スガノさんの公園(1)

2004年4月18日公開。短編小説(四百字詰め約70枚のうち前半部)


 スガノさんは公園に住んでいる。いわゆるホームレスというやつだが、バブルがはじける前からそんな暮らしをしているので、今さらそんなふうに呼ばれてもなあと思う。昔ながらの浮浪者と呼ばれるのも気にくわない。鉄くずやアルミ缶を拾いながら生計を立てている。
 スガノさんがここで暮らし始めたときからいる仲間は、もうほかにいなくなってしまった。いつの間にか一番の古株で、世話役なようなこともさせられることがある。
 この公園に急にテントが増えたのもここ数年の話だ。それでも、国道の向こうの大きな公園ほどではない。あっちは、そばにドヤも多いし、労働者相手の屋台も多いので、公園はテント村のようになっている。片隅には放置自転車が山のように積み上げられ、水道の脇にはいつの間にか流し台がおかれている。子どもたちが遊べるような雰囲気ではない。キャッチボールをしているホームレスはいるけれども。
 スガノさんのいる公園は、まだぽつぽつとテントがあるきりで、子どもたちも遊びに来る。スガノさんはその邪魔をしないように、ベビーカーを押すお母さんたちに嫌がられることのないように、気をつけることにしている。
 少女は、毎朝午前十時ごろ公園にやってきた。やたら胴長で足の短い犬を抱いている。犬の散歩に公園にやってくるらしい。
 その時間には、スガノさんの仕事もたいていひと段落しているので、公園にいることが多い。集めた空き缶をお金に変えるのは昼過ぎなので、それまでは洗濯やらなにやら身の回りのことをしたり、公園の掃除をしたりする。
 スガノさんは毎朝公園のまわりの掃除を欠かさない。公園に住まわせてもらっている以上、ある種の礼儀だと思っていた。
 スガノさんは、少女を中学生だと思ったので、見かけるたびに学校へ行かないでいいのだろうかと不思議だった。
 春先のある日、声をかけたのは少女の方からだった。
「おはようございます」
 それだけでなぜかスガノさんは真っ赤になった。
「お、お、おはようさん」
 少女は黙って通り過ぎた。
 それをきっかけに、顔を合わせると言葉を交わすようになった。
 少女はいつも白いワンピースを着ていた。フリルのついたのや、すっきりしたのや、スカートの広がったのや、短いスカートだったりしたが、少女は白い服が好きなようだった。
 その日、ベンチで拾った新聞を広げていると、目の前に中年男が現れた。
「スガノさんですか」
 ちょうどあくびをしかけていたところだったので、おかしな返事になった。
「ん、んあ、ああ」
 男はスーツにネクタイという姿だったが、どこかくたびれた感じがした。ひどく緊張している。
 男は、スガノさんに向かって名刺を差し出した。
「わたくし、こういうものです」
 名刺には会社の名前と、課長という肩書きが見て取れた。モリモトというらしい。
「ふん、で、なんだあ」
 思わずつっけんどんな調子になる。初対面で名刺を出すやつにろくなやつはいない。
「スガノさんですよね。向こうの人に聞いたんですが」
「ならどうだっていうんだ」
「モリモトといいます」
「私をこの公園に住まわせていただきたいと」
 石でも飲み込むような表情で、モリモトはそう言った。しかも、それだけ言ってうなだれている。
「すわんな」
 スガノさんは新聞をていねいにたたんで、隣を示した。
 モリモトはベンチに腰をおろして、スガノさんの方を向いた。
「あの、これ、お近づきのしるしに」
 そう言って、たばこの箱を差し出した。
 スガノさんは、ネクタイをした人間に話しかけられることなどめったにないので、ちょっとめんくらっていた。それに近ごろは軽いたばこしかすわないので、ハイライトはどうも。
 スガノさんは、それでもたばこは受け取った。自分が吸わなくてもそこいらでとっかえてもらえばいい。
「住むもなにも、ここは天下の公園だ。だれに遠慮も断りもいるもんか」
「ええ、ま」
 男は気弱そうなほほえみを浮かべた。
 スガノさんは、公園に住むのに何でいちいち自分に断りに来るのかよくわからない。最近では椿の植え込みの向こうのしんさんがそうだったし、サツキのところのつかもっさんもそうだった。一番この公園が長いのはたしかだけれど、喧嘩の仲裁なんてのもよくするけれど、いちばん年寄りだけれども。
「テントなら空いたやつがあるから。あっちのそれ、ぎっこんばったんの向こうの、くすの木の下のが空いてる」
