でもごもごとあいさつを返した。不審げな様子に気がついたのか、女は表情をやわららげて、のし紙のかかった箱を差出した。
「お引越は明日なんですの。今日ちょっと片付けがあるものですから、寄らせていただいただけで。それで、つまらないものですけれども、これをごあいさつがわりに」
 雪夫は、箱を受け取って礼を言った。女の子に名前を聞くと、「真美です。三年生です」と、にこにこして答えた。雪夫は腰をかがめて、女の子の頭を撫でてやり、書斎の机から飛行機型の小さなペーパーウエイトをとってきた。男の子むけかなと苦笑する雪夫に、親子は何度も礼を言った。女の子は形よりもステンレスの輝きが気に入ったようだ。またね、と言い残して出ていった。雪夫は微笑んで手を振った。
 モニターの前に戻って映画の続きを見た。褐色の肌をした半裸の人々が画面のそこここで抱き合っていたが、ほとんど意識に入ってこなかった。今の親子連れが引っ越してくるという。雪夫はなんとなく浮き立つものを覚えた。真美という女の子の明るい様子が、思い出す雪夫の頬をゆるめた。せいぜい八歳か九歳なのにほっそりとして、幼女の外見の下から早くも少女が姿を現わそうとしているのを感じた。
 そういえば、母親もきれいだった。おそらく三十代の前半だ。仕立てのよい春物らしいワンピースに浮き上がつた身体の線はしなやかな印象で、スポーツでもしてるのだろうかと雪夫はふと思った。
 モニターを切って、雪夫はコーヒーを入れた。雪夫の部屋は、寝室が二つにリビングのスペースを広くとったいわゆる2LDKだ。玄関を入ってまっすぐ廊下が伸びている。左にひとつ右にふたつのドアがある。右の手前のドアはバスルームの入口だ。左のドアが人形のある雪夫の寝室、右奥のドアが書斎がわりに使っている部屋に続く。廊下の突き当たりがLDKだ。南に面して大きな窓とバルコニーがあり、いつも明るく陽が差している。ひとりには十分な広さで、さすがに家賃は少々値が張るが、義父が払ってくれているので気にしないようにしている。
 明日越してくるという親娘も、ほぼ同じ間取りのなかで暮らすはずだ。雪夫はパジャマ姿でくつろぐ親娘を想像してみた。なかなか悪くない光景に思えた。
 雪夫には、親とパジャマ姿で遊んだりくつろいだりしたという覚えがない。一緒に暮らしていた以上、そんな経験が一度もないはずはないのだが、記憶の中の幼い自分は、いつも肩をすくめるようにしてテレビに見入っている。
 父親は、雪夫が十二歳の春に死んだ。中学校に入ったばかりで、葬儀の日の朝も、まだ慣れない詰襟のカラーを気にしていた。着替える拍子に真白いプラスティックのカラーにひびを入れてしまい、それが首筋に当たるたびに走るちくりとした感じが、不快で仕方がなかった。姉の由香が声を殺して泣いている様子も、母親がどこか遠くを見るような目で雪夫の頭を抱きしめたのも、父が死んだという実感と同じように、自分には関係のない出来事のように思いながら、雪夫はうなじに当たるプラスティックの感触を一日中気にしていた。
 父親の浩一は高卒で小さな証券会社に入り、若い頃から優秀だったという。二十四歳の時に、同じ会社に勤める三歳年下の亜紀子と結婚した。短大を出て入社したばかりの亜紀子は、清楚な美人との評判も高く、浩一は同僚の羨望の的になった。まもなく由香が生まれ、その二年後に雪夫が生まれた。雪夫が八歳になったとき、浩一は投資関係の会社を設立した。それまでに十分な顧客と情報源をつかんでおり、株価の動向を見る目に優れた浩一を信頼するものも多かったという。しかし、独立しての事業は想像以上に過酷だったようで、雪夫はこの頃以降の父親をほとんど覚えていない。後に母親に聞いたところでは、連日顧客を接待し、関連企業に頭を下げて回り、泥酔せずに帰ることはなかったという。たまの休日に雪夫が父親の枕元に立つことがあっても、アルコールの匂いが充満した寝室で、父親は雪夫をうるさそうに追い払った。
