軟骨肉腫日録2 術後HCUでの1週間
手術を終え、夜が明けました。
一晩越えました。これから越えなければいけないことがいくつあるか、何もわかっていませんでしたが、まずは一つ越えました。
わたしの手術の成否は血管がうまくつながるかどうかだと聞かされていました。
患部である左上腕の骨と筋肉の3分の2を切り取り、下腿の腓骨を移植する。最大の難点は、移植する骨に付随した血管を元の血管にうまく縫合することができるかどうか。血管がうまくつながれば移植した骨も生きる。血管が機能しなければ骨は時間の経過とともに萎縮していく、と。
そのため、医師あるいは看護師が昼夜を問わず2時間おきに血管の状態をチェックします。異状が発見された時点で、家族の同意をとる間もなくすみやかに再手術ということになっていました。
患部の左肩・左腕は完全な固定状態にしておくことが必要でした。寝返りも許されず、結果として体幹部は固定された状態になりました。左右の手首と股関節から先は動かすことが許されていました。ただし、右下腿には手術後のギブスが巻かれていました。
「これはF1マシンではないか」と自嘲的に思いました。F1レースは2時間で終わりますが…。
後日、看護師から「たいへんだったでしょう」とか「ウワーって叫びたくなりませんでしたか」と問われたことがありました。そんなに大変なことだったのかと、その時になって再認識しました。
一晩越えたとはいえ、何もわからないまま、何の予見もないまま、HCU(高度ケアユニット)での術後管理の1週間がはじまりました。
1.30(手術翌日) この日から数日分の項は後日回想したものです
「主治医のStar(仮名)医師からは「1週間抗生物質漬け」と聞かされていた。
自分にできることは時間が流れることを願うだけだった。時間が流れる間に、私の知らないところで何かが少しずつ変わっていく。少しずつ変わり続けることで、こうしていることの終わりが近づいてくる。
砂漠を渡っていく隊商のように、わたしは夜の病室の時間を渡っていく。ベッドに横たわったままで。
砂漠にはオアシスが点在する。その点と点をつなぐように隊商は進んでいくが、夜のベッドに横たわるわたしのオアシスは、向こうから近づいてくる。
患部のチェックのために2時間ごとに近づいてくる足音。おそらくは私の眠りを妨げないようにと気遣いながら、静かに近づいてくる。無言で包帯をめくり、懐中電灯の光をそっと当て、皮膚の色を確める。
気遣いに感謝しながらも、眠っているふりをするのも欺瞞的だからと、私は「どうですか」と問う。「きれいですよ」という答えが、闇にぽっと灯る。「今何時ですか」と問うて、「○○時です」という答えを求めるときもある。
次のオアシスまで砂漠を渡っていくように、2時間眠ろうとする。もちろん眠れそうもない時もあり、その時は深夜ラジオのイヤホンを耳に入れる。
今、最大の苦痛は右足底外側の痛み。患部の血管を拡張して血流を改善するためにと投薬されてから、痛みが増した気がする。手術とは直接関係ない部位のはずだがと思う。やるせなさが痛みを増す。焼けつくように痛い。
もう一つは、胃の不快感。麻酔の後遺症か投薬の副作用かと思うが、吐き気と胸苦しさ。吐き気とはいうが、嘔吐してしまう何かが胃に貯まっているのではない。ほとんど何も食べていないため、吐くこともできない。それでもからだは反応するのか、違和感を排出しようとしてか、放屁を連発する。
そして、ひどいめまい。目を開けるといつもピンクの蝶が50匹ぐらい舞う。あるいは天井の図柄がさまざまな形状に変化して立ち現れる。
ベッドは水平。視界はほぼ天井に限られる。自分の左右に何があるか、頭の先や足の先に何があるかもわからない。自分がどのような空間に置かれているのかわからない。自分だけが置かれてある。」
1.31(術後2日目)
「食器をのせた盆が目の前にがあるが、食器の中は覗きこめない。見えない献立の内容を看護師から教えてもらい、自分で求めてその一口一口を看護師にスプーンで口に運んでもらう。
