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死を自ら問えば、生き方がくっきりしてくる

子どもの頃は、死に対する意識がいつも頭の中にあった。
道路を渡っているとき、車が突っ込んできてはねられるかもしれない。
家にいるとき、地震がおきて屋根がつぶれるかもしれない。

ただ、それは怖いというよりも、意識せざるを得ないという感覚で
生きているという事実の反対として、仮想現実が過剰に意識されたと
表現するのが、感覚として近い。

とにかく、子どもの頃は感覚だけは日常生活から飛び出していた。
それは現実には起こらないことへの渇望とも言えるだろう。
今ふりかえれば面白い感性だったともいえるが、怖くもある。

あれから時がたち、死を意識することも少なくなったし、
現実から逸脱することに心とらわれることもなくなった。
少し前までは、それは大人になって物事がわかって、
冷静に対応できるようになって、
人生をさとったとかいったりして、
成長のベクトルで進んできた証だと思っていた。

しかし、最近になって思うのは、
成長とは全く逆で、人として退化してきたのではという疑念。
人生ってこんなもの、という風になれば
おだやかかもしれないが、見えてないものには全く対処できない。
そんな退化してきた人を若い力が駆逐していくのが生命の法則。

しょうがないとは半分思いつつ、残り半分は何とか抵抗したい。
子どもの頃の感覚を少しでも取り戻すにはどうしたらいいか。
そこで思い立ったのが、あえて「死を想う」質問を自分にぶつけること。

こんなイメージをしてみる
今日はテレビの取材で、アナウンサーやカメラマンが家に押し寄せて、
私に死に関するインタビューをするという。
私は原稿もなにも用意せず、その場で口から出てくるままで伝えると決めていた。
「どんな死に方をしたいですか」
「もし、命が今日限りだとしたら何をしたいですか」
「感謝を伝えたい人は誰ですか」
「死の瞬間、辞世の句を残すとしたら」
「死は怖いですか」

テレビだし、たくさんの人がこの仕事のために来てくれているのに、何も答えない、わからないでは済まされない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、しどろもどろになりながら、わかったようなわからないようなことを言葉でアウトプットしていく。

そして、最後の問いに衝撃を受ける。

「望んだ死の瞬間を迎えるために、今からできることは何ですか」

心がザワザワする。身体が熱くなる。頭がもやもやする。
脱皮をしないと、いてもたってもいられない気持ちになる。

死を問えば、生き方がクッキリする。
今の積み重ねが生で、死はその結果報告のときだからだ。
望む結果を明確にしたら、今は勝手にひっぱられる。

子どもの頃の死への観念は、発散だった。
でも今のとらえる死への観念は、収束だ。
きっとそれを意図的に繰り返すとバランスがいい。

毎日これを続けてみたいと思った、さわやなか秋の初日。

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