 そこまでしても、事業自体はバブルの崩壊を境に行き詰まりはじめた。仕事は早朝から深夜におよび、休日などないもののように浩一は働いた。証券取引所は休日でも、情報収集と称して得意先回りや接待で、正月さえも取引先の実業家の家族旅行につきあったりしていた。資金繰りも思わしくないらしく、雪夫の家を訪れる取り立て業者の中にも、やくざまがいのものが次第に増えはじめた。
 雪夫は五年生になった。その夏休みのある日、浩一は倒れた。朝早くネクタイを締めながら崩れ落ちるように倒れてそのまま入院した。まだ三十八歳の若さで重度の脳梗塞と診断され、セーターを必要とする頃に退院した。父親の左半身は麻痺し、元気だった頃を知る姉弟には、無残とも見える姿を晒すようになった。亜紀子はかいがいしく看病し、高価なリハビリを繰り返したが、効果は思わしくなかった。雪夫は父親の不明瞭な会話や食事のおりに見せる醜い姿を憎んだ。ただ舌をもつれさせながら一生懸命詫びの言葉を繰り返す父親には目をそらす以上のことはできず、嗤うようなことはなしかった。
 会社は当然閉鎖を余儀なくされ、すべての株と資産は処分した。借金を返すといくらも残るものではなく、親子四人が暮すのにも不足することになった。
 亜紀子が近所のスナックに勤めはじめたのはそれがきっかけである。まだ三十半ばの亜紀子はいくぶん翳りを加え、細い腰と巧みな客あしらいですぐに評判となった。水商売が向いていたのか、亜紀子は見る見るうちに美しくなった。雪夫はまだ小学生だったが、母親の着替える姿を自にするたびに胸苦しくなるものを感じた。母親が脱ぎ捨てた絹の下着に恐る恐る手を触れることもあった。すベらかな絹の感触を指先に感じると、雪夫は必ずまだ幼い自分が固くなるのを感じた。姉の由香は中学生になっていたが、母親に対する反発からか、次第に言葉づかいも激しく亜紀子と言い争いを操り返すようになった。
 そのうちに、亜紀子は観光地の中心にある大きな店に移って、身体の不自由な夫を家政婦に任せるようになり、自分は毎日深夜を過ぎて帰るようになった。
 脳梗塞は症状が安定すれば死ぬ病気ではない。しかし倒れてから一年半以上を過ぎて浩一は死んだ。その日、姉弟が学校へ出かけて、日が高くなってから起きだしてきた亜紀子が死んでいるのを発見したという。姉弟は即座に学校から呼び戻され、父親の運ばれた病院に駆けつけた。病理解剖がすんで、子どもたちは急性腎不全と聞かされたが、雪夫は今では自殺を疑っている。
 由香もまた、不良と呼ばれる仲間と付き合いはじめ、三年生になるころには母親より帰宅が遅くなることもしばしばになった。
 雪夫はいつも家では孤独だった。塾へも行かず、母親が用意した冷凍食品ばかりの夕食を、いつもひとりで温めて食べた。
 亜紀子に男ができたのもあながち不自然ではない。まだ四十前の女盛りである。酒を間にはさんで色気と笑顔で男を相手にする仕事は必然的にそういう結果を生むのだろう。
 それでも亜紀子は運がよかったといえる。相手の男は十歳ばかり年上の中小企業の経営者だった。背は低かったが、尊大なところもなく、しばしば姉弟に高価な本やゲームソフトをプレゼントしてくれた。
 由香は必ずその場で捨てるか、売り飛ばすかしていたようだが、雪夫には気にならなかった。
 由香が高校へ進み、雪夫が中学生になるころ、男は広いマンションを用意した。子どものいるマンションに訪ねてきて亜紀子を求めるほど恥知らずではなかったが、顔を合わせる回数は格段に増えた。由香は、外泊を繰り返すようになった。由香は高校を出るや、家出するように東京の専門学校に進んだ。今は四谷の美容院で働いている。雪夫が東京の大学に進んでいまの部屋に住みはじめてやっと、男は亜紀子と結婚した。由香もほぼ同時に結婚し、今は一児の母である。孫が生まれてから母親との関係もそこそこうまく行くようになったという。今では時々行き来もしているらしい。あの人(由香は義父をこう呼ぶ)ってば、ソファより大きなぬいぐるみ買ってくれたりするのよ、そんなのうちのアパートに置けるわけないよ。そういって由香は電話口で笑った。
