シン・エヴァ論:序 『震災と庵野秀明』
※注意喚起※
一応アニメーションに従事する身ですが、これから記す事は庵野さんやスタジオカラーさんとは全く関係のない、単なる僕個人の妄想・妄言です。1人の観客として「シン・エヴァ」から受け取った余りにも多くの事に対する感謝と敬意を払いたい。”こういうアニメの見方もあるよ!”と言う、「シン・エヴァ」に対するマインドセットの一助になれば幸いです。
庵野秀明の”こころ”の変遷
電気描写へのこだわりと見学
ーー話は前後しますが、制作に入る前に見学に行かれたということで、そのあたりもうかがいたいと思います。
庵野 制作に入ってからですね、追っかけで。ロケハンのメインは、中学校とダムと電気関係でしたね。電気設備をちゃんと今度は描こうというテーマがあったからです。もともとは義理の弟が電力関係なので、「アニメの電気は間違いが多いよ」って指摘されたのが発端です。確かに、僕も電気関係の知識はほとんどないですから、全くその通りなんですね。事実、TVの時にものすごくいい加減に描写していたんですが、せっかくだから、今回はなるべく正確に調べて描こうと。
ーーそれで変電所などを取材されたわけですね。
庵野 どのみち描写自体はウソなんですけど、ウソの中にもできるだけ本当っぽいものを入れようと、東京電力さんに、「給電設備と変電所を見せてください」と取材をお願いしました。
〜「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 全記録全集」462ページより〜
庵野秀明の作家性は、とかくキャラクターの心理描写、メカや兵器と言った特撮的ミリタリー表現やそれらを彩るエフェクト表現を語られがちだ。更にそれらに加えて、電柱や電車に代表される我々の現実にありふれたプロダクトをフェティッシュに描く、という最大の特長がある。
通常のアニメでは電柱などは背景描きとするところを、セル描きにしてキャラクターの一部として見せる(シン・エヴァでようやく背景描きの電柱が登場するのが庵野作品的には異例なくらいほどだ)
この処理は作画枚数も増え、またセルの上から特効と呼ばれるウェザリング(汚し)を足しており、手間やコストもかかっている(その分、尺も稼いでるとも思うので、実はコスパがいい演出かもしれない)
アナログ時代のTVアニメ版の頃から、発売してまだ日も浅いPhotoshopを駆使して、例のマティスEBのフォントを使う。それらで、食品の包装デザインからモニターのインターフェース表示、書類、標識や看板をデコレーションしていく。タイトルロゴだけでなく、OPのスタッフクレジットですら、作品性との統一感を打ち出したのは当時斬新だった。
またそれらプロップ(小道具)デザインやアートワークに加え、公共施設、巨大建造物、そしてインフラそのものを、アニメだろうが実写だろうが、初監督作である「トップをねらえ!」から(もしくはそれ以前から)一貫して生々しくスタイリッシュに描く。
今ではそれらの表現や造り込みは業界標準になったとも言えるが、俗に世界観設定と言われるような"想像上のデザイン"と、"現実のプロダクトデザイン"(しかも現実よりカッコいい!)を混ぜ合わせた意匠は、(キーアイテム・S-DATに代表されるように)単にリアルとかそういう事ではなく、庵野秀明という1人の監督がその情報量の足し算・引き算の果てに、周到に、精緻に、デザイン・コントロールした映像であると、誰にでも強烈な印象を残す。
それだけキャラクターやメカを取り囲むモノや環境設計に力を入れて作っている庵野さんが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の制作に入るにあたり、デジタル(ヱヴァ序当時はCG、仕上げと撮影が該当)を使って何も見せるのか。庵野さん自身も当然プランニングしたと思う。
それが前述のインタビューに記載された、義理の弟さんに指摘された、ヤシマ作戦における電力描写とそのプロセスの執拗なまでの増強に繋がってゆくのだ。
震災と庵野秀明
そこから数年後、2011年3月11日に東日本大震災が起きる。この時、電力供給不足から計画停電が実施されたのは誰もが知るところだ。震災当日にTwitter上で1つの動きが起こり始める。エヴァの”ヤシマ作戦”になぞらえ節電を訴えるムーブメントが自然発生的に起こったのだ。
当時のムーブメントを物語るハッシュタグ、「#yashimasakusen110312」は今でも閲覧できる。いま覚えば、コロナ禍の2020年に起きた星野源を中心とした「うちで踊ろう」のムーブメントにも少し通ずるものがあると思う。
程なく庵野さんの盟友・樋口真嗣さんがそのムーブメントに呼応する形で、エヴァ風の輪番停電ロゴを無償でデザインしpixiv上で公開。スタジオカラーも公認可する動きとなった。
のちにこの動きは、ゲヒルン株式会社が運営する防災アプリ「特務機関NERV防災」の開発に発展し、10年経った今も機能している。