 そういや、あそこに住んでいたよしみっつぁんは、国道の向こうの大きな公園でもめごとに巻き込まれて刺されたのだった。
「荷物もそのままだが、使えばええ。持ち主はでていった」
「どこかへ行ったんですか」
「死んだよ。去年の暮れだったかなあ。そんなあとへ住むのはいやかい」
 モリモトは、スガノさんが打ち解けた表情で話すのでほっとしたのか、うなだれていた顔を起こして肩をすくめた。
「なんてことないですよ。伝染病だとか、中で自殺したとかだとちょっと気味悪いですが」
「けがだよ。病院に運ばれてその日に死んだ」
 モリモトの眉間にほっとした色が浮かんだ。
「じゃあ、あとは適当にしな。ほかの連中がなんか言うなら、わしがいいって言ったって言え」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして」
 お言葉に甘えまして。そんな言葉、スガノさんは長らく聞いたことがない。なるほどこいつはサラリーマンくずれだ。
 モリモトは、両手の紙袋を振り回すようにして立ち上がった。肩から下げたふくれ上がったショルダーバッグをゆすり上げる。
 スガノさんは、男のことがなぜということもなく気になった。こじゃれたネクタイをぶら下げているのも変だったし、ワイシャツもさほど汚れているようには見えない。ズボンの折り目はさすがに消えてしまっているが。
「とにかくその荷物をおろすこった」
 スガノさんは、テントの入り口にちびたほうきを立てかけようとして持ち直し、男の前に立って歩き出した。
 よしみっつぁんのテントはまだしっかり立っていた。そりゃそうだ。よしみっつぁんは腕のいいとびだった。スガノさんのテントもよしみっつぁんに骨組みから立て直してもらって、三年たつ今もびくともしていない。
 ただし、中はずいぶんと荒れていた。よしみっつぁんが死んだというので、ほかのホームレスが、めぼしいものはあらかたもってでてしまっていた。国道の向こうの公園からわざわざ出張ってきた爺さんのホームレスが、形見分けだあと歯のない口を開けて笑っていたのを思い出した。
「あれまあ、なんもねえな」
 つくりつけのベニヤ板の立派な棚には、欠けた茶碗や割れたウイスキーの瓶が並んでいた。床板代わりのコンパネには、綿が半分以上はみ出した敷き布団が一枚、腐ったたわしのような臭いを放っていた。手前の土間部分には、古新聞が一山と、からのペットボトルが数本、そしてなぜか高さが五十センチほどもあるこけしが一つ、転がっているきりだった。鍋釜のたぐい、カセットコンロやラジカセはもちろんあとかたもない。
 スガノさんは、男に手伝わせて、まずテントの裾を一回りまくり上げさせた。青いシートのすそ回りには鳩目が打ってあって、ひもがついていた。これもよしみっつぁんの仕事だ。子どものころ、キャンプに行って本格的な野営用のテントの仕組みに感心したとか言っていた。
 テントの中のものは、布団とばかでかいこけしをのぞいて、公園の入り口にあるゴミ箱まで運んだ。
 男は、なにをやらせても手際が悪かった。ひもを結ばせると立て結びになるし、茶碗を三つ持つと、瓶を一つ落とした。
「布団は、使うならよく干すことだ。なにがいるかわからねえぞ。綿をほぐしていっぺん洗った方がいいかもしれない。こけしはまあ、人形だからな。化けてでるかもしれない。だいじにするこった」
 男は、テントから布団を引きずり出して、クスノキの枝にかけた。はみ出していた綿がおおかたこぼれた。男はそれも無理矢理別の枝のまたに押し込んだ。
 スガノさんは自分のほうきで、砂ぼこりやごみくずを一通りはき出してやった。
 男とスガノさんは、テントの前に転がっているビールケースに腰を下ろした。
「あんたさ、なんでこんなとこへきたんだ」
 ホームレスが過去のことを話したがらないというのは嘘だ。みんな、なにかしら昔が懐かしい。自分の不始末で落ちぶれたものや借金で逃げ回っているものでさえ、みんな自分のことを話したくて仕方がない。話題がそれしかないということもあるが、昔は羽振りがよかったとか、女が三人いたとか、万博ではソ連館の足場を組んだとか、すぐ自慢話になる。
「うううん。リストラってやつで。三十年ほどまじめに働いたんですがねえ。仕事が見つからなくて、嫁さんと子どもは出ていった、ちゅうか、こっちからマンション飛び出してきましたから」
「まだ若いじゃないか」
「五十近くなると、職安じゃじいさんですよ、もう」
 男はポケットからたばこを出して火をつけた。
「昨日までね、そこのドヤにいたんですけど、とうとう金もなくなってきたし。今からなら気候もいいから、公園も悪くないなって」