食欲はない。味覚がない。呑み込む舌の触覚だけがある。からだが水平なため食物がのどを下りていかない。みぞおちに食物が貯まっていく不快感。
食事の時間がやってくるのがつらい。食べ物を思うだけでもつらい。
眠りの底で衝動的に身を剥がすように起きようとする。瞬時に目覚める。左肩が固定されている自分の全身を了解する。」
2.1(術後3日目)
「先ほど、ベッドの上半身部が30度上げられた。30度と知らされたが、わたしにはもう少し小さい角度に感じられる。
それでも、視界が外側に広がる。くくり付けられているのは変わらないが、『F1マシン』から『筏』に乗り換えた気分。少し開放感がある。筏の流れに身を任せる。うたた寝の夢の中で急流にさしかかると、筏は回転し、わたしは夢の中で転がる。
天井を眺めているうちに、突然ベッドに吸い込まれるように眠りに落ちる。ベッドに溶け込んでしまうように眠る。昏倒するように、我を失う眠り。不快ではない。」
この日、ようすを見に来てくれたStar医師から「今日ぐらいから苦しくなっていくと思います。がんばっていきましょう」と言われました。峠を越えたつもりでいたので、少しがっかりしました。
その翌日、執刀の主治医であったHill(仮名)医師にも「今日がピークだろう」と言われました。
2.2(術後4日目)
「心身に変調が起こる。(それがどのようなものであったか、具体的に記すほど記憶していない。)
時間が経てばおさまっていくはずと、耐える。Hill医師の予告があった分、気持ちの準備ができていたかもしれない。
どのくらい時間が経ったか、嵐は去っていった。
眠りから目覚める。そこは視覚の混乱した世界だった。
ベッドに仰向けに横たわっているはずのわたしのからだが、垂直に立っている。その目の位置から足元や両横を見下ろし、ベッドを背負っている。
目に映っている光景に間違いはないが、何かが間違っている。
錯乱?
この光景を眺める視点である、自分の空間的位置取りを間違えているのか。カメラにたとえるならば、カメラに映った映像に間違いはないのだが、全体の空間の中でのカメラの位置が間違っているのだ。
この錯視は1分ほど続いた。
もう一つの奇妙な空間感覚。
左腕は固定されて布団や包帯に埋もれていたが、指だけはギプスの中で動かすことができる。手首を反らす神経が麻痺してしまうおそれがあるということで、医師から指を動かすことを推奨されている。
自分の指を、布団の下で、体幹のすぐ脇で、体内感覚で動かす。首をひねって視線を転じた時、その体内感覚とはまったく違ったところで自分の指が動いていた。自分の指があんなところにある? 「自分の指」の位置を正しく感じられなくなっているのではないか? 内側から感じている「自分の指」と目で外側から確認する「自分の指」との乖離。
この2つを錯視と呼んでいいのか。この2つが同種のものなのか。
『自分』というもの、観念的なではなく、より身体的なイメージが統御を幾分失っている。薬の影響なのか、それとも、からだの一部を別の場所に移植した、取り替えた結果なのか。そんな不安が走る。」
2.3(術後5日目)
「上の葉から滴る水を受けてしなっている下の葉。わたしは、その葉面に下半身をくくり付けられている。上半身は葉面から空中にはみ出し、仰向けのままのけぞるかたちになっている。それでも、その姿勢で眠っている。
なぜか不快ではない。不安でもない。身も、こころも、投げ出している。揺れるままになっている。
今日の昼間、右下腿の管が抜かれ、包帯が巻き直された。自分を縛っていたものが、小さいとはいえ、その一つがはじめて解かれた。そのこととこの夢はかかわりがあるのだろうか。これまで無意識に入っていた首や肩の力が抜け、ベッドに身を委ねる気構えになったということだろうか。」
この夢が折り返し点だったように思います。
この夢の後、その日の記録をつけることを思いつきました。仰向けのままではペンを手に取ることはできませんでしたが、ポメラという小型のデジタルツールを持ってきていました。右手だけででキーボードを確かめながら打ちます。
