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米国民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル

(かなり長い書き下ろしですが、まさに180年前に現在の状況を語っています。熟読を推奨)
2023年8月3日 

今日はフランスの著名な政治思想家であるアレクシス・ドゥ・トクヴィルの啓蒙主義批判について講義させていただくこととします。

アレクシス・ドゥ・トクヴィル

専制政治は、民主政治からも生まれるのです。

いや、民主政治だからこそ、専制政治となる。
そのことに、トクヴィルは気づいてしまいました。

ではなぜ、民主政治が専制政治になるのでしょうか。
それは、民主政治の意思決定が、基本的に多数決によるものだからです。
「多数者の支配が絶対的であるということが、
民主的政治の本質なのである。

なぜかというと、民主政治では多数者の外には、反抗するものは何もないからである」
トクヴィルは、このような多数派支配の民主政治を「多数者の専制」と呼びました。
多数者とは、要するに「世論」のことです。
世論に左右される政治が、「多数者の専制」です。

啓蒙思想というのは18世紀の後半にできた思想で、
大雑把に言うと、国民主義、民主主義、国民主権、平等主義が
理性的な国家の状態であるという考え方であり、階級社会や国王制、
キリスト教世界観も迷信に満ちている、
我々は理性をもつ進歩的な人間であるから、
民主主義、平等主義、国民主義を社会で実現すればいいという考え方です。

トクヴィルはナポレオンが皇帝だった時に生まれ、
1827年22歳の時に当時のナポレオンが失脚した後、ブルボン王朝が復活し、その復興王朝の司法庁の官僚となった。
1830年に7月革命と呼ばれるブルジョア中心とする革命がおき、
ブルボン朝が倒れ、親戚にあたるオルレアン朝ができ、
貴族王侯の立憲君主制(イギリスをまねしたやり方)とし、
ブルジョア王朝と言われていた。
ブルジョア階級の利益を重んずる政府となった。
トクヴィルはそれぞれの王朝で司法官僚として働き、
34歳の時(1839年)に国会議員となった。

その後、9年間務め、2月革命が起き、王朝制を否定して第二共和政となる。そこで、外務大臣に任命されたが、2、3年たつと第二共和制で
ナポレオン3世が大統領に当選したが、彼は共和制では満足せず、
ナポレオン3世は最初の皇帝の甥にあたり、自分も皇帝になりたくて
クーデターを起こし、共和制を壊し皇帝になった。
その時点でトクヴィルは皇帝制が許せないとして退任する。

穏健な保守派、穏健なリベラル派とも呼べる中道路線を歩んだ。
彼の歴史的な重要性というのは、彼のポストではなく、
彼の啓蒙主義に対する支持と鋭い批判、
この二つが同一人物に同居していること。
彼の本を読むと、ものすごく頭がいい。
同時代の人も、なぜこんな頭のいい人が国会議員になったりするのか
と疑問を持っていた。

当時(ブルジョワ王朝)の国会議員は質が悪かった。
トクヴィルの一番有名な本が
「アメリカのデモクラシー(Democrasy in America)」で800頁の大作。
これは二冊になっていて1835年と1840年にそれぞれ出版されたもの。
私から見ると、1840年の本がすごい!
というのは、トクヴィルはオルレアン朝の国会議員と
第二共和政の外務大臣を務めたくらいなので、
自由主義、平等主義をパブリックな場で支持していた人なのだが、
彼の800頁の本を読むと、ものすごい批判を書いている。

彼は、18世紀後半の啓蒙主義と19世紀初頭の進歩主義を受け入れる
政治的立場に立ちながら、同時に、啓蒙主義をやっていて国家は
本当によくなるのか、国民の質がよくなるのか、
国民はよりよい生き方をしているのかについて大きな疑問を持っていた。

政治家が
表面的な行動と腹の中の考えが違うといった
表面的なレベルの違いではなく、政治思想と哲学、
人間のよりよい生き方とは何かという点から
啓蒙主義に対して批判的だった。