「ばかやろう」
 なぜか笑顔の男に、スガノさんは普通の声で言った。
「だいたいあんた、なんでネクタイなんかしてるんだ」
「落ち着かないんですよ」
 クスノキの大木が落とす葉陰は、細かい光をこぼして肌に心地よい。
「静かなんですね」
「ああ、昼まではたいていこんなもんだ。仕事に行く奴は行くし、子どももこねえ」
「仕事、ですか」
 男は遠くのブランコをまぶしそうに眺めていた。
「ああ、うまく土方仕事にありつく奴もいるし、あとはまあ、やっぱり空き缶拾いや露店とかだな」
「スガノさんは、今日はお休みなんですか」
「はは。毎日がお休みみたいなもんだ。今日は天気も良さそうだし、掃除や洗濯でもすっかなてなもんだ。公園暮らしってもよ、案外まじめな奴は多いよ。みんな百円二百円のために一生懸命だ」
 そこへ一人の男が近づいてきた。絵に描いたようなホームレスだ。古雑巾で作ったみの虫みたいな格好に、肩より長い髪は汚れと油で板のように固まってしまっている。顔を覆う髭には得体の知れない白いものがいっぱいこびりついている。
 十歩離れたところからでも異臭が漂ってきた。
「そうでもない奴もいるけどな」
 スガノさんが耳打ちした。
「なんだい、こんちゃん」
 こんちゃんと呼ばれた男は、黙って歯をむいた。笑ったらしい。まっ黄色でヤニだらけの歯は意外と歯並びがよかった。前歯が一本欠けていたが。
「にいちゃん、百円くれ」
 モリモトは、うっと身を引いた。
「ちがうって、こいつは新入りだ。よしみっつぁんのテントに住む」
 こんちゃんは、ぶつぶつ言いながら公園を出ていった。知り合いに食い物をせびりにでも行くのだろう。
「あんたさ、子どもがいるんだろ」
「はあ、今もかみさんとマンションにいます」
「いくつだい」
「上は中三の娘、下が小学校五年の男」
「かわいいもんじゃねえか、まだ」
「仕事一本でしたから。下の子が小さなころは、ちり紙一つ買うにも家族4人で手をつないでいったもんですけど」
 モリモトは空を見上げて咳払いを一つした。
「まだ飛び出して三月ですから。思い出すとやっぱりなつかしくて」
「どうすんだ今晩から」
「着替えはありますし、食事もしばらくはその辺で食べるつもりです」
「稼ぐのは」
「仕事見つかりませんかねえ。そうだ、今晩は私の公園デビュー祝いに食事をしませんか。おごりますよ」
「ありがたいね」
 自分のテントに戻って、スガノさんはちゃぶ台の前に座った。
 スガノさんのテントは、さっきのとは比べものにならない。つぶれた印刷屋の倉庫からもらってきたパレットを二枚重ねで床にして、これも改装中のラブホテルからもらってきた畳をしいてある。テントはざっと一間半の二間、したがって中は六畳一間の立派な和室になっている。
 子どもか。
 スガノさんは、急須でお茶を入れながら、子どものことを思い出した。
 おれんちは倅が一人きりだった。もう二、三人ほしかったのだが、かみさんの方が無理ってことになった。子宮が何とかって、いってたっけ。
 タカノリはもういくつになるんだろう。スガノさんは指を折って数えたが、自分がいくつの時に生まれたのか忘れたので正確なところは思い出せなかった。生年月日はもとより記憶にない。
 ま、40前ってとこかな。結婚してれば小さな子どもぐらいいるんだろう。孫か。頬があつくなって、スガノさんはなにかを断るように顔の前でぱたぱたと手を振った。
 スガノさんの父親は畳職人だった。猫の額ほどの土間で、いつも藁くずや畳表の切れ端にまみれて仕事をしていた。先のとがった道具や、こわいような刃物がそのへんにいくらでもあったので、小さなころは仕事場に入るたびに怒られた記憶がある。
 母親はおとなしいけれど気丈な人だった。父の仕事を手伝いながら、家のことはすべてこなしていた。細い腕で、畳を積み上げたリヤカーを引くことも苦にしなかった。スガノさんは、母親と畳の配達や回収についていき、からのリヤカーに乗せてもらうのが大好きだった。
 畳屋は兄が継いだ。今も同じ場所で店を構えているはずだ。
 スガノさんは、中学を卒業してすぐ、父の知り合いの建具屋に奉公にでた。カミナリ族ととやらに混じってオートバイを乗り回したこともあったが、仕事はまじめに勤めて建具職人になった。それで兄と二人で日本家屋の内装をずいぶん手がけた。そのうちに結婚した。子どももできた。
 どこでこんなことになったんだろう。スガノさんはいつもの詮ない疑問を思い浮かべた。
