軟骨肉腫日録[転移篇]2 手術へ

9月24日
 呼吸器外科のMoon(仮名)先生からの入院・手術の日程の連絡を待っています。

 昨夕、夕食の食材の買い物からの帰り、ふと思いました。
「生きているということはほんとに偶然的な出来事なんだなあ」と。
 自分の思惑とは関係なく、無数の偶然の組み合わせの結果として、今自分は生きているのだと感じます。
 今回、大きい方で2.3㎝ほどの腫瘍が見つかったわけですが、上腕の軟骨肉腫の定期検査をしていなかったら気づくのはずっと遅くなっていたと思います。現在でも自覚症状はまったくなく、どちらかと言えば、秋になり涼しくなって、毎日のジョギングも調子がよく、呼吸もらくになっていると感じるぐらいです。自発的に検査を受ける要因はまったくありません。ということなら、このまま何ヶ月かあるいは何年先に、異状を自覚して診察を受けた場合、その時はずいぶん進行していたはずです。手遅れになっていることでしょう。
 今自分が置かれている状況はきわめて偶然的なものなのだと改めて思います。

 他方、自分の置かれている状況は必然なのだと思うこともあります。
 4年ほど前、軟骨肉腫が見つかったとき、「ここでこういうふうに死んでいく運命になっていたのか」という感慨を覚えました。「こういうふうに」というのは、それまで自分は気づいていませんでしたが、わたしが気づくかどうかとは関係なく進行している事態があり、自分の思ったり考えたりしていることよりも、そちらの方が決定的なのです。それが「必然」です。自分がしてきたことの積み重ね。その結果としての現在。必然です。
 前回の中井氏の文章からの引用、こんな部分がありました。
「…二〇年ぐらいの間には細胞が少しずつ増えだす場合もある。一ヵ所に一億個ぐらいになると、一種の要塞として存続する。三億になると一部が血液の中に出ることがある。これは転移が発見されるよりずっと前に起こっているらしい。」
 そう、知らない間にそんなことが起こっているんですね。それは20年前からはじまっていたことなんです。途中であっさりと消滅するはずだったガン細胞を生き延びさせてしまったのは、わたしの生活習慣だったのです。ふりかえってみれば、自覚はあります。20年前の自分を思い出し、それ以後20年の自分のことを考えたりします。

10月3日
 義父がショートステイの施設へ行くのを見送りました。夜間だけ高齢者向け住宅に泊まる義父の、自宅との送り迎えと昼食を届けることを、わたしは自分が退院してからやってきましたが、わたしが入院したらそれができなくなるからです。
 昨日、入所2日目ようすを見に行ってみました。元気そうで、表情が明るくなっていました。これまでの1年半、昼間の自宅と夜間の高齢者向け住宅の部屋、いずれも人の出入りが少なく、人間関係がほとんどありませんでした。
 ショートステイの施設へ行き、リハビリをしている人たちの姿を見、スタッフの方たちから声をかけていただき、「今まで自分を甘やかしていたなぁ」という思いになったようです。
 わたしの入院のための急遽の手段でしたが、これが義父のためになったらいいなぁと思います。

10月13日
 一昨日の夜、担当のMoon先生から入院・手術の日程の連絡がありました。
 19日(水)に最終的な検査をいくつかし、20日(木)に入院、21日(金)の午後に手術。
 ここまで別に焦っていたわけではないですが、順調にいけば今月中に退院できるかもという日程で、メドがついたという感じです。
 
 後は準備をしながら体調を整えるばかりなのですが、10日頃からおなかの調子を崩し、下痢・微熱・全身の倦怠感という状態でした。10日は一日ずっとふとんで寝ていました。
前日の9日に少し長い散歩をしました。合計で4時間近く歩きましたが、その時は気づいていなかったのですが、少し風が冷たくなっていたようです。
 「食生活も乱れていたよな」と娘から指摘されました。反省。
 今日はほぼ回復し、少し下痢気味な状態が残るだけになりました。

10月18日
 明日病院へ行き、最後の検査と麻酔科からの説明、明後日午前に入院手続き、午後家族を同伴しての手術の説明。そして、翌々日21日の午後手術、ということになります。

 ふだんの仕事の合間に鉢植えの整理(秋の植え替え)などをしていました。

 自分としては今のところ特に不安感はありません。10日~2週間の入院の間に読む本のこと、持ち込むパソコンでする作業のことを考えたりしています。
 たぶん、前回の手術・入院があまりにもハードだったので(当時は自分ではそう感じていませんでしたが、後から考えたり、他の人の感想を考え合わせると)、今回はその「5分の1ぐらい」かなというのが正直な気持ちです。こんな気分で臨むと、後でイタイ目に合うかもしれませんが。
 だとしても、自分の肺の何分の1か(15~20%ぐらい?)は切除するわけで、手術の前後で「自分というもの」が変わることは言うまでもありません。そこで切り取ったものは永久に取り戻せません。
 前回も身体の一部を失い、そのために「一生〇〇を二度とできない」ことを覚悟していました。例えば、水泳は今のところできません。ジョギングは主治医のStar(仮名)先生に「できない」と言われていましたが、できるようになっています。
 今後転移が見つかるたびに身体の一部を少しずつ切り取りながら生き延びていく。できないことも少しずつ増えていく、ということです。
 このように書いてしまうと悲観的に聞こえるかもしれませんが、自分としてはそのことを受け止めているつもりです。