なぜ、その話をするかというと、
現在のアメリカの民主主義というのは徐々に崩壊に近づいていると思う。
来年の選挙でだれが大統領になってもろくなことにはならない。
アメリカ人の7割以上がアメリカの大手マスコミの報道を信用していない、アメリカの大手マスコミを信用するという世論調査の数字は
せいぜい20数パーセント、また、国民の4割は
選挙(バイデンとトランプ)はイカサマであると指摘しており、
選挙はおかしいと思っている。

つまり、政府の正当性がないと考えている。

今のアメリカ政府が正当に選ばれた政府なのか、
どっか裏でCIA,FBI、国務省などがイカサマをやって選んだのか、
民主主義にとって一番大切なのは
国民が信用できる報道の自由が存在しなければいけないが、
7割以上の人が信用していないというと、
選挙の結果も疑っている人が4割りという国で
果たして民主主義が維持できるのかというと、
私はどんどん悪くなっていると思う。

日本も自民党が現在の国防政策、経済政策について
過去30年間失敗してきたにも拘わらず、ろくな野党がいない、
自民党が失敗していても野党に票を入れるわけにはいかないということで、民主主義がきちんと動いていない状態。
世界中の国で民主主義体制がうまく運営されていないような印象を
多くの人がもちだしている。

トクヴィルの本をよむとなぜそうなるのか、
なぜ国民が民主主義、平等主義、自由主義を長期間実行すると
国民がそういう体制を信用しなくなるのか、
というパラドックスを分析してくれている。
彼の民主主義、平等主義、自由主義に対する懐疑心は
ほとんど哲学的ともいえる思考に基づいたものであって、
表面的なものではない。

彼の顔を見るだけで頭がよさそう!
本を読むとほんとに頭がいい。

私が最初にトクヴィルを読んだのは30歳ごろだが、
なんと頭がいいのだろうと思ったものだ。
だが、60歳になって読み返すとまたまた彼の頭の良さに感心させられた。 

彼が最初に「アメリカの民主主義」を書いたのは30歳のときで、
とても30歳の若造が書くような本ではない。
50歳の思考力のある人が書いたような内容。
天才だから書けたのだろうという感じがする。

今日は彼の著作のポイントを10個紹介します。

言いたいことは5つ;

 ①民主主義体制を長期間続けていると国民が深く考える能力を失い。
 ②国民が個人主義的になり公の問題について無気力、力無関心になる
 ③国民が徐々に自分のことにしか関心を持たない利己的拝金主義者になる
 ④哲学的な複雑な問題だが、人間としての本当の自由を失ってしまう。
  見せかけの自由(職業選択、言論の自由など)はあるが。本当の人間と
  しての深い自由を失って、本来の自由を実践しているわけではない。
  浅い自由(shallow minded freedom)は残されても。人間としてのDeep
  Freedom は失われていくということを説明している。
 ⑤人間の価値判断力が軽劣化していって学問、芸術も、文明の質も低
  下していってしまう。価値判断を失った場所で自由主義をやっているの
  で、文明が停滞、混迷状態になっていくということ。

そこで思い起こすのが、プラトン、アリストテレス。
彼らは、

民主主義をずっとやっていると国民が価値判断能力を失って、
もう一度独裁者もしくは専制政治となる

と言っていた。

24世紀前に先人が言っていたことにトクヴィルも同意している。

今の日本、今のアメリカがなぜ混迷した状態、うまくいかない状態なのか。廃れていくか、優秀な政治家は出てこない。
民主主義をやっているとほんとうに優秀な政治家は出てこない
民意を反映した政治家は多くの場合、ほとんどの場合、
やっているふりをしている政治家にすぎない。
実際に歴史を変えたり文明の混乱、低迷状態を改善するような能力を
持っていない。
なぜ、そういう政治家が出てこないかということもトクヴィルは
180年前に、指摘・予言している。

私のようにアメリカの民主主義政治を観察していると
アメリカの政治にも期待は持てない、
日米ともに悪くなっていくだろうと思っている。

なぜそうなっていくかをトクヴィルは約180年前に説明してくれている。
ですからとても役に立ちます。
今日は約10のことを説明します。
トクヴィルの著作から多くを引用します。


