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シン・エヴァ論:|| 『マリとは誰なのか?』

庵野秀明と僕

結びとして、もはやファンにとってマナーとも言うべきエヴァ語り、極私的な僕個人の体験でこの場を締め括りたい。(もしここまで読んで頂けた方がいるなら、本当にありがとうございます。)

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開される今から17年前。2004年春、大学3年の終わりの僕は、NHK「トップランナー」の番組観覧に来ていた。ゲストが庵野秀明であったからだ。

エヴァ直撃世代の僕は、「Air/まごごろを、君に(通称・夏エヴァ or EOE)」を境にアニメから卒業していた。だが、大学上京後にテレビで偶然見かけた夏エヴァで、公開時は理解できず困惑しかなかった部分が氷解するように自分の中に受け入れられ、エヴァのリマスターDVD販売の動きと相まって、庵野秀明監督の過去作やインタビューなどの書籍を漁りまくっていた。(余談だが、同時期に放映されていた富野由悠季監督の「OVERMAN キングゲイナー」をキッカケに富野作品にもハマり、四年制大学に通っていた僕は、その頃にはアニメ業界で働く事を決めていた。)

「キューティーハニー」の公開を控えている状況で、その宣伝を兼ねての番組出演だった。当時の庵野さんと言えばアニメーションから距離を置いていて、「式日」や松たか子のMV、「流星課長」など実写が主戦場で、ネット上の意見も(と言っても2chのエヴァ板ぐらいしかありませんでしたが)庵野秀明という作家に関しては冷笑的な意見しかなかった、と記憶している。
監督として”アガってしまった”人という認知とも言うべきか、庵野さん自身も一線から退いた空気を出していたように、僕のようなファンすらも感じていた。

そんな当時の状況の中で興味のない友人を誘い他愛も無い話をしながら、NHKの開場入りを待っていると、NHKのスタッフに呼び止められた。
「フクイさんですよね?」
「質問を言って頂けますか?」
どうも観覧希望の申し込みの際に僕が書いた質問事項がNHKに採用され、番組恒例の質問コーナーで庵野さんに直接質問をしてくれ、という事であった。
(番組としては、毎回ゲストが直接観覧に来た方を指名している体裁になっていたが、少なくともその時は庵野さんがその場で2名指名、それに加えて番組サイドが事前に決めた2名[僕含む]の計4名が質問できた。編集でそこを繋いで庵野さんが指名したように見せる。ヤラセではなく、まぁ演出ってヤツですね。)
突然の事に戸惑いながら、憧れの庵野秀明その人に質問できるとあって、お気楽ムードから一気に自分の緊張が増したことを強く覚えている。
番組収録が始まるも、質問内容を頭の中でトチらないように必死に反芻しながら、話半分で観覧。そして番組終盤の質問のコーナーを迎える。
遂に自分の出番が回ってきた!(出番というのも変なんですが…)

「数年前のインタビューで、『クリエイターは結婚するとダメになる』と仰っていたと思うのですが、ご自身も結婚なされて、その言葉は当てはまると思いますか?」

引用元は、古本屋で買ったクイックジャパン Vol.10(庵野さんが表紙のやつだ)

庵野 まぁ人によりけりだと思うんですけれどね。大多数の人は、結婚するともうダメですね。いきなり薄味になっちゃって。

竹熊 守りに入っちゃうということ?

庵野
 守りもあるし、やっぱりそっち(結婚)のほうで満足しちゃう。でも、こういう仕事って「飢え」じゃないですか。物を作るというのは、飢えてて、ガツガツ食うかわりに、何かを作るわけです。それは空いている(心の)穴を埋める作業だと僕は思うんです。

この自身の恋愛観を語っている記事を要約して、質問として投げかけた。
その直後、庵野さんが何か口を開いていたが、僕の記憶はそこから露出オーバーしたような映像で、白く遠い。庵野さんがちょっと寂しげな表情だったのは覚えている。
ON AIRで挙動のおかしい自分を見て非常に気恥ずかしくなり、2chの実況板で「あいつ、キモい」なんて書かれて凹んだ。ある意味、そこで庵野さん自身が苦しんだであろう"ネットの誹謗中傷"のようなものもプチ体験させてもらった。
今思い返せば、相当クソ生意気な質問でNHKもよく採用したもんだと思う。だがその他の質問も大したものではなかったし、何より1人の庵野秀明ファンとして、「あのアスカの首を絞めてしまうシンジくん的な人物が、結婚した上でどういった作品を作るのか?」という事に最大の興味と関心があった。
「ラブ&ポップ」や「式日」など内省的な作品が続いたところから、「キューティーハニー」というエンタメ作品に庵野さんが帰ってるのも嬉しかった。その創作のキッカケに安野モヨコさんとの結婚があるのではないか?という切り口は、NHKの番組サイドからすれば進行上使いやすかっただろうし(プロフェッショナルでも同じ構成に等しかったですが苦笑)、とにかく僕のツッコミはかなり早かったと思う。事実、テレビで結婚後の心境を庵野さん自らが語るのはその時がほとんど初だった筈である。
つまり、ここから【結婚による庵野秀明の変化】という"見立て"が形成されたと言える。

