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純粋に表現すること

約3ヶ月ぶりのnote。

去年の10月頃に、本名アカウントで色んなことを思いっきり書いてみようと思ったのだけど、やっぱり外の世界を意識しながらの表現は、後から振り返ると痛々しかった。

1月にはここ(ペンネームのアカウント)をつくって、憤りのような、怒りのような、そういうものを詩として綴ってみた。全身が煮えたぎるようだった。

でも、何か、わざと怒っているような、不自然な感覚もあった。
しばらく書いて、また休んでみた。


私は、もう5〜6年、パニック症で思うように外に出られない。
表現を休んで、静かな時間を持つと、振り返って思うのは
「こうしたら治るかも」に飛びついてしまうことだ。

もう、自分にとってはあまりに長くて、自分でもよくわからなくて、だからこそ、誰かの「こうしたら治るんじゃない?」に流されていく。

あぁ、(症状も含めて)今の私でいいんだ。
と思える時もあるけれど、やっぱり思うように外に出られない状況を肯定することは、思った以上に難しくて、定期的に焦りが襲ってくる。

だから、飛びついてしまうんだよね。
「こうしたら治るかもしれない」に。

そのひとつが、「パニック症は強い怒りの抑圧から起こる」というもの。
他には「いい人」をやめたら、症状もよくなるとか。

だから、思いっきり怒りを表現してみたり、いい人をやめてみたり、もうね、藁をもすがるような思いでやってみたのだと思う。

絶望の淵で、すがることのできる藁があるだけでいい時もある。
それがあることで「治るかも」と思える瞬間には希望がある。

でもね、振り返って思うのは、「やろうとする」という作為的なものでは、結局、新しく「〜しなければ」を増やしてしまうだけで、苦しいのだ。


誰かの「こうしたらいい」は、その人が良かった方法であって、私にとって本当にいいのかはわからないんだと、痛感してる。

色んなことを、やってみて、今思う。


今日は、なんでまた書いてみようと思ったかというと
友達の「表現について」という言葉に触れたからだ。

外を意識しない、ただただ自分と繋がるための純粋な表現がとても大切で

それは、目に見えない精神・内的なもの・感覚や感情を、形にしてあげることで、「あぁ、わたしはここに生きている、存在している」と自分で肯定してあげられるのが、純粋な表現だと。

その純粋な表現がまずあって、その先に外を意識する表現_伝えたり、わかり合ったり、響き合ったりがある。という。

___わたしは、表現する時に、イコール外を意識するということを続けてきたんだと思う。だから、純度の濁るその表現に、自分で自分が嫌になるのだ。

あぁ、純粋に自分の心の中に生まれたものを、なきものにしないで、形にしてあげたいと、今日友達の言葉に触れて思ったのだ。


力んで、何かを表現するんだ!とか、隠しているものを掘り起こして表に出すんだとかではなくて

ただただ、日々、その時に自分の中にあるものを大切にしてあげたい。
色んなことに思い巡らせては、消え入ってしまうような感覚たちを、存在させてあげたい。

私は、生きている。
私は、感じている。
それでいい。

私が、私を受け止めてあげたい。
しばらくそれをここで続けてみたいと思う。

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