まず最初に

『民主主義、自由主義、平等主義を続けていると
国民が深く考える能力を失っていく。』

トクヴィルの観察によれば、

『18世紀の階級制度が残っていたヨーロッパのほうが
19世紀の民主主義を実行し始めたヨーロッパよりも
国民が思考能力があった』

と考えている。

彼に言わせると、
『民主主義社会では、すべての国民が平等な思考力と平等な価値判断能力を持つとみなされている。
したがって民主主義社会では、すべての人がすべてのことに
自分の判断を下す能力があるという建前になっている。
国民はだれもが自分の判断に自信を持つようになる。
したがって、自分より優れた判断を持つ人の意見に耳を傾ける必要を
感じなくなる。
同時に、社会の伝統的な価値基準を尊重する姿勢も失っていく。

民主主義社会くらい
深くものを考えるという態度に向いていない体制はない。


民主主義社会においてはほとんどの人が
金や社会的地位や名声や権力を追いかけて毎日あくせくと動き回っている。18世紀の階級社会において、人々は実は、のんびりしていた。
しかし、19世紀の民主主義、自由主義の社会においては、
機会平等であるから、だれもが自分の地位と経済的条件を向上させようと
競争し始める。
したがって国民は18世紀と違って19世紀の国民は
自分の目先の損得と勝ち負けに熱中する。
このように目先の損や勝ち負けに熱中する人々にとって
じっくりと自分の人生を考えてみるという沈着冷静な態度は
不必要なものとなっていく。

したがって民主主義における人間は、
激流に押し流されるあぶくのような存在になる。
民主主義社会ではじっくりものを考えるという態度は
軽視されるようになり、社会で活動的で活発な生き方をする人が
尊敬される。
深い思考力は必要とされなくなる。
民主主義社会で必要なのは、世間の潮流を素早く察知して
群衆の心理を鋭く見抜いて自分が成功するチャンスを
増大させていくことである。

したがって民主主義社会では、
表面的ではあるが、もっともらしく聞こえるアイディアがもてはやされ、
深い分析や洞察力は過小評価されていくようになる。
国民は自分の利益と自分の快楽に役に立つ新しい方法や
テクニックを望むが、自分の得にもならない抽象的な知的な活動には
見向きもしなくなる。』


■二番目に個人主義(Individualism)がある

トクヴィルによると、
ギリシャ・ローマ時代から18世紀まではそもそも個人主義という言葉が
存在しなかった、という。
そういう言い方がなかったので、人々は個人主義的ではなかったのだ。

しかし、革命以降のヨーロッパで民主主義、自由主義、平等主義が
はじまって、初めて個人主義的な生き方が広まってきた。
トクヴィルはこの個人主義という生き方に対して、批判的。
『なぜなら民主主義の時代になると、人々は優れた人の見識から学ぶよりも自分自身の好き嫌いの感情と生まれつきの性格、体質、気質の中に
自分の心情を見出そうとする。
彼らは個人主義者となり、自分の気に入る人だけと交際して
社会の動きに関心を持たなくなる。
これは人々の公徳心を枯渇させていく。
個人主義とは民主主義から生まれた生き方であり、
平等主義により一層強化されている。』

『フランス革命前の階級社会において、
人々は自分の先祖を明確に覚えており、しかも尊敬していた。
そして彼らは、自分の孫の世代を明確に意識しながら生きていた。
人々は先祖に対する義務と子孫に対する義務の双方を
常に念頭に置きながら生活し、先祖と子孫のために自分の利益を
犠牲にすることを厭わなかった。
しかし、民主主義社会になってから、
人々は先祖のことなどあっさり忘れてしまった。
そして、子孫の世代のことも気にしなくなった。
そして彼らは、隣人に対しても無関心になった。』

『階級社会であったときは、国王から農民まですべてのひとは
人間関係のネットワークに組み込まれていた。
しかし民主主義社会は、このようなネットワークを解体してきた。』

当然ですよね。機会均等・平等主義ですから。
そうする人間関係のネットワークなどというのは
どんどん破壊いてもかまわない、自由に動き回るのが国民の生き方。
ネットワークはどんどん解体されていく。

『人々はバラバラになって孤立し、お互いに対する義務感と期待感を
持たなくなる。
民主主義社会で、国民は人生で頼りになるのは自分だけという孤立感を
抱くようになり、緊密な人間関係を築くのが難しくなっていった。