 まあ、兄貴と喧嘩はしたし、それで家も店も飛び出したんだけれど。女のこともあったかな。あれはもっと前だったか。あとだったか。
 当時はそれでも食うに困らなかった。高度経済成長時代で、日本中に仕事はあったし、身軽で腕のいいスガノさんはどこへ行っても重宝されたものだ。
 こっちへきたのがけちのつきはじめだったか。スガノさんが大阪へきたころには、フリーの建具職人に居場所はなくなっていた。襖障子は言うに及ばず、建具一切が工場生産の規格品になってしまった。そもそも、団地なんてものがはびこり出してから、スガノさんが腕を振るえる日本家屋そのものが都会から消えていった。
 そのうちに金もつきてきたので、建築関係の仕事に出かけることにした。これは朝早く起きることさえできれば、仕事を選ぶことさえしなければ、とぎれることはなかった。もっこも担いだし、つるはしもふるった。仮枠を組むのはお手の物だった。かんなのひとかけ、にかわのひと塗りで精度の狂う建具とは、同じ組立仕事でも話にならない。一戸建ての手伝いのときには、ガレージの土間うちなんかの合間によく内装を手伝ってやった。工場製の建具を工場製の柱や敷居に納めることしか頭にないサラリーマン職人は、あっと言う間にほぞを切り、建具のくるいやゆがみを直すスガノさんの手つきを、口を開けて見守ったものだ。
 そのうちに不景気がやってきて、立ちんぼうで得られる仕事自体が減ってきた。そこへスガノさん自身も老け込んできたので、仕事のない日がめっきりと多くなった。
 そこから公園暮らしはすぐだった。もともとホームレスの多い町だったので、あまり抵抗はなかった。
 スガノさんがホームレスになったころは、路上で暮らす人間もそうは多くなかった。国道の向こうの大きな公園の方も、テントは数えるきりで、まだまだ段ボールをしいただけとか、職安の軒先で寝るとかで、テントを構えたホームレスは少なかったように思う。
 そのころとなりのテントで暮らしていたのは、でんさんといった。本名が伝蔵とかだからなのか、電鉄会社に勤めていたからなのか、それはわからない。
 でんさんはスガノさんよりずっと年上で、神経痛持ちだったが、まじめでよく働いた。毎朝暗いうちから立ちんぼうに出かけては、仕事にあぶれ、そのあとで鉄くず拾いに出かけた。九州に家があり、ばあさんは元気かなあというのが口癖だった。スガノさんは、でんさんに公園暮らしのあれこれを教わったようなものだ。身ぎれいにすること、まじめに働くこと、明るいうちから酒は飲まないこと。たとえ百円でも金の貸し借りは決してしないこと。ばくちに手は出さないこと。考えると、堅気よりまじめな暮らしかもしれない。
 ある日、スガノさんが起きると、でんさんは自分のテントの裏で首をくくっていた。
 スガノさんは、栗の木からぶら下がったでんさんの死体を見るなり腰をぬかした。でんさんの見開いた真っ赤な目も、紫色に突きだした唇も、ろくに見ずに自分のテントまで這ってもどり、その日は一日布団の中でふるえて過ごした。パトカーだか救急車だかのサイレンが聞こえている間も、布団にもぐって目をぎゅっとつぶって念仏をとなえていた。
 スガノさんは死体を見るのがとてもこわい。テント暮らしも長くなると、真冬にはごろごろ凍え死ぬやつを見かけるし、病気で死ぬやつ、けんかで殺されるやつもめずらしくないのだが、スガノさんは死体を目にするたびに腰を抜かしてテントに逃げ戻る。いい年よりが情けないとも思うのだが、こればかりは慣れもしないし、どうしようもない。戦争の時にむごたらしい死体をたくさん見たので、そのせいかとも思う。
 終戦の年、スガノさんはまだ子どもだったけれど、東京大空襲のことははっきりと覚えている。昭和の初めに父親が東北からでてきて上野の近くで畳屋を始めたので、スガノさんは東京生まれだ。空襲の日、スガノさんは父親に背負われて逃げ回った。兄は、母親が手を引いて逃げた。そのときに、走りながら燃え上がる人間や、川に折り重なって浮かぶたくさんの死体や、黒こげの人形のような死体が山と積まれたトラックを見たのだった。
 大きくなって親の話すところでは、スガノさんは死体を見るたびに火がついたように泣き出して、なかなか泣きやまなかったという。つまり、空襲の時は毎日一日中泣き通しだったということだ。母親は困じ果てて、死体があらかた片づくまで、スガノさんに目隠しをしたという。
 家のあったところに戻ったときには、あたりまえのように一面の焼け野原で、スガノさんの一家はすべてを失っていた。