時を経て、「シン・エヴァ」が公開され、SNS、レビューサイト、ブログ、YouTubeや Podcastで何かと話題に上がる「マリ=安野モヨコ説」の遠因を、ある意味僕が作ってしまったとも言える。
当の僕と言えば、猫も杓子も「マリは安野モヨコだ!」と言う声に、何かそれ以上の踏み込みや理解がない気がしたし、何より今やアニメ業界の端くれとして仕事をする身でもあるので、過去の自分の行いが世間に変なバイアスを植え付けた事に一役買ってしまい、些かの後ろめたさと反省を込めつつ、誠に勝手ながらこの場を借りて庵野さんご夫妻に謝りたい気持ちになっている。すみませんでした!(ただまぁ「監督不行届」などを筆頭に、夫婦で自らの夫婦像を演出してきた事もあるので、世間がそういう風に言うのも致し方ない部分はありますよね。)
現にスタジオカラーさんのYoutubeチャンネルでの公式ラジオ(現在は非公開)でも、この事はやんわり否定されているが、”一義的な見方は面白くないよ、勿体ないよ”という事が制作者サイドは言いたいんだと思う。

庵野作品における安野モヨコさんの影響が1番大きい作品は、強いて言うなら新婚から間もない「キューティーハニー」であって、市川実日子が演じる秋夏子と、そして夏子と主人公・如月ハニーとの関係性が顕著だ。マリというキャラクターの設計は鶴巻さんに一任していたというインタビューが、ヱヴァ破の段階からあるように、マリが安野モヨコさんその人であるという見立ては遠いと思う。
それよりも別の”読み解き”が提示出来ないかと考え、これまで全4回に渡って色んな角度から、「シン・エヴァ」を観て僕が感じたこと、溜め込んでいたモノを、ここに吐き出すように記したつもりだ。

マリとは誰なのか?

「シン・エヴァ」公開初日。
僕にとっては、披露宴の代わりに婚約者との結婚写真を撮影する日であった。つまり僕の人生の節目にあたる緊急事態宣言明けの3月8日(月)、「シン・エヴァ」が急に割り込んできた。
程なくして、映画のチケット争奪戦が繰り広げられ、初日の鑑賞は諦めていた。だが婚約者が「撮影の後に一緒に観に行こう」と言ってIMAXのチケットを抑えてくれた。
直後に妻になる彼女は、新劇場版をなんとなく通しで観ていたぐらいの人である。

当日。朝から弛んだ腹を隠すように気慣れないウエディングスーツに身を包み、結婚指輪も初めてその日にまともにはめた。気恥ずかしさも含めて、普段とは違う非日常を味わっていた。
撮影が終わり、映画館に2人で向かった。大半のエヴァファンがそうであったように、異様な緊張感が張り詰めていたし、僕はと言えば、ワイヤレスイヤホンで爆音で音楽を聴き、不意なネタバレを避けていた。

上映が終わると、黙って彼女と映画館を出た。とぼとぼと夜道を2人で歩き出した。
段々と涙が止めどなく溢れてきた。必死に堪えようとすればするほど、どうしようもなく涙がこぼれた。『大のオトナが何やってんだろう』とも自分でも思ったが、そんな余裕もなかった。
ふと横を見ると、隣を歩く妻となる彼女も泣いていた。ふと手を強く握りしめた。
地元で当時の友人達と公開初日に観た「夏エヴァ」の帰り道を思い出した。ただ、あの時の沈黙とは全く違っていた。

マリとは誰なのか。それは観た人にとっての、既に共に過ごす、もしくはまだ見ぬ"パートナー"であろう。
だからこそマリは安野モヨコ自身であるようにも見える。それはあながち間違っていない。少なくとも庵野さんが描くとそうなるだけの事。だけども庵野秀明自身は僕らが考える以上に、心底、僕たちファンに向けて作っていると思う。僕らにとってのパートナーの存在を誰よりも願って。
だからこそ、エヴァの物語の軸にいる訳でもない、本心もよく分からない抽象的なキャラクターとして、マリが物語の外側から来る必要があったのだろう。僕ら観客の想像、観客が想定する薄ぼんやりとした運命のようなものとは少しかけ離れた存在の到来。それがまさに僕らの現実におけるパートナーの登場を表しているのではないだろうか。