人間の心を大きくししかも思考力を深めて行くには
人間同士が相互に影響し合うことが大切である。
しかし、民主主義社会においては人間関係が
どんどん希薄になっていくので、
お互いに思考力を深めるとか心を大きくする機会も減っていく。
機会平等主義と能力主義を重んじる民主主義社会は
民主社会は人間を自分の成功と自分の幸福にしか興味を持てない
孤独な競争者(lonley competitor)に変えていくのである。』

トクヴィルは、
『このような平等主義が普遍的な思想になるなら、
人々の思考力は狭くなっていくだろう。
人々は自分の目の前の世界にしか関心を持たず公共の問題には関心を失う。人々は無気力、無関心な態度で時代の流れに押し流されるようになり、
奮起して社会の流れを変えようとして努力する人などいなくなる。
それによって多くの人たちは孤独で矮小で不毛な人生を
生きていくことになるだろう。』と述べている。

■三つめは、民主主義社会自由主義社会では
国民の多くが自分のことにしか関心を持てない利己的な拝金主義者になる。


なぜなら、18世紀までのヨーロッパ社会では良くも悪くも
価値判断のバックボーンとなっていたのはキリスト教的な人生観であり、
キリスト教的な世界観だった。
啓蒙思想というのは、繰り返しになるが、
宗教などと言うのは迷信に過ぎないということで、
我々は理性的な高等生物なので宗教などと言う迷信を
信じる必要はないということから、
キリスト教的な人生観や世界観を捨てたわけです。

ことによって、どうなったかということ、
キリスト教的世界観を持っていると言うことは神の存在を信じていて、
人間は神から生まれたものであり、死んだら神の元に戻っていくことを
信じていたが、啓蒙主義の下で生きている人間は、神はいないし、
死んだ後に神の元に戻ることはなく、
生きている間に金を稼いで欲望を満たしていい生活をするのが
一番賢い考え方と考えるようになる。

とどうなるかといえば、
「今だけ金だけ自分だけ」の拝金主義者になるということに他ならない。
トクヴィルに言わせれば、
『民主主義と平等主義の社会では人々は、
過大な自己評価とプライドを持つ、嫉妬深い存在となる。』と。

私は、日本の場合には、
僕はあまり過大な自己評価とプライドをもつ嫉妬深い存在に
なっているようには思わないが、アメリカはそうです。

アメリカ人は皆さんものすごいセルフ・エスティーム(self esteem)
自己評価・自尊心とプライドが強く、
セルフ・エスティームとセルフ・リアライゼーション(自己実現)
それからセルフ・フルフィルメント(自己充足)が
アメリカ人の宗教のようになってるわけで、
何でもとにかくセルフ、セルフ、セルフと
高いセルフ・エスティームをもって、
self realizationとself fullfilment self assertiveness(自己主張)をするために
生きていくんだ!と。
みんなが、これも主張するしあれほしいし、という生き方をするわけです。

アメリカ人というのは
特にNYとかWshingtonに住んでいる人は
自由なように見えて、皆さんすごく嫉妬深いですから
齷齪(あくせく)してて非常になんか生きづらそうに僕には見えます。
『自分の判断だけに頼る自己充足主義者は他者との関係や
自分にとって得となるか、損となるかの基準によってのみ
決められるようになる。』

トクヴィルは、
『このようなアメリカ社会では道徳や隣人愛という言葉の意味まで変わってしまった。』と指摘している。
要するにアメリカ人が道徳とか隣人愛と言うときに、トクヴィルは、
La doctrine de intérêt de bien entendu、
英語で言うと doctrine of self interest という皮肉を言っている。
つまり、多くの人に承知されている(Widely Understood)という意味。

なぜ皮肉の意味で言っているかというと、
トクヴィルの観察に寄れば、
『アメリカ人の道徳というのは自己利益を増大させるために、
利他主義を主張するのがアメリカ人の道徳である』、と。
つまり、人のため、社会のため、理想のため、人道主義のためという
理想主義、利他主義を大声で主張し、自分が自分の利益を増大する、
人からよく見られるようにして自己利益を増強していくのが
アメリカ人のSelf interestのドクトリンであると指摘している。