 義父はさすがに金回りがよく、雪夫にも過分の仕送りをしてくる。だから雪夫はアルバイトの経験がない。由香にも、しばらくすれば店を持たせてやると約束しているという。

 雨の日はは杏子の部屋で過ごすことが多かった。
 雪夫は、彼女の部屋で本を読むことを好んだ。映画やドライブにもたびたび誘われたが、雨の日は必ずといっていいいほど杏子の部屋で過ごした。そんな日は、雪夫は雨滴の流れる窓ガラスをときおり見上げながら終日ページを繰っていた。
 簡単な手料理と少しのワイン、そしてテレビとセックス。本以外はそれだけで十分だった。
 天気のいい休日にはよくつきあって外へ出たので、杏子もそんな雪夫を面白く思っていたらしい。雪夫は杏子のレポートを手伝ってやりながら、よく皮肉られた。そりゃあそれだけ読んでれば、と。
 夏には高原へ旅行にも行った。そして、夏の終わりに杏子の言った言葉を覚えている。
「一人でいるとね、あなたのことを思い出したりするじゃない。そのときのあなたって、決まって退屈そうな顔をしているの。会ってるときは全然そんなことないのに。よく笑うし、くだらないことも言うし。でも、私が思い出すあなたの顔は、いつもうんざりしたような表情なの。変よね、なんだか」
 雪夫は曖昧に笑った。そんなところへ出す顔にまで責任を持てるわけがない。杏子も微笑んでうなずいた。
 別れ話をした記憶はないが、秋も深まる頃から杏子と会う回数も減りはじめた。雪夫と教授との関係が急速に悪化したのもその時分で、大学から足が遠のきはじめたというのもあったのかも知れない。杏子自身も所属するサークルの実務をすべて任されるなど、多忙になっていた。年が明けてからは、就職活動も本格化してきたということで、ますます疎遠になった。
 杏子のことを思い出さない日も増えた。雪夫は、自分の欲望というものが、他人と比べてずいぶん希薄なように思う。性欲だけではない。本を読んだりテレビを眺めたりしながら自分の部屋で過ごすだけで、簡単に満ち足りることができた。とくに欲しいものはない。べつになりたいものもない。目標もなければ野心もない。食欲さえ浮かばないことがある。リビングのソファで一日過ごして、その日一日何も食べていないことに気づくこともめずらしくなかった。
 性格的なものかとも思う。それでひきこもりのように暮らしているのかとも思う。しかし、世に言われるような行き場のない不安や焦燥感のようなものは一切感じない。
 雪夫は、今度生まれ変わることがあれば、人間でも動物でもなく、深くて暗い森の中に生える一本の木になりたいと思っている。

 翌日はよく晴れていたので、布団と毛布を干した。この際だと思って、ベッドのマットレスも持ち出して、ベランダの物干しに立てかけた。
 朝から気分がいいのは久しぶりだ。たいてい午前中は、沈んだ気持ちでいることが多い。医者はそういうもんですよと言うが、薬のせいでぼんやりしたまま、暗いことばかり考えて過ごすのはあまり気持ちのいいものではない。
 それでも薬だけは飲んで、食卓で新聞を眺めていると、チャイムが鳴った。
 昨日の母娘だった。
「おはようございまーす」
 先に元気なあいさつをよこしたのは、真美という娘の方だ。
 母親が言った。
「今日もうすぐ、家具や荷物が届きます。ばたばたと少しうるさくしますけれど、よろしくお願いします」
 左の手首に細いブレスレットが光った。
 いよいよですか、とかなんとか言ったように思う。
 真美が握り拳を差し出した。
「お兄ちゃんにあげる。飛行機のお礼」
 手のひらを開くと新品の消しゴムが現れた。ピンクの消しゴムにキャラクターものらしいパッケージがついている。
「いい匂いがするよ」
 教えてくれたので鼻先にかざした。子どものものらしい石油製の薔薇の香りがした。
 雪夫はにっこり微笑んで礼を言った。
 母親がふと訊ねた。
「お仕事は何をしてらっしゃるの」
 小さな娘を持つ母親らしい警戒感が目の奥にある。無理もない、昨日も今日も平日だ。