 その後、一家は親類を頼って東北に戻り、父親は再び畳屋を始めた。だからスガノさんは東北育ちだ。
 その夜は、モリモトがおごってくれると言うので居酒屋に出かけた。居酒屋といってもサラリーマンや大学生が来るような店ではない。おでんと串カツと土手焼きしかない、じいさんばあさんが二人でやっているような店だ。屋台なのか店なのかも判然としない、客もホームレスとドヤの住人が半々という、安いだけが取り柄の店だ。
「おれもよ、なんでこんな暮らししてんだかと思うよ」
 スガノさんは久しぶりにビールなんぞにありつけて上機嫌だった。
「故郷(くに)に帰れば、ばあさんも息子もいるはずなんだけどなあ」
「スガノさんはどこからきたの」
「とーほぐだ。ま、どこでもよかんべ」
 わざとおどけて言った。
「あんたこそ、まだ若いんだからもうちょっとなんとかなんなかったのかい」
「なんなんでしょうね。なんとかなったんでしょうかね」
 モリモトは他人事のように言った。
「けっきょくのとこ、逃げちゃったんです。仕事は見つからない、貯金は減る一方、かかあの目はきつくなるか憐れむか。娘は口をきいてもくれなくなりましたし。そんなこんなで逃げ出したんです」
 モリモトは酔いのせいか充血した目を潤ませた。
「でも一番きつかったのは息子でね、これが五年生だってのに子どもっぽいんですよ。父親が家にいるのがうれしいのか、毎日小学校から飛んで帰ってきちゃ、キャッチボールしようだの、テレビゲームしようだの」
「かわいいもんじゃねえか」
「でもね、それが一番つらかったんですよ。俺はこいつのために……」
 モリモトは唇をかんでうつむいた。グラスを持つ手に涙が落ちた。
「おいおい、泣き上戸なのかい」
 モリモトは手の甲で涙をぬぐうと、ジョッキをぐいとあおって空にした。焼酎を頼んだ。
「ぐれでもしてくれた方がよかったかもしれません」
「んなわきゃねえだろう」
 モリモトはそのあとも涙を流しつつづけた。家族にすまないと言い、自分の弱さを嘆いて、泣き言を繰り返した。
 スガノさんは、目の前でぐずぐずと泣く中年男に注意もしなければ、はげましもしなかった。うんうんと話を聞いてやっただけだ。 
 スガノさんにはモリモトの気持ちがよくわかる。ホームレスの多くは、多かれ少なかれ家族を捨ててこの道に入る。借金や不始末でモリモトのように逃げてくるもの、都会へ出稼ぎにきたまま居着いてしまうもの、クビや倒産で働き口を失ったまま帰れなくなるもの、だれもが残してきた妻子や年老いた両親への思いにとらわれている。
 そしてだれもが孤独だ。公園の仲間といい、飲み仲間、ばくち仲間といっても、結局は別れてしまえば思い出すこともない。たばこ一箱で殴り合いのけんかが平気でできる関係にすぎない。
 新入りのモリモトは、そんな通りすがりのような話し相手さえいなかったのだろう。家を出てのこの数ヶ月、三畳一間のドヤのせんべい布団の中で、家族の顔を思い出しては孤独と後悔にのたうちまわっていたのだろう。
「あんたさ、よくがんばったよ。さみしかったのによ」
 スガノさんは、テーブルに突っ伏してしまったモリモトの頭に声をかけた。
 モリモトは、そのままの格好で、大声で泣き出した。
 まわりの客が面白がりはじめたので、スガノさんはモリモトの襟首をつかんで立ち上がらせた。
「帰るぞ」
 そう言って金を払わせた。約束は約束だ。
 そして公園のテントへ戻った。
 翌朝、スガノさんはモリモトのテントをのぞいた。今日は空き缶拾いはやめだ。
 モリモトは、ネクタイ姿のまま段ボールと古新聞にくるまって、ゴミ捨て場の行き倒れのような格好で眠っていた。
 二日酔いのモリモトをたたき起こして、隣町の住宅街へ出向くことにした。本格的にあのテントで暮らすなら家財道具をそろえないといけない。
 だから、不燃ゴミの日になっている町まできた。
 鍋釜はたいてい見つかる。ふたがないとか、取っ手がないとかだけがまんすれば。カセットコンロもいいのがあった。布団はなかったが。
「なんだって捨てちゃうんですね」
 モリモトはゴミ袋いっぱいの戦利品を抱えて言った。
「あとはまあ、百円ショップででも適当にそろえるこった」
「ああ、知ってますよ。あっちのスーパーの二階にある」
 今日もいい天気だ。掃除や洗濯は昨日のうちにすませたので、仕事を休んだスガノさんには今日もすることがない。
 つかもっさんと将棋でもするか、図書館で一日過ごすか、なるべく腹の空かない金のかからない暇つぶしを考えていると、収穫物の片づけを終えたモリモトが、テントにやってきた。今後のことでご相談がとか言っている。