このように利他主義を説いて自己利益を増強していくのが
道徳であるとアメリカ人は考えており、
しかも、アメリカの牧師たちもキリスト教道徳を身につければ
この世で得をするという風にお説教するという。
キリスト教道徳というのは神の目から見て自分の行動が正しいかどうか
判断する筈の道徳だが、アメリカの牧師たちは
キリスト教道徳を実行しているように人から思われれば
あなたは評判がよくなって現世で得をする、と説き、
キリスト教の本来の理論というのはこの世でたとえ報われなくても
じっと我慢して、徳のある生き方をしていけば
次の世(来世)で神はそのことを認めてくださり
天国に行けると言うことになっているのだが、
アメリカ人のキリスト教は人から「Good Christian」と
思われるようになれば評判が上がって、得をするから
キリスト教の道徳を実行しているふりをした方がいと言うこと。
アメリカ人の誇示したがる宗教心もしくは宗教的な情熱の底には、
自己利益増大のための冷たい計算が潜んでいる、
とこのようにトクヴィルは言っています。

『このような平等主義、自由主義、民主主義社会において
国民の道徳規範と価値判断能力は劣化していくから、
低い価値判断しか持てなくなった人たちは
自分の目先の損得だけに執着する拝金主義者になると、
いうことで、このような拝金主義者になるのは
ある意味当然のことである。』

『アメリカではすでに裕福な環境にある人たちでさえ、
もっともっとお金をほしがる。
ヨーロッパの上層階層では、一旦裕福になると
それからあとは金儲けを軽蔑する態度をとるが、
アメリカの金持ち階級はいつまでたっても金儲けに執着する。
だから、民主主義社会に住む人の大部分は、
まるで商売人のように打算的である。
彼らは、高邁な理想を冷笑し、目先の利益をつかむことに意欲を集中する。人々はちっぽけな利益や優位性を求めて相互に競争し、
小規模な財産は地位を獲得した人は
自分の成功を他人に見せびらかすことによって人生の満足感を達成する。
伝統的な社会に存在していた徳の高い人を尊敬するという心構えは
民主主義社会から消滅していく。』と、彼はこのように言っている。


■次は、啓蒙主義プロジェクト、要するに民主主義、自由主義、平等主義を実行すると長期的には国民は真の自由を失ってしまう。

これは、一体本当の自由とはなにかということの定義に寄りますから、
例えば、好きなだけ酒飲んで、好きなだけ女と遊んで
好きなだけ贅沢したいと、そういう人たちはもちろん、
自分の自由を達成したもしくは充足しているつもりなんでしょうけど、
トクヴィルに言わせれば、
『そういう自由というのは、なんというか次元の低い自由というか
浅い自由(シャローマインデッドなfreedom)でしかない。
人間にはもっと大切な真剣な自由があるはずだろうが。』、
というふうにトクヴィルさんはおっしゃるわけです。

トクヴィルは、その著書「アメリカのデモクラシー」の中で、
人間にはもっと大切な、そして真剣な自由があるはずと言う。

啓蒙主義思想を実践すると、
自由を求めたはずの人間が本当の自由を失ってしまう
ということについて5つに分けて説明している。
これは哲学的な批判であり、必ずしも一般の方には説得力を持たない議論に聞こえるかもしれない。

自由・平等・民主という啓蒙思想を実行すると
国民は逆に自由を失っていくことになるということを、
トクヴィルは次の五つの点から説明している。

-----------------------------------------------------------------------
1.多数波至上主義による専制主義
2.世論崇拝主義による知的な画一主義(Conformism)
3.民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義

法律的には自由主義が実行されているように見えても実態としては
抑圧されている。

4.ヨーロッパの革命前の世界と後の世界、
また、ヨーロッパとアメリカを比べた場合、
中間的支配者層が双方(革命後の世界とアメリカ)に存在していない。

トクヴィルは中間的支配者層を非常に重視している。
革命前のフランス、19世紀のイギリスにはそれが存在した。
トクヴィルの分析によれば、国家の自由、寛容というものを
本当に維持していたのは国王ではなく、一般国民でもなく
その間に存在する中間的支配者層だったと説明している。