10月20日
 今日入院しました。
 明日12時30分手術の予定です。

 大きな旅行カバンを自分で担いで駅まで歩き、快速電車に10分ほど乗り、駅を降りてから病院まで10分余り歩きました。
 荷物が重かった。

 手術の説明を受けました。
 話を聞いて、少し気持ちが軽くなりました。
 一つは、軟骨肉腫の転移であるだろうということ。原発性の肺がんがリンパを通じて転移するのに比べ、軟骨肉腫は血液で転移するということ。今回見つかっているものも血管周辺だということ。リンパは血管外を流れるため波及範囲が広いのではと、素人ながら思います。血管による伝播なら、今後見つかったとしてもその時その時に対処していけばいいのかなぁと、これも素人考えで思っています。軟骨肉腫は転移しにくいと聞いていましたが、今回のは3年半前に切除する前にすでに転移していたのでしょうか。当時小さかったものが今これぐらいになったということかなぁと。
 気にかかっていたのは、今回の切除がうまくいったとしても、その後次から次へと見つかるのではないかということでした。今日の説明で、そうでもないのかなぁと思えました。気が楽になったことの一つです。
 もう一つ。今回切除してもらうのは、右の下葉にある2つの腫瘍です。左の下葉にも、最初に見つかった小さいのが一つあるのですが、それは後日また入院し、放射線科でラジオ派焼灼法で焼いてもらう予定です。
 明日の手術時間が何時間になるかと質問したところ、3時間ぐらいと答えていただきました。下葉全体をとる「下葉切除」ならもっと簡単だが、ていねいに細かく最小限の切除をする「区画切除」をするとのこと。ありがたいなぁと思いました。やっている途中で判断して「下葉切除」になる場合もあるそうですが。

 やはり、3年半前のことを思い出します。
 同じ病棟の1階下のフロアで、同じレイアウトです。前回の手術前日デイルームから眺めていた夜景を、今日も同じように眺めていますが、気分はだいぶん違うように思います。
 前回は手術がうまくいったとしても、その後どのような機能が残るのか、日常生活の中で何ができなくなり何ができるまま残るのか、わたしはもちろん主治医の先生も確実な予測はついていなかったのではないでしょうか。結果的には、いろいろなことができる状態でここまで来ました。
 それに比べると、今回は手術がうまくいけば、どんな状態になるかある程度予測がつくように思います。

 後は、お任せするだけです。

10月23日
 今日は23日。手術の2 日後になります。これまでパソコンに向かうことができませんでした。やっと今日、これまでのことを書いておきます。

 21日。手術は午後12時30分の予定でしたが、午前の手術が長引いたため、1時10分開始となりました。
 前回どおり、家族は病棟の15階で待機、わたしは看護師さんに付き添っていただいて4階の手術室へエレベーターを使いながら歩いていきます。
 麻酔医の先生の説明を聞き、ベッド上へ。麻酔を受けると、何もかもわからなくなり、「終わりましたよ」と呼びかけられると、手術は終わっていました。
 2時過ぎ、つまり手術が始まって1時間後に鳥取県で大きな地震があり、15階で待機していた妻はかなり揺れを感じ、びっくりしたそうです。後日主治医の先生に聞くと、手術室のある4階では揺れを感じていなかったということです。

 手術が終わって、病棟へベッドで運ばれました。スタッフの間から妻の顔も見え、家族等にすでに連絡を済ませたという声も聞こえました。
 病室に帰ると、次第にスタッフは少なくなり、看護師さん一人になりました。少し不安になりました。
 その時点で血圧が高く、体温も高くなることが予想され、主治医の先生が看護師さんにそうなった場合の対応の指示をしていたそうです。
 その通り数時間苦しい状態が続きました。看護師さんが何度も血圧を測っていました。悪寒を看護師さんに訴えると、もう一枚毛布を掛けてくれました。
 持続的な痛みが続き、それにずっと耐えていました。痛みのために眠ることはできません。
「今回の手術をあまくみていたな」と反省しました。
 いつからかはわかりませんが、2枚の毛布が熱く感じられるようになり、中で汗をかいていました。1枚とってもらいました。熱が下がり始めていたのだと思います。
 後から聞くと午前1時30分頃だったそうですが、看護師さんに痛み止めを追加してくれるよう頼みました。それで少し楽になり、ウトウトすることができました。手術が終了して病室に帰ってきたのが午後7時ぐらい、それから朝が明けるまでが非常に長かった。それでもこれで山を越えた感じでした。

 翌22日は手術部位の痛みが続いていました。
 それでも、呼吸器外科からいただいた手引書には、手術翌日から歩くとありました。尿道に入っている管も抜くと。看護師さんにどうするかと聞かれて「早く歩きたい」と応え、尿道の管を抜いてもらいました。トイレまで自分で歩くしかなくなりました。結局的にはこれがよかったと思うのですが、痛みをこらえてベッドから起き上がり、歩きました。
 午後の看護師さんの話では「翌日から歩くのが理想的ですが、実際は手術の傷が痛くて、歩くのを拒否する患者さんが多いですよ」ということでした。
 自分の感じでは、手術の傷の痛みもあるがその周囲の筋肉がこわばっている痛みもあるという感じです。その部分を自分でストレッチしながら動いてみました。
 入院前からしていた呼吸法もできる範囲でやりました。腹式呼吸、胸式呼吸。肺や胸郭を動かすわけですから、これも痛みを伴います。それでも、伸ばしておけば回復が早い、痛みを超えるとらくになると、やってみました。呼吸器外科の本来の方針ができるだけ早い時点から動くということですから。

 23日。よく眠れました。一度トイレへ行きましたが、それ以外はよく眠れました。
 今回の主治医のMoon先生も来てくださって、背骨の硬膜下に入れていた抗生物質の管を抜いてくださいました。手の甲にあった点滴の管も抜け、残りは腹にある胸郭ドレーンだけになりました。まずは順調な回復のペースです。
 まだまだ痛みはありますが、身体を切ったのだからそれも仕方がない。できる範囲で工夫しながらやっていこうと思っています。

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