シン・エヴァ論:破 『”シン・エヴァ”に見るこれからのアニメーションの在り方』
京アニ事件のアンサーとしての”シン・エヴァ”
2019年7月に京都アニメーションで陰惨な事件が起きる。アニメーション制作に従事する者の誰もが、大変な戦慄を覚える出来事だった。
業界でも屈指のスケジュール管理やクオリティー維持を実現していた京都アニメーションには、ただただ実直に、真面目に作画机に座って作業している方々が他の制作会社以上に多く在籍していたと思う。それだけにその方々が無慈悲で野蛮な暴力に襲われる地獄。アニメーションスタジオの光景を知る者として事件の様子が想像できるだけに、いまこうして書いていても、本当に辛く悲しい。
この事件に関して僕個人が思う事としては、「犯人が何を考えていたか」という事。思いを巡らすことそれ自体も気持ち悪いが、考える必要があると思うからだ。恐らく犯人は、京都アニメーションの作品を愛していただろうし、京アニの作品に救われたこともあったんだと思う。
では、何故それが憎悪に反転したのか。
京都アニメーションは2009年より「京都アニメーション大賞」としてオリジナル小説・シナリオ・漫画の一般公募を展開、「KAエスマ文庫」という自社で文庫レーベルを開設する。アニメ制作会社が自社で出版機能を構えてIPホルダーとなる事はかなり異例な取り組みである。漫画、ライトノベルやゲームなどの原作があった上で、あくまでも下請けとしてそのアニメーションを作る制作会社が今も大半を占める状況の中で、オリジナルの長編を制作するスタジオジブリなどとは別の戦い方を繰り広げていた。
またアニメにハマっている若い世代からしても、「応募すれば、あの京アニがアニメ化してくれるかもしれない!」というのは大変なモチベーションだと思う。事実、その京都アニメーション大賞受賞作から、「中二病でも恋がしたい!」や「境界の彼方」、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」など、次々とアニメーション化も含め展開し人気を博すことになる。
そんな京アニを、犯人も「応援したい・協力したい・関わりたい」と思ったはずである。だが、犯人が書いて応募したモノが到底作品と呼べるようなモノでもなかったと想像するのは容易い。何故ならゼロからイチで作品を作るという作業はプロでも限られた人しか出来ない所業である。それぐらい難しいからこそ、一部の人のみに著作権という栄誉のようなものが与えられると言ってもいい。音楽に置き換えれば、スタジオミュージャンとエンジニアが、ソングライティングとコンポーズとは違う領域の物作りであるようなものだ。ゼロベースで創作することは甘くない。
結果、落選。当然と言えば当然の流れ。「響け!ユーフォニアム」「聲の形」など日常を生きる若者や、もっと言えばどんな弱者をも光を当て救ってきた京都アニメーションの作品たち。(僕の邪推でしかありませんが)そんな作品に救われいたかもしれない犯人にとって、落選は自分に対する拒絶、京都アニメーションからの強烈な”裏切り”のように感じたのかしれない。
非常に稚拙で、もちろん百歩譲っても犯人に一切同情の余地はない。
僕の身近で聞く範囲でも、とある制作会社に「推しキャラの出番が少ない。扱いが雑」という理由で大量のカミソリが送られてきた、という話も聞く。
とある監督の元に、全く面識もない別会社の制作進行が突然現れ、「自分の企画をパクっただろ!」と迫ってきたなどなど、同じ同業者でもそういったパクリか否かという揉めごとは起こりうるのだから、一般公募というのはかなりリスキーなことなのかもしれない。キャラクターの性格や相関関係であったり、凡そ物語のあらすじはどうしたって似るものである。どんな作品もイチャモンを付けれるし、そうしたステレオタイプ的な設定やプロットから、作品としてドライブしてゆくかが、非常に重要であり難しく、また同時に創作の面白さでもある。
昨年、ボンズがこういった一般応募を拒否する声明を発表したのも記憶に新しい。
まして、ガイナックス時代から誹謗中傷や嫌がらせに悩まされ、そしていま現在も残念ながらそれは止んでいない。
かつてそういう過激な脅迫行為すら、劇中で「気持ちいいの?」と投げかけたこともある庵野さんとその周辺にとって、この京都アニメーション放火殺人事件に関して、何も思わないなんて事は絶対ないと確信を持って言える。
ファンの声や応援は制作者にとって、むしろありがたく、支えられていることの方が多い。だが一方で、ネットで距離が近付いた分、作る者とファンとの適切な距離感をどう取るのか、ファンや大衆に向けて改めてどういう作品を世に出すべきなのか、この先のアニメーション制作者に課せられた、無視出来ない重要なテーマである。
その1つのアンサーであり、これからの2020年代のアニメ作品の在り方を打ち出したのが、この「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」ではないだろうか。
オタクの皮を被った、こどおじ
漫画家の山田玲司さんが”平成とは何だったのか?”という総括をイベントで語り、知り合いに誘われ僕もたまたま観覧していた。その中で興味深いことを発言しているので、下記の動画をお暇な方は観てほしい。