このように、東日本大震災が起きた段階から、エヴァンゲリオンと庵野さんは、ある種の当事者意識を持って、震災及び原発事故に向き合わないといけない状況となった。
動力源の描写をぼやかして描かれるロボットアニメで、アンビリカルケーブルなど"電力"という現実の尺度を持ち込んだ庵野さん。
東京タワーや大阪万博が好きな庵野さんが育った、あの日本の高度経済成長期は、電柱や電車のインフラの増大に比例して、原発も立ち並んだ歴史でもある。
福島の第一原発が吹っ飛んだ時、庵野秀明は何を思ったろうか。ヱヴァQ、シン・エヴァ冒頭のシンジくんの様に「世界を壊してしまったのは自分ではないか?」と思ったかもしれない。
電力というテクノロジーを礼賛するように描いてしまったかもしれない、と過剰に考えたかもしれない。
これらは完全に僕の大変に失礼な妄言ですが、「シン・ゴジラ」制作前の所信表明で明かされる庵野さんのメンタルの不調は、色んな複合的な要因があれど、その1つに震災が大きな影を落としていると考えてもおかしくない。
創作で震災と向き合う
ヱヴァQの公開が2012年11月。前作・ヱヴァ破から空くこと約3年。通常、映画は大体準備期間を含め2年間で制作する事が多い。ヱヴァQ制作期間の3年というのは制作途中に起きる震災の影響よりも、ヱヴァ破で予告されていた当初のヱヴァQ(シンジくん不在の空白になった14年)を劇中で描かない、と言ったプラン変更というか”ひっくり返し”の影響で制作に時間を要しただろうと推測される。
巷のネット界隈では「震災でヱヴァQの内容を書き替えたらしい」という言説がまことしやかに言われてますが、出典元が不明なのと、2011年3月から2012年11月の間でヱヴァQのストーリーの根幹に震災のモチーフを入れ込む時間は、物理的に困難であったと思われる。但し、この辺りに関しては「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 全記録全集」が刊行でもされないと詳しい経緯は分からない。
震災の影響があるとすればヱヴァQに於いて、「L結界密度」という放射線のメタファーである設定の登場や、それに付随したラストシーンでアスカが持つガイガーカウンターを模した計器の登場、そしてラストシーンそのものの描写だろう。
つまり、監督およびスタッフの気持ち的な問題も大きいと思うが、震災をヱヴァQで描き切ることは不可能だったと言える。
翌年2013年には庵野さんの師匠の1人・宮崎駿監督作「風立ちぬ」の主役、堀越二郎役に抜擢。どこまで宮崎さんと鈴木Pが気を落ちする庵野さんを気遣っていたのかは知る由もない。また、庵野さんと宮崎さんが一緒に被災地に訪問した際、何かメンタル不調の兆しがあったのかもしれないし、後にその訪問が第3村パートに繋がったのかもしれない。
"戦闘機開発と震災"という「風立ちぬ」の骨格は、そのまま"ロボットアニメ制作と震災"に置き換えても良いぐらい暗示的なキャスティングである。ほぼ「ナウシカ」以来の宮崎さんとの直接的な仕事が、庵野さんのメンタルに普段の監督業・社長業とは違う風通しの良さとポジティブな影響を与えたかもしれない。しかし、身近な安野モヨコさんの目線では、「おおきなカブ㈱」にて『大して変わらない状態で帰ってきました』という言葉で結ばれている。
やはり自身の創作の中で震災と向き合わないと、次のステージには行けなかったのだろう。
そこで完成した作品が「シン・ゴジラ」である。
現実 対 虚構。
「ゴジラなんて作ってないでエヴァを早く作れ」と当時からシン・エヴァ公開直前に至るまで、心無い声がネット上には溢れていた。だが、庵野秀明当人にとっては前述の通り避けては通れない必要な作業だった。
ゴジラを震災や原発事故の強烈なメタファーとして描き、エヴァや東宝特撮的な超兵器なき世界で、あたかも子どもの”ごっこ遊び”のようにインフラそのものがゴジラに逆襲を仕掛ける!
ヤシマ作戦の意趣返しとして”ヤシオリ作戦”と銘打ったのは、何も単純なファンサービスではなく、過去作という自ら背負った業に対する"落とし前"でもある。
震災直後、園子温監督作「希望の国」やインディのドキュメンタリー映画などに代表されるように、直接的かつ悲劇的に震災を描く作品が邦画界には目立った。その一方で少女漫画原作の映画も乱立したのもこの時期だ。片や現実的、片や虚構的な作品に別れていたと言える。
それを震災から5年が経過した2016年に、新海誠監督作「君の名は。」と共に、2人のアニメーション監督が震災をエンタメ作として昇華し、商業的にも成功したことがなにより痛快だった(震災を軽々しく扱っていいのかと言う異論はあると思います)
震災と向き合い、格闘し、作品にしたこと。社会的な一定の評価を勝ち取ったこと。これらが庵野さんの自信(と回復)に繋がったと思う。
震災に関して、今後の庵野作品に於いて重要な題材・問題提起として描かれると思うが、テーマとしては一旦この「シン・ゴジラ」で幕を下ろした、と僕は見ている。
つづく