 雪夫は大学院生であることを話した。今は春休みであることや、フランス文学を勉強していて、翻訳で小遣いを稼いだりしていることなどを。このご時世ですから心配ですよねと、丁寧にも学生証まで取り出して見せた。休学していることは話さなかった。
 母親の表情に安堵の色が浮かんだ。世間的には一流と言われている大学の名前も効果があったのだろう。
 やがて、どやどやと引っ越し業者のやってくる気配がした。
 二人が出ていったドアの前に立って、雪夫はもう一度消しゴムの匂いをかいでみた。
 ベッドルームに入って、枕元の電気スタンドの脇に置いた。
「消しゴムをもらったよ」
 人形に声をかけて、雪夫はリビングに戻った。新聞を隅々まで読んでから、きれいにたたんでマガジンラックに放り込んだ。
 その間もひっきりなしに隣の部屋では家具を動かす音がしていた。玄関のドアの向こうでは、業者の指示を出す声がする。
 昼が近くなったので、久しぶりに外へ出かけることにした。頼まれている翻訳の締め切りも迫っているが、今日ばかりは部屋にいてもはかどりそうにない。
 鞄と車のキーを持って表に出た。母親が業者らしい男となにやら話をしていたので、その脇を会釈して通り過ぎた。
 大学にほど近い住宅街にあるイタリアンレストランでパスタの昼食をとった。ガーリックのよく効いたバジリコのスパゲティは、オリーブオイルの高い香りをまとって、新鮮なイカとムール貝のあしらわれたサラダによく合った。
 ゆっくりと食事を終えて、大学の図書館に向かった。フランス文学の専門書なら、むろん研究室の書架の方が充実しているが、今日は翻訳中の短編小説の参考にと、聖書関係の参考書を何冊か借りた。学生用の端末でいくつか調べものをして、簡単にまとめたものを板ガムほどの大きさのメモリスティックに保存した。
 メモリスティックには、翻訳の原稿も入れてあるので、少し続きを訳しておくことにした。雪夫は、鞄から原文のコピーを取り出した。
 若者は、伯父の用意した婚礼を控えている。にもかかわらず、夜毎の饗宴を繰り返す。ことに、夜が更けてからは、奔放な女中や馬丁を広大な寝室に招じ入れ、退廃の限りを尽くす。城下の貧しい街区から少女や少年を金で買うようにして連れ込んでは、犯したり殺したりするのだ。
 翻訳は若者の回想シーンに差し掛かっていた。若者は幼い頃に、両親の寝室を覗く。そこでは、高位の貴族であるはずの父親が、凶暴な牛の角のように股間の男根を振り立て、全裸の母親を鞭打っている。若者は、昼間は貞淑な母親が涙を流して悲鳴を上げ、身悶えする姿に、目が眩むような興奮を覚える。それが単なる暴力であればきっと止めに入るはずの女中たちも、あられもない姿で、妖しく父親にまとわりついている。
 若者はそのシーンを繰り返し夢に見る。夢は次第に幻想的になり、父親の寝室には、尻尾の生えたものや身体を鱗に覆われたものどもが増えてゆく。
 雪夫は、そのあたりがシュルレアリスム前夜の作品として、主宰者の目にとまったのかと思う。絵画にたとえるなら、デルボーの静寂やダリの奔騰にはまだまだ遠いが、確かに二十世紀の作品だ。
 淫蕩なシーンが多いために、雪夫は訳していてしばしば性的な興奮を覚えた。そうすると言葉を選ぶのにいっそう難渋することになる。ともすればスポーツ新聞の片隅にある官能小説のようになってしまうのだ。だからといって、栽尾という言葉まで使おうとは思わなかった。
 雪夫は窮屈になってきたズボンの股間を見下ろしてため息をついた。この場所では、ここまでにしよう。
 こういうとき、自室であれば自慰に至ることもある。それを見ると、ナナは決まって面白そうに笑った。
 気がつくと夕方になっていた。スーパーマーケットに寄ってマンションに戻ると、引っ越し業者のトラックはすでになかった。引っ越しも終わったのだろう。
 部屋の鍵穴に鍵を差し込んで、錠が開いていることに気がついた。施錠し忘れたかと舌打ちしたが、万一のことがあるので左手で肩から提げた鞄の底にあるナイフを鞘ごと握りしめた。