 めんどくせえなと思いながら、二人で日当たりのいいベンチに座った。
 そこへ、犬を抱いた少女が現れた。
「おはようございまーす」
 相変わらず屈託がない。
 少女は、そばのジャングルジムに犬をつないで、二人の間に腰を下ろした。
 モリモトは目を丸くして少女を見ている。
「お嬢さんですか」
 スガノさんに訊いた。  
 少女はそれを聞いてころころと笑った。
「ばかいうな。こりゃエリちゃんっていって、近所の子だ」
「はじめまして、おじさん。アベエリコっていいます」
 モリモトもつられて笑顔になる。
「これはこれはご丁寧に、恐れ入ります。わたくしはモリモトと申します。昨日からこちらの公園でお世話になっております。以後お見知り置きを」
 深々と頭を下げながら、わざと馬鹿丁寧に言った。エリちゃんは大いに喜んだ。
「へんなのー。サラリーマンの人みたい」
「サラリーマンだったんだよ、こないだまでだけど」
「やっぱし」
 エリちゃんはスガノさんの方を向いた。
「おじさん、よかったねえ。またお友だちが増えたねえ」
「ふん」
 スガノさんは仏頂面でうなずいた。エリちゃんと話しているとどうも調子が狂う。
 エリちゃんはそれで満足なのか、犬の方を見てにこにこしながら足をぶらぶらさせている。
 モリモトが話しかけた。
「おじさんにも、エリちゃんくらいの娘がいてね。思い出しちゃうな」
「何年生?」
「中三。三年生になってからは全然話してくれなくなっちゃったけど。昔はエリちゃんみたいによく笑う子だった」
「じゃあ、あたしのがイッコ上だ」
「ふうん、高校生なんだ。って、今日は学校は」
「おい」
 スガノさんがモリモトに声をかけた。
「不登校ってやつか」
「モリモト」
 スガノさんの表情が硬くなった。
 エリちゃんは微笑んだまま、スガノさんのひざを叩いた。
「いいのいいの。おじさんには話したんだけどね、あたしってば学校行ってないの。カジテツってやつ」
 エリちゃんは語尾を上げて言った。若い子らしい半疑問形だ。
「なんだって」
「カジテツ。家事手伝い。家でごろごろしてるだけなんだけど。でもお掃除とかお洗濯とかお料理とかもするよ、いちおう」
「なるほどねえ」
 モリモトはむつかしい顔で腕を組んだ。
「でも、高校くらいは出といた方がいいぞ、女の子ったって」
「学校の話はいいじゃねえか」
 スガノさんが割って入った。
「だからいいってば。あのね、あたしちょっと頭が弱くて、行く高校がないって言われたの。中三の時。テストだって0点ばっかりだったし、バカなのはわかってたけど、どっこも行けないって」
 モリモトは頭をかいた。
「そりゃ悪かった。でも勉強だってちょっとがんばれば」
「そこなのよ。ちょっと聞いてよ」
 エリちゃんはまじめな顔でモリモトの方にひざを向けてきた。
「聞いてるよ」
「がんばろうとしたんだけどね、やっぱりバカだったの。先生に言われたわ。学習障害だかなんだかで、勉強はがんばりようがないって。小学校からそんなこと言われたことなかったのに。普通の学校で普通学級だったのに。そんでさ、お父さんもお母さんも、いっときは暗かったんだけど、もうしょうがないなってことになって。それでカジテツ」
 モリモトは返答に窮した。学校の話を出したときに見せた、スガノさんの表情の意味がわかった。
「うーん。やさしいご両親だね」
 エリちゃんはにっこりと笑った。
「うん。どっちもだーい好き」
 エリちゃんは、「だーい」に力を込めて言った。モリモトはそれでいくらかほっとした。
「そりゃいい。それが一番だ」
「スガノのおじさんとは、この公園でなかよくなったの。いつもビンゴの散歩にくるでしょ。で、あいさつとかするようになって」
「ビンゴっていうのか、あの犬」
「うん。本名は木村備後守重政っていうんだけどね」
「はあ、どっかのお殿様みたいな名前だな」
「お父さんもちょっとかわってるから。面白がって変な名前になっちゃった。犬小屋にはすっごいりっぱな表札までつけちゃってさ」
「はは、そりゃおかしいや」 
 モリモトとエリちゃんはとりとめもない会話を続けた。スガノさんはあまり会話に入ってこなかった。
 そのうちにエリちゃんは立ち上がった。
「もういくね。楽しかったよ、おじさん。スガノのおじさんは、やさしいんだけどこんなにお話しすることないし。んじゃ、おじさんもエリコのお友だちになってね」
 そう言って手を差し出した。
「ああ、うん」
