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【自己紹介エッセイ2】 続・「書く」の遍歴

(前回まで)小説を書きたいなと思いながら中年を迎えてしまった私は、そろそろ書かないと人生終わってしまうのではと焦りーー


 書く才能がある人であればきっと「小説の書き方」なるものを教えてもらう必要はないのだろうし、これまで書かれていない世界を見せてくれるのが小説なのだから、書き方を教わって書いた小説の価値などたかが知れているのかもしれない。
 とはいえ、自分の書けなさを決定的に自覚するのを恐れるあまりに、私は小説を書くよりも、およそ創作とは関係のない雑事に忙殺されることを自ら選んでしまうようなところがある。だから、二週間に一度、子どもを母にみてもらってカルチャーセンターの小説教室に通ってみた。無理矢理にでも書いてみようという作戦だ。半年待ちはする人気の講師だった。
 この教室は、しかし、小説の書き方を教えてくれるところではなかった。

「あなたの書きたいことと、書かれたものの間にある距離をかぎりなく近づけていく作業をお手伝いします」

 一回目の講義のときに先生はそう言った。その言葉通り、提出した小説(らしきもの)に対して、瑣末な問題にとらわれることなく、本当に表現したかったことを理解した上で、ときに辛辣に、ぐうの音もでないほど的確なアドバイスをくださった。
 それは誰の作品に対してもそうで、私は先生の見事な講評を聞きたいがために講座に通っていたようなものだった。
 アドバイスは、たとえばこんなことだった。

「この登場人物はいらないんじゃない。この人と、この人だけでてくればいいんじゃない?」

「これは小説が始まる前の、設定を書いてみただけだよね。ここから、始まるんじゃないの?」

「書きたいことが繰り返されてスライドしていっているだけ。純文の制限枚数が150枚までなのはそういう意味もある」

 私もほかの生徒さんの作品を読んで、頭の中で感想をまとめてから講義に臨むのだけれど、先生の深く適切な読みに比して、自分がいかに浅くしか読めていなかったのか毎回思い知らされた。

 先生は著書で書いていた。
「優れた小説には構造がある」

 構造をとらえて、そして文学史と照らしながら、深く読む。それが編集者的な読み方であり、同時に書き手にも必要なことなんだなと感じた。
 私はあまりにも勉強不足で大きなことは言えないけれど、自分なりに読み流さず深く読む(講評する)くせをつければ、「書く」精度は上がっていく。そういう実感を持つことができたような気がする。
 「読む」と「書く」は両輪で、深く影響し合っている。

 さて、講座に一年あまり通い、私はなんとか短編を四つほど捻り出した。褒められたわけでも、貶されたわけでもなかった。せっかくなので文学賞に応募してみたものの、二つが一次審査を通ったきりで、あとは落ちた。

 そうこうするうちに、二人目を妊娠して、講座に通うことができなくなってしまった。張り合いがなくなり、書くことも読むこともストップして、また日々の雑事に追われる日常が戻ってきてしまった。
 私がnoteを始めたのは、この二度目の一念発起のタイミングに当たる。

「小説家になる」などという笑ける"絵に描いた餅"を、「小説を書く」という自己コントロール可能な言葉に置き換えてみる。
 そう、とりあえず書くことはできる。小学生の私は、ただ原稿用紙を埋めているだけで幸せだったのだし。
 何なら、感じたことを綴るだけでもいいではないか。
 私は自分へ課す目標をかぎりなく低くした。

(次回)【自己紹介エッセイ3】書くことは死に抗うこと

 


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