5.中央政府による保護者的な統制主義による「新しい奴隷制度」。

トクヴィルは民主主義、平等主義、自由主義を実行していると
そのうち政府の力ががどんとん強くなって、
政府は国民を保護してあげるというポーズをとりながら、
新しい奴隷制度をつくることになるだろう。
そうすると、最終的に啓蒙思想を追求していって
行くところまで行くと新しい奴隷制度を作ることになる、
と指摘している。

■一つ目.多数派至上主義による専制/独裁

民主主義というのは多数派の意見に従うこと。
トクヴィルはフランスでは民主主義をフランスでは支持していたが、
多数派がすべてを決めてしまうという社会は
長期的にはまずいことになると考えていた。
文章を引用すると;

『民主主義のエッセンスは多数派が権力を行使することであり、
議会は多数派の意思を立法化する。
社会は多数派の政治的な面での優位性を認めるだけではなく、
多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。
民主主義では一人一人の議員の資質よりも、議員の数が問題になる。
要するに多く議員を当選させた人間が勝ち!
これは人間の知性の分野にまで平等主義の原則を適用することであり、
数が多ければそれでいいのだということになる。
数が多い方が道徳的にも政治的にも勝ちだということになる。』

トクヴィルは、
「私は個人的には多数派は、何をやってもいいという考え方には、
不潔で卑しいものを感じる。」、
と述べている。
この考え方は、トクヴィルの宗教的もしくは哲学的考え方からに
もとづくものである。

『アメリカでは多数派が何かを決定すると
そこで議論がピタっと止まってしまう。
ヨーロッパでは最も専制的な国王ですら、
国内の少数派の言論を止めることはできない。
しかしアメリカは、少数派を沈黙させることができる。
アメリカでは多数派が物理的な権限だけでなく、
道徳的な権限も行使している。
世界諸国の中でアメリカぐらい思考の独立と真の言論・議論の自由が
欠けている国はない』と指摘している。
これは彼が1835年に書いた文書で、
1830年代当時の世界のことを指している。

原文:
Je ne connais pas de pays où il y ait moins d'indépendance d'esprit et
de véritable liberté de discussion qu'en Amérique.

『アメリカぐらい、思考(エスプリ、スピリット、マインド)の独立性に
欠けている国はない、また、議論の自由の欠けた国はない』、ということ。

トクヴィルの観察によると自由と民主主義を実行していたアメリカという
国ほど、精神と思考の独立性と自由の議論する態度が欠けている国はない、とみていた。
アメリカの民主主義のことを、
「La tirany de la Majorite」=「多数による独裁の国」と見ていた。
『アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して村八分にして
社会から抹殺してしまう。
アメリカの言論迫害はスペインの異端審問よりひどいものである。』
と書いている。

しかも、トクヴィルは、
『多数派による専制、圧政、独裁政治を恐れるアメリカ人は
いつも多数派の意見に迎合しようとするような計算高い国民となっている。そのため、アメリカでは偉大な人格者というものが出てこない。』、
と述べている。
 
要するに、フランス革命にしてもアメリカ独立革命にしても、
自由主義、民主主義を実践したと言うことになっているが、
トクヴィルから見てこれは「多数派による圧政・独裁」に見える。

■次の、世論崇拝から生ずる知的な画一主義について

『平等主義、民主主義の時代になって人々は
一般の世論に真理の根拠を求めるようになった。
革命以前の社会においては、それぞれ違う階級に所属する人たちは
全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。

階級社会では深い学識と教養をもつ少数の力強いひとたちと
多くの無知な大衆が共存していた。
そのような時代の人々は少数の卓越した知性をもつ賢人の意見に
耳を傾けて、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。

当時の人々は大衆の世論が真理だなどと思っていなかった。
しかし、平等主義、民主主義の時代になると
一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。
人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理と見なされるようになって、
人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。
多数派による世論が一種の宗教となったのである。』

『この、世論に従うという人々のパターンは
人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。
平等主義を是とする民主主義社会は逆に知的、精神的自由を拘束している。階級社会の漆黒から解放された筈の人間の知性は、
多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められる
ことになったのだ。』

『人々は奴隷制度の新たな側面=形(nouvelle physionomie de la servitude)となっている。
民主主義による世論崇拝という画一主義は、
「新しい奴隷制度の時代」を作った。』