これまでの渚カヲルのようなイマジナリーフレンド(つまりアニメであり、フィクション)を否定するでもなく、アニメという依存から少し距離を置いてみるのも良いじゃないか、という優しい眼差し。
オタクだからって作品に変に操を立てる必要はなく、作品に触れる者にとって都合良く楽しいんでほしい、と作品側から呼びかけるような感覚。
過去二度に渡るエヴァの結論とは似て非なる、庵野さんが企画段階から30年くらいもがいて行き着いた、極めてシンプルな答え。このシンプルさ、敢えて声高に言うのも気恥ずかしくなるような実直さ、ともすると前時代な価値観を真剣に伝えようとしてくる、この感じ。まさに庵野秀明作品の純度をこれでもかと最大限に高め、煮染めて、結晶化したように映るフィルムが、この「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」だった。

『そんな事は言われなくても当に知ってるよ』という人は真っ当な人生を歩んでいるから、「シン・エヴァ」は響かなかったかもしれない。
自分に『その人なんていねぇよ!』って人がいるのも判る。僕自身も、つい最近まで『結婚なんてどうでもいいよ!』と思って、仕事にのめり込んでいった。カネもなかった。そうやって、かつての庵野さんに自分を重ねたかったのかもしれない。だから学生時代の僕は、裏切られたとは思わないものの『結婚否定派だったんじゃないのか!?』とも言える少々手荒な質問を直接本人にぶつけたのかもしれない。変に世の中や自分にもヘソを曲げて生きてきたのだ。

だがそんな僕にもある日突然、マッチングアプリで妻となる人と出会った。会った瞬間に何故か2人とも結婚すると確信した。
マッチングアプリとカッコつけても、所詮は出会い系の類い。だけれど、公開初日に結婚写真をアテンドしてくれた担当者も「今は結婚する人の8割がマッチングアプリですよ」と言っていた。だからとは言わないが、どういう形で出会っても始まってもいい。結婚なんてそんなものだ。アニメや漫画やドラマのような劇的なシチュエーションでなくても、当人同士にとってトンデモなく劇的であればいい。そういう瞬間は誰にでも訪れる。僕にはたまたまそういう選択になったけど、問題はその瞬間に気付けるか、また恋愛に限らず他人を受け入れる気構えが有るかが難しい。そこに気づく事に自分はかなりの時間を要した。

伏線なく結ばれるシンジとマリに物凄くリアリティを感じる。現実には伏線なんてない。俗に言う【〇〇END】もない。むしろそこからがスタートだ。シンジとマリは劇中で殆ど会話を交わしていない。我々聴衆には伝わらないが理屈を越えて互いに惹かれ合う瞬間を”アニメ”で描くってマジでどうかしているし、普通は描けないし許されない。でも『現実ってそういう感じだよな…』って妙な説得力と読後感があった。

自分がたまたま運良く、新婚気分で浮かれているだけかもしれない。いつまでこの関係が続くのかは分からない。いずれ別れが来るかもしれない。これからも、そんなに器用に生きられないことは自分がよく判ってる。それに今も結婚が全てでもないと思っている。
だが、自分を全力で肯定してくれる、自分が全力で肯定できる、パートナーが横にいてくれること。それが例えどういう関係性でもあっても、同じ方向を向いて歩いていること。それがどれだけありがたいか。救われるか。強くなれるか。

ラストカット、宇部新川駅をカメラを積んだドローンが旋回しながら、手前に走ってくるシンジとマリ。僕らの住む現実に向かって、観ている僕の身体に向かって、アニメが染み込んでくる感覚。これまで味わったことがない感覚に襲われた。
線路にはシンジがこれまで乗っていた電車がCGとなって奥へと走り去ってゆく。
現実もアニメもCGも、リアリティもイマジナリーも、どれを否定するワケでもなく、全てが溶け合い、調和し、共存する世界。”補完”ってこれか。

「僕の中では、新しいところに行けて良かったと思っています」
あの日、僕に庵野さんが語りかけてくれた言葉がようやく響いた気がする。

僕の独身が終わった。そして、何かが始まる。
シンジを見送る碇ユイのように、僕らの背中を庵野秀明が優しく押してくれた気がした。

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