 静かにドアを開けたつもりだったが案外大きな音がした。
 部屋の中から、「おかえりー」という少女の声がした。
 雪夫は、息を吐き出してナイフから手を離すと、リビングのソファで仰向けになって本を読んでいる真美に、勝手に入ったのかと問い質した。
 雪夫の厳しい表情に、真美は不安げな顔になった。
「勝手じゃないもん。ピンポーンってしたもん」
 それでも咎めるような雪夫の目に、真美は傷ついた表情になった。ずいぶん日は長くなったとはいえ、外はすでに薄暗い。
 母親の所在を訊ねた。
「お出かけ。市役所に行くとかいってた。真美はおるすばん」
 留守番とは、家でじっとしていることだ。第一、母親が連絡しようとして電話をかけても、誰も出なければ心配するにちがいない。
 雪夫の説明に、真美はしまったという表情になったが、間をおかずに答えた。
「お外で遊んでたって言うから」
 雪夫は再び鞄に手を入れた。鞄の中でナイフの鞘を払う。
「おみやげ?」
 真美がにっこりと、首を傾げて雪夫に聞いた。
 雪夫もつられて苦笑しながら首を振った。鞄の中の左手でナイフの柄を握り、親指の腹で刃先を撫でた。よく研がれた刃が指紋にちりちりと引っかかる。
 今日、大学で訳しかけていた場面が頭に浮かんだ。
 若者は、柄に象嵌の施された優美なナイフで、摘み上げた少女の乳首を切り落とし、葡萄酒に浮かべて飲み干すのだ。後ろから少女の肛門を犯しながら。
「なあんだ」
 真美は叱られたことも忘れたかのように、元気よく立ち上がった。
「じゃあね」
 真美は手を振ってドアを出た。雪夫は、左手を鞄の中に入れたまま右手で答えた。真美が隣の部屋に戻るまで玄関に立って見送った。
 玄関のドアを閉めて、鞄からナイフを取り出した。シャツの裾で刃についた汚れを拭い、しばらく眺めてから鞘に納めた。
 夕食は、買ってきたカレイを平鍋で煮付けた。落しぶたをどけては丁寧に煮汁をまぶし、飴色になるまで時間をかけて煮込んだ。同じ煮汁で葱とわかめをさっとゆでて、カレイに添えた。よく味のしみこんだカレイの身は、箸の先でほろほろとほぐれ、口の中ではしっとりと溶け崩れた。炊きたてのご飯が思いのほかすすんで、雪夫は二度もおかわりをした。
 一人暮らしをはじめたころは、ほとんど自炊などしなかったが、今では洗い物も苦にならない。
 雪夫が一人暮らしをはじめたのは、大学に進んでからだ。小さい頃は、勉強部屋も姉の由香と共有で、寝るときも、父親が死ぬまで二段ベッドを使っていた。父の死後、広かった部屋は雪夫が使うことになった。由香が父親の死んだ部屋を使うことをいやがったせいだが、雪夫はさして気にならなかった。父親の霊がこの部屋に現れるなら、言葉を交わしてみたいと思った。
 自分の部屋を手に入れてからというもの、雪夫は学校から帰ると、食事以外は部屋から出なくなった。父親の書棚には小遣いで買った文庫本をそろえ、ラジオを唯一の娯楽として、日がな本を読んで過ごすことが多かった。
 母親が勝手に掃除をするのと、口うるさい由香が用もないのに乱入してくるのは気に入らなかったが、文句を言うこともなく、おとなしい中学生のまま、家族とほとんど言葉を交わすこともなく日を送った。雪夫には反抗期の記憶がない。
 だから、一人暮らしにはじきに慣れた。雪夫は、この部屋で暮らしはじめて以来、家具やカーテンからボールペンの一本にいたるまで、自分の好みで空間を満たしつづけてきた。そこへ三年前、偶然のようにナナを迎えて、雪夫の世界は完成を見た。いまや自分の家にいるだけで、雪夫は簡単に、そして完全に充足することができた。
 決して邪魔は入らないし、異物は入れないように心がけてきた。子どもの頃と同じく、突然訪ねてくるような友人もいない。杏子もほんの数回来ただけだ。もう来ることもないだろう。

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