要するにみんなが民主主義と自由主義を実行しているつもりなのに、
トクヴィルからみると、「これって新しい奴隷制度なんじゃないか」、
と見えた。

次に.次に民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による
抑圧主義を説明している。

彼は、自由と平等というものは常に共存できるとは思っていなかった。
当然です。
誰でもわかること。
みんなの自由なことをやり出せば、だんだん平等ではなくなってくるし、
誰かの自由を制限せざるを得なくなる。
自由と平等とはそう簡単には両立しない。
これは自明である。
「彼によれば、
『平等を望む人間の心理はしばしば社会の強者や優越者に対する嫉妬や
怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも、
隷属状態における平等を望むようになる。』

トクヴィルによれば、
『人間の欲求の中で最も強いのは、自由に対する欲求ではなく、
平等こそが人間の最も強い欲求でああるという。

従って、民主主義社会では、
優越した人もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、
政府の権力を使って人間社会の画一化を求める人間の格差や差異を
消滅したいという衝動となる。
従って人々は社会環境の均一化と人間の同一化を求めるようになる。
これによって政府は、
国民からの人間の平等化・均一化の要求を受け入れて、
政府の規制件と介入権を拡大していくことになる。』 
つまり、自分と違った人に対する嫉妬とか恨みを持つようになると、
結果としてより大きな政府を作っていくようになる。

これに対して私が感じるのは、
今のアメリカは差別反対、偏見反対という世論が蔓延し、
マスコミと民主党はそれ一色になっている。
それで相手を攻撃することが連日起きている。
これがPolitical Correctness(ポリコレ)とか、
ウォークネス(wokeness:差別に対して意識が高い、覚めている)
と言う言葉で、you are not woked
(おまえは鈍感だ、差別感情が強い、時代遅れだ、
私の人間性を無視している・・・)
というような言い方になる。

差別反対、偏見反対というマスコミと民主党が主導する
ポリコレとWokenessによって今のアメリカでは、
教育機関においてもマスコミにおいても政治活動においても
行政機関においても、言論の自由と表現の自由が非常に厳しく
規制されている。

例えば、一番馬鹿げた話だが、大学に入ると先生が学生に対して、
男であれ女であれ、例えば男子に対して、
「私はあなたをHe/him と呼んでいいか、それともShe/her、
あるいはTheyとかThemと呼ばれたいか」と聞いている。
男子でも自分のことを女性と認識している人にheと言っては相手を傷つけることになると。
ひどいところでは小学校の一年生の生徒にも聞いている。
小学校の一年生に聞いてもわかるはずがないのに。
小学校の先生が、「Hi Boys and Girls!」という呼びかけはNG。
なぜなら、自分のことをBoyとかGirlとか思いたくない人がいると。
自分をトランスジェンダー、ジェンダー・フルイッド,
ジェンダー・エクスチェンジャブル
(性別はその日の気分によって変わる!)
と思っているひとがいるらしい。
それは差別用語になると!!
これは本とのことなんです。

ポリコレとウォークネスから来る極端な言論の制限、抑圧が
実際に起きていて、アメリカに住んでいる僕は、
嫉妬とか反差別感情による抑圧主義というのは笑い事ではない。
一般の英語におけるheとかsheの当たり前の表現を使うときも
用心しなければならない。
単数でも、Call me they or them などと複数で
読んでほしいと言う人がいるので英語の文法までおかしくなっている。

平等主義から来た言論の抑圧というのは、
アメリカでは、言葉の最も基礎的な名詞、代名詞を使っていいのかまで
制限される事態になっている。
これが平等主義と民主主義の行きつく先ということです。

■中間支配者層が消滅したことによる政府による全体主義

中間支配者層が社会からなくなると
政府はたとえ自由主義、民主主義を守っているようなふりをする
政府であっても、実際には全体主義的な行動をとれる。
とトクヴィルは指摘している。

彼は、『革命前のフランスには国王と国民の間に
中間的な支配者層が存在していた』と指摘し、彼はこの中間的支配者層
(中間にいる権力の保持者:国王と国民の間におかれたsecondary power)の存在を非常に重視していた。
それがあるからこそ、彼の考えによれば、
16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸国の政府は、
政府による専制主義、画一主義、言論弾圧を阻止できた、
と彼は言っている。