 モリモトは目の前の白い手をにぎり返した。小さい手は思った以上に柔らかかった。娘の手もこんなに柔らかかったろうか。モリモトは娘の手を握ったことなど何年もなかったことを思い出した。
「エリちゃんもよかったな。お友だちが増えて」
 スガノさんが言った。
「うん。あたし友だちっていないんだ、キホンテキに」
 エリちゃんは、じゃあねと言い残して、犬を連れて帰った。
「いい子ですね」
 モリモトは後ろ姿をな眺めながらつぶやいた。
「ああ、いい子だ」
 スガノさんはうなずいた。何度もうなずいた。
 モリモトの相談ごとというのは、なんのことはない、これからホームレスとしてどうして暮らせばいいのかということだった。蓄えと言っても、なくなってきたと言うとおり、財布に万札が数枚あるだけだったし、生活の立て方がわからないというのだ。
「あのなあ、ゴミ箱あさってでも食う、真冬でも吹きさらしで寝る、百円玉が命の次に大事、それがホームレスってもんだぜ。そんな決まった暮らしや稼ぎなんてあるかよ」
 スガノさんは、わざと厳しい言葉を返した。モリモトは軽い気持ちで公園にきたばかりだ。甘い言葉、気楽な言葉をかけてやる義理はない。むしろ、できるだけおどしつけて元の暮らしに押し返した方がいい。夕べはつらそうだったから、話を聞いてやったが、サラリーマンくずれのホームレスなど、冬が来る前にのたれ死ぬのが落ちだ。
「本気でこの先十年二十年、公園で暮らす気があるのか」
「いや、まあ、仕事が見つかれば」
「バカかおまえ。マンションで家族と暮らしてても仕事が見つかんなかったんだろうが。この不景気に、ホームレスにどんな仕事があるってんだ」
 相談に乗るというより、すでに説教だ。
「若いやつ、力のあるやつは、少ないながら土建の仕事もある。それも毎日、朝四時ごろから、向こうの職安の前に並んで、やっとたまにありつけるくらいだ。あんたにそれができるのか。たしかに、おれみたいに空き缶や段ボール拾って売って稼ぐって手もある。これも三時四時から、何十キロも自転車やリヤカーに積んで、何十キロもかけずり回って、やっと千円かそこいらだ。それがおまえの言う仕事か」
 モリモトは、スガノさんが急に怒りだしたので、首をすくめてうつむいた。相手が怒りだしたら、とりあえずすまなさそうにする。サラリーマン時代に身についた哀しい知恵だ。それでも伝えたいことは、怒りをうまくなだめながら伝えないといけない。これもサラリーマンの基本だ。
「私に覚悟が足りないのは承知しています。でも、たとえしばらくでも、ちょっとでもお金が入らないと不安なんです」
「不安だあ」
 スガノさんの目に力がこもる。顔に赤みがさした。
「帰りゃいいだろ。家も家族も保険も年金もあるやつが不安なんて言葉を使うな」
「すいません」
 モリモトはいっそう小さくなった。
「でも」
「でももへちまもない。とにかくおまえはいっぺんうちへ帰れ」
 スガノさんはそれ以上聞く気はないとでもいうように立ち上がった。
 モリモトは叱られた犬のような目でスガノさんを見上げた。
「スガノさん、昨日とか今朝とかと、ぜんぜん話がちがうじゃないですか。さっきまでは力になってくれるって」
 スガノさんは振り向きもきもせずに吐き捨てた。
「気が変わったんだよ、ばかやろう」
 スガノさんはテントに戻って横になった。
「けっ、サラリーマンくずれが」
 モリモトの、ですます調の抜けない口調が気にくわない。犬のような目つきと卑屈な態度が気にくわない。エリちゃんと初対面のくせになれなれしく話したのが気にくわない。
 腹が減ってきたので、昼飯は買いおきのカップ面にした。コンロに湯を沸かして、腹持ちのいいようにジャガイモを一個、薄切りにして放り込んだ。
 できあがったカップめんを持って、箸をくわえたままテントを出た。天気がいいので、ベンチで食う方がうまい。モリモトの姿は公園になかった。まさか帰ったわけでもないだろう。おおかた昼飯でも食いに行ったにちがいない。
 そういや、クラタもサラリーマンだった。スガノさんは、去年いなくなったホームレスを思いだした。モリモトよりは若かったが、保険や自動車、百科事典などセールスマン一本でやってきたと言っていた。そのせいか口もうまく、人当たりもいいので、ホームレスの間でも人気があったが、ばくちの借金がかさんで家族には遺書を残して逃げてきたらしい。
 それでもばくち好きは直らないのか、ここでも街角のさいころばくちに手を出しては、よく身ぐるみはがされていた。