途方もなく続きそうな時間を消費する気晴らしでありつつ、その時間を一つのかたちに転換する営為。
食べることは、相変わらず苦痛でした。
私の食欲のなさを見かねたStar医師が、「過剰医療だけどね、『てんこもり』にするね」と言いながら、輸液の量を増やすことにしました。
この日、妻にアイスを差し入れてもらいました。手術後初めておいしいものを食べた感じがしました。
翌日には兄にたこ焼きを買ってきてもらいました。8個全部を食べました。
2.4(術後6日目)
「味覚は幼い頃に後退していく。
アイス、たこ焼きと続いて、今日はシュークリームとコーヒー牛乳。これら以上にうまいものがあるはずがない。でも、さすがにシュークリーム大3個は、その場で食べ切れなかった。」
手術から1週間が過ぎ、HCU(高度ケアユニット)から出ました。手術前に入っていた一般病室の4人部屋へ一度戻った後、一般病室の個室へ再移動しました。
2.5(術後1週間目)
「肩の安静のため、相変わらずベッド上での動きは制限されている。
仰臥姿勢のまま右腕でできることしか、自分にはできない。排便もガーゼ交換の処置も他人まかせのままである。
夕方左上肢に装具を付ける。今後少しずつ動くことが許されていく段階で肩の角度を保持するためである。これまではそんな必要もないほど固定されていたことでもある。
装具を付ける作業のためにベッドの端に坐る。1週間ぶりに上半身を立てる。起立性めまいが起こる。1週間の仰臥は、脳に血液を送る循環機能を忘れさせていた。つらい。懸命に持ちこたえる。15分。それでも、一歩一歩と日常に戻る準備をしているということなのだろう。
これまで24時間昼夜を問わず続いていた点滴が途切れるようになった。
長兄が埼玉へ帰る。
手術の前日やってきてから1週間。病院の近くに宿をとり、午後病室を訪れ、とりとめのない話をするか、黙って見守っていて、2時間ほどすると宿に帰っていくという1週間だった。」
兄はもとより、多くの医療スタッフの方に支えられてここまで来ました。
たとえば、HCUでの2日目と3日目を担当してくださった女性のO看護師。
たぶんHCUで最も習熟した看護師なのだと思います。彼女が2日続けて担当することは普通は考えられないと、後日他の看護師から聞きました。切り札的存在なのだと思います。わたしはかなり「要注意患者」(?)だったのだと思います。
担当初日の朝、手術後もそのまま首に挿入されていた点滴用の管を、まず整理しはじめる。交替する前任の若い男性看護師に、それらの管をそのままにしていたことをそれとなく注意しているのが耳に入りました。叱責するわけではなく、それでもきちんと指摘する。職業人の教育的場面に触れた気がしました。
その後も、患者のわたしが少しでも快適になっていくよう、まわりを的確に整えていってくれました。「こういうふうに仕事に向かっている人もいるんだ」と、その取り組む姿勢に感じ入りました。
Hill(仮名)医師。手の外科が専門で、たぶん手術に関してのリーダー的存在。この医師の再建術がなければ、わたしは左腕を切り落とすことになっていたのかもしれません。
ことばのやりとりをしている間も、ほとんど笑顔を見せない人でした。
HCUでのある日、こんなことがありました。毎日手術部位のガーゼ交換が行われますが、その日は主治医としての確認も含めてHill医師が担当でした。彼が指示していた規格のガーゼ・包帯が準備されていませんでした。代わりに幅が5ミリ違うものが用意されていたのだと思います。担当の看護師は、この階にある備品をすべて探したが、というような言い訳をしたと思います。医師は「病院中を探してかき集めてこい」と叱りました。指示どおりのものが調達されるまで、処置はしばらく中断しました。ベッドのまわりに険悪な雰囲気が漂いました。
わたしの心の中で、彼はブラックジャックならぬホワイトジャックと呼ばれることになりました。