ザックリ要約すると、バブル崩壊後に日本人は文化というファンタジーに依存し”ヤバい現実を見て見ぬ振り”するようになった、という見立てである。
1995年に「新世紀エヴァンゲリオン」放映開始。95〜97年という暗い世相。とは言っても今考えればまだまだ景気は良かった。とにかくバブルとの落差で退廃的に悦に入りたかったのかもしれない。(今や2020年の方が明らかに過酷。)
エヴァという中毒性が高い映像は深く刺さった人も多く、依存を深めていったのが僕らキレる17歳世代や、もう少し広く言えば就職氷河期世代だろう(今の30代後半〜40代)
ファンがどんどん熱狂的になる事で、彼らの人生や成長を止めてしまう。オタク第一世代の庵野さんはそういう危機感を持ったからこそ、TVシリーズ最終話や夏エヴァで仕切りに"現実に帰れ!"と、挑発的かつ攻撃的に(も受け取れる)内容になったのではないだろうか。
しかし、ショック療法的だった完結はかえって反発を生み、その後僕らを満たすようなアニメがむしろ増え、またオタクという概念がメジャー化していった。そうして、市場が拡大すると共にどんどん肥大化。自分の好きなキャラやアイドルを推し、グッズなどを買い込む。特定のキャラクターに愛情を示す為に課金する。その行為自体が悪いことでも、オタクが悪いと言うことでもない。
オタクとは、ある特定の趣味や事物に対して深い知識・造詣をどれだけ持つかを、ある種オタク同士で競い合う側面がある(僕もそうだ)
その特性に乗っかる形で、オタクコンテンツ側も映像ソフトやグッズ、イベントなどなどコンテンツ依存させるように、あの手この手で仕向けてきた事実がある。それはこれからも続くだろうし、制作・製作側もそういった責任と覚悟を持って、仕事に望むべきであろう。それぐらい人を誘惑してしまうモノを作ってしまっているのだ。作っている方も作品に取り込まれてしまう可能性があるのが、また厄介なのだが…
幼い時期からネットがあったZ世代(今の20代)はもう少し軽やかに適度な距離感で作品や情報に触れて、適度に実人生を楽しんでいるフットワークの軽さがある。
しかし、エヴァリアルタイム世代である就職氷河期世代は若干その軽さがなく、90年代の感覚に取り残されている感覚があると思うのは僕だけだろうか。年齢的にもその世代は、中年の危機、ミドルエイジクライシス、実人生におけるネガティブな環境や出来事に誰しもぶつかっている筈だ。目を背けたくなるし、僕も背けた・背けている事もある。それに向き合わないといけない。しかし頭で分かっていても難しい局面もある。
繊細な余り、自分で自分で追い込み、ひたすらコンテンツに溺れ、社会とも家族とも隔絶して孤立化して生きる人。
そのまま歳月を経ていった時、気がつけばオタクではなく、オタクの皮を被った消費依存するだけの"こどおじ"になっている場合が増えてきていると思う。こうした背景には、晩婚化、オタクの高齢化等々、色んな要因が考えられる。
周りの同級生はオトナとして成熟しているが、オトナに成りきれず拒絶する第3村パート前半のシンジくんの姿は、そうしたこどおじの暗喩とも言えるだろう。
更にそれが経済状況や家庭環境などの悪化を引き金にして、まさに京アニ事件の犯人(事件当時41歳)のように"無敵の人"化する事態が起きてしまう。
「シン・エヴァ」の碇ゲンドウとは、そういう無敵の人の象徴じゃないだろうか。オタクと言う知恵に特化した人が、自分の殻に閉じこもり、現実の喪失を受け入れられず、人の形を捨て、その現実を壊そうとする。アディショナル・インパクトとは、そういう身勝手なテロリズムじゃないのか。
オタク批判でも、オタクは犯罪者予備軍とかそういう事ではない。誰しもが文化・家族・社会との距離感を間違える可能性があるよ、ということが伝えたい。僕自身への自戒も込めて。
「ルックバック」の違和感
「シン・エヴァ」の話から反れてしまうが、そういった意味で、藤本タツキの読み切り漫画「ルックバック」に僕は大きな違和感を覚えた。
漫画家という表現者に内省的に寄り添うのは分かる。だが、凶行におよぶ男が”単なるヤバいヤツ”として処理されていることが、京アニ事件をモチーフの1つとして利用しただけにしか、僕には読み取れなかった。
『作っている方が偉い、ヤバいヤツはヤバい』といった紋切り型的な理解。”臭いものに蓋”、果たしてそれでいいのか。京アニ事件に対して何も踏み込めていない。そういう理解では結局また憎悪が生まれるだけだ。
京アニの亡くなった方々も犯人も、アニメが好きだった。両者が同じだったとは口が裂けても言いたくないが、両者がなぜこういう事態に陥ったのかをもっと考えないといけない。
震災から5年後に「シン・ゴジラ」や「君の名は。」が登場したように、京アニ事件をどう昇華できるかは、僕自身を含め今後の大きな課題だと思う。
そして偶然なのかもしれないが、「シン・エヴァ」はそういう無敵の人がどう現実に向き合い・折り合いを付けるのかを描いている。
劇中で度々登場する「落とし前」「蹴りをつける」というパワーワードは、庵野さんなりのリアルタイム世代へのエールじゃないだろうか?