 クラタは結局、ホームレスになりきれなかった。空き缶拾いも嫌ったし、日雇いも嫌がった。つまるところ、寸借詐欺であげられた。いや、金貸しに見つかってさらわれたんだっけ。噂はいくつかあったが、ある日突然いなくなっていたのだった。
 この暮らしにも向き不向きがあるのかなあ。スガノさんは思う。
 屋根のある暮らしのころのことが忘れられないやつ。ごみ箱をあさるのにプライドがじゃまするやつ。孤独に耐えられないやつ。頭の善し悪しも、馬力のあるなしも、まったく関係ない。なじめるやつはなじめるし、なじめないやつはいつまでたってもなじめない。
 モリモトなあ。腹がふくれて、いつの間にかスガノさんの腹立ちもおさまっていた。職安へいっぺんつれてくか、空き缶拾いを手伝わしてみるか。あれもなじめそうにないけどなあ。
 今日は、公園の東側をざっと掃除することにした。その辺のホームレスに声をかけると、いつもの通り、二、三人がひまつぶしに手伝ってくれた。
「おんなじことするのも、役所の手伝いなら五千円ばっかくれるんだけどな。スガノさんじゃ、お茶の一杯もでればいい方だ」
 げんちゃんが笑って言った。
 公園の東側の道を渡るとコンビニがある。同じように表を掃いていた店長が、スガノさんと目が合うとウインクした。あとで寄ってくれるらしい。
 掃除のあと、つかもっさんと将棋を指して半日つぶした。モリモトは帰ってこない。職探しか。
 夕方になってテントに戻った。今夜あたりからそろそろ仕事にも出かけないといけない。晩飯を食べたら、さっさと寝ることにしよう。
 あたりが暗くなったころ、コンビニの店長が普段着でやってきた。いつもの通り、手には期限切れ弁当が二つばかり入った袋を提げている。
 店長は、テントの中に入ってくると、畳の上にあぐらをかいた。テントの中は暗いので、スガノさんは乾電池式のランタンをつけた。店長は目の前に缶コーヒーを二つおいて、一つを手に取った。
「今日は、昼間なんだ」
「バイトが急に休みやがって。帰って休んだら、また朝まで出なくちゃなんない」
「そりゃ楽じゃねえな」
 店長は弁当を差し出した。
「食べるかい。期限切れで悪いけど」
 スガノさんは断ったことはないが、店長はいつも聞く。
「ありがたい」
 そう言って、スガノさんは百円玉を二枚差し出した。
「どうせ捨てるんだから、いいってのに」
「おれの気がすまないんだ」
 これもいつものやりとりだ。
 ここいらのコンビニは、期限切れの食べものの処分にえらく気を使う。表へ出しておけば、ホームレスが寄ってきてあっという間になくなってしまう。それはそれでよさそうなものだが、そんなことをしていると、自治会だの町会だの、住民がやかましく文句を言うという。「餌付けすると寄ってくる」と、どっかの民生委員が言ったと聞いたことがある。野良犬かってんだ。だから、ほとんどの店は、バックヤードに積み上げたまま、ゴミの回収車が来るのを待つ。配達の車が、余りを持って帰る会社もある。いやらしいところでは、ゴミ袋に中身を全部あけて、砂をどっさりまぶしてから表に捨てる店もある。
 この店長が、スガノさんにだけ時折弁当をくれるのにはわけがあった。
 一昨年の冬、包丁を持った強盗を後ろからぶん殴ってやったのだ。その夜はあんまり寒いので、空き缶拾いに出る前にあったかい肉まんでも食おうと、コンビニに寄ったのだった。ついでに雑誌をぱらぱらめくっていると、顔まで隠れるヘルメットをかぶった強盗がやってきた。いきなりレジで、店長に包丁を突きつけて、金を出せと言い出したので、スガノさんはできるだけ重そうな雑誌を五冊ほど掴んで、ヘルメットの後頭部にたたきつけた。強盗はそれで倒れたから、一瞬脳しんとうでも起こしたのだろう。そこで、もみ合いになって、店長ともども取り押さえはしたのだが、スガノさんは強盗の包丁で太股を刺されたのだった。
 結局半月ほど入院したが、いまも少し足を引きずっている。
 それを恩に感じたのか、店長は見舞いにも来てくれたし、今も弁当をくれたり、よくしてくれる。でも、スガノさんは物乞いではないと言い張って、弁当一個につき必ず百円払うことにしている。
 以前、店長が言ったことがある。
「マンションの自治会に文句言われちゃった。怒鳴り返したけどね。スガノさんは強盗やっつけてくれたって。公園の掃除もしてるし、ほかのホームレスが迷惑かけないようにしてくれてるって。連中もそれはよく知ってるからね。それでスガノさんだけはオーケーなんだ」

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