戦うのではない。抗った上で、受け入れる。それはとてもシンプルで、難しいことなのだけど…、企画から30年間を掛けてもがいてあがいた庵野さんがなんとか辿り着いた1つの答えだからこそ、その穏やかで成熟した語り口に凄みを感じる。
『君たちはどう生きるか』
副題の「THRICE UPON A TIME」はTV版・旧劇版から数えて3回目の完結を指し、また庵野秀明作品の恒例である"最終回はSF小説のタイトルから引用"することだけをなぞらえているワケじゃない。
2019年に公開された、クエンティン・タランティーノ監督作「Once Upon a Time in... Hollywood」へのリスペクトも含んでいる事を見逃してはならない。1969年に起きたシャロン・テート事件という1人の俳優に起きた悲しい過去を、タランティーノは見事にフィクションの力で力強く描き直している。それは「シン・ゴジラ」の志しにも似ている。60年代生まれのオタク監督の両巨塔が生まれた国は違えど、フィクション(空想)の力を信じ、魂の邂逅を果たしているとも考えられないだろうか。
段々とこの作品が”暗い過去や現実を見つめ直す”事がテーマである事が浮上してくる。ここで、リアルタイム世代のスーパースター・宇多田ヒカルが主題歌を唄う意味が鮮明になってくる。インスタライブでの”喪失”の話がまさにそうだ。
エヴァンゲリオンという物語は常に断絶の話であった。主人公・碇シンジが成長したかと思えば、また塞ぎ込み、それでも成長したかと思えばまた塞ぎ込む。物語とテンションの断絶。その突き放し方が、リアルタイム世代には異様な説得力を持って響いていた。
だがそれ故に、TV版・旧劇場版と過去2度のエンディングを迎えても、独特のドラマツルギーと演出の為、主人公が成長しない(ように見える)
いくら喧嘩腰に庵野さんが「現実に帰れ!」と冷や水を浴びせても、いつまでもエヴァンゲリオンという物語は終わらず、その中でファンが取り残される構造になっていた。怒って出ていった人もいるけど。つまり、それがエヴァの呪縛だった。
いつだって賛否が別れていたエヴァ。しかし「シン・エヴァ」を観た者の多くは、一様に「感動した」と言う。それは、これまでのエヴァという断絶の物語を、徹底的してほぼ全てのキャラクターの感情線を丁寧に、丁寧に、紡いでいったからだ。
庵野さんは「彼氏彼女の事情」でも実はトライしていたが、実質的な監督降板の憂き目で、志半ばで達成できていなかった。
しかも今回、新劇場版を包括するだけじゃなく、TV版、旧劇場版、貞本版、ゲーム、遊技機etcと無数に散らばった全てのエヴァンゲリオンというコンテンツを包括した事に驚かされた。
それらの作品にこれまで食らいついてきたファンに対する”目配せ”は、MCUの「エンドゲーム」的とも言えるだろう。逆に言えば「スターウォーズ」がつまずいてしまった事でもある。
第3村は決して昭和ノスタルジー的な理想郷ではない。天竜二俣駅、宇部新川駅、千葉の棚田・大山千枚田などをミックスした、何処にも存在しない日本である。その外を一歩出れば、ハイカイが彷徨く脆弱で過酷な現実が待っている。しかし、それでも人は生きてゆくしかない。
キャラクターそれぞれが抱えた葛藤を受け入れ、新たな日常へと帰る。依存させることしか出来なかったアニメ作品が自ら観客に寄り添い、優しく現実へと送り出す。物語というファンタジーが綺麗に幕を下ろした瞬間だった。
「少し寂しいけど、それも良いね」
1つのコンテンツが終わりを告げる、そしてファンを実人生に送り出す。それは作り手にとって、とても勇気のいることだ。完結に26年を擁したエヴァだからこそ出来る所業でもある。
推しキャラを見つけさせて消費依存に誘うのではなく、人生の糧となるドラマで魅了させて作品依存に導く。
これからのアニメーション作品が目指さなさければならないことは、そういう事じゃないだろうか。「シン・エヴァ」はそれを体現している。
なろう系やハーレムものがあったっていい。でも業界全体がティーン向け作品だけ作ることが全てではない。エヴァ無き今、中高年向けのアニメ作品に空席が出来た。そこにどうやって座れるか、考えている人も大勢いると思う。
ますますオタクは高齢化する。作品のターゲットにはもっと多様性があったって良いじゃないか。グッズ等の二次利用の売り上げに頼らずとも、ある程度予算がペイできるプラットフォーム・ネット配信だってある。再生数を稼ぐ為にも、繰り返しの鑑賞を耐え得る強固なストーリーが求められている時代、つまり既に作品依存の時代になっているのだ。
つづく