トクヴィルより少し前の、
イギリスの思想家、エドマンド・バークも同じことを言っている。
彼も世界には中間的支配者層が必要だと行っている。
単に政府と国民だけでは本当の自由主義は実践できないと指摘している。

トクヴィルの説明によると、
中間的支配者層というのは、
『中小の領主層、もしくは貴族階級、騎士階級、紳士階級、聖職者階層、
という層があって、国王と国民の間で、
一種のクッションの役割を果たしている。
この中間的支配者層こそ、
本当の地域のコミュニティのリーダーシップをとっていた。』と。
国王がいちいちコミュニティのリーダーシップをとるわけがないのだ。
彼らが庶民を指導していた。
バークもトクヴィルもこれが非常に重要だと言っている。

彼によれば、
『民主主義体制よりも中間的支配者層のあるアリストクラシーの方が
個人の独立を保証するのに向いていた。』

アリストクラシーというのは日本語では貴族制度と訳すが、
僕は、アリストクラシーというものを貴族体制と訳す/理解することは必ずしも正確ではないと思っている。
もともとギリシャ語で、アリストとは、優れた人、卓越した人であり、
貴族というものではない。
貴族というときれいな服着てお城に住んで贅沢しているという印象だが、
もともとアリストクラシーはギリシャ語では、
優れた人たちが統治している政府ということを意味する。
貴族=贅沢している特権的な階級とは違う。
アリストクラシーを貴族政治と訳してしまうと違う解釈になる。

『民主体制よりアリストクラシーの方が
個人の独立を保証するのには向いていた。
アリストクラシーにおいては、国王は権力を独占することができず、
国家の統治権を分割せざるを得なかった。
アリストクラシーにおける政府の官僚は自分たちの地位と権限を
国王から与えられていたわけではない。
従って国王は自分の意に従わない政府の官僚を首にする能力を
持たなかった。
アリストクラシー社会では、独立した影響力持つ人が多数存在しており、
政府がこれらの有力者を抑圧することはできなかった。
国王が勝手なことをやろうとした場合、
これらの有力者たちはお互いに協力して国王の専制を
阻止する能力を持っていた。』
 
つまり、国王もこれらの有力者を怒らせるようなことをやると、
自分の権力を制限されてしまう。
アリストクラシーは国王に対する拒否権(Veto power)を持っていた。
しかし、トクヴィルによれば
『フランス革命ではこのような中間的支配者層を一掃してしまった。
聖職者も騎士階級もすべていなくなった。』という。

『中間的支配者層が無力化されたため、
民主主義社会では政府の権力に対して抵抗できる個人が
いなくなってしまった。
民主主義社会における個人は弱々しく孤立する存在であり、
中央政府に対抗できない。
無力化された群集は中央政府の組織化した権力に従うしかない。
従って、民主主義は国民を中央政府によって均一化された
矮小な市民の群れと扱われるようになった。』

『中間支配者層がフランス革命によって消滅したことにより、
フランスは逆に政府によるラ・ヌーベル・サービチュード
(New Slavary system)新らしい奴隷制が発生することになった。』

1840年のトクヴィルの著作
「アメリカの民主主義」の最終部に書かれていること。
これを読んだ20世紀後半の人はみんな驚いた。
なぜかというと、トクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパと
北欧の福祉社会の実現を予言していた。
100年以上後のことを、予言していた。

トクヴィルによると福祉社会主義
(スウェーデン、デンマーク、ノルウェイ)は
必ずしも人間の尊厳にとって望ましいものではない、
と言っている。
なぜかというと、福祉主義を進めると、
トクヴィルは自由主義、民主主義を支持したが、
それと同時に、国民が政府に従属しすぎることをすごく嫌がっていた。

彼はアメリカ人のことを
「これほど言論の自由がない国はない、、、」
などとけなしているように、彼は非常に鋭敏で、
みんなが自由主義と民主主義を実行しているつもりのときに、
それは本当の自由主義ではない、
人間としての尊厳を失っているのではないか、
という疑念・疑問を抱いてしまう。
トクヴィルはPascalが大好きで、パスカルも非常に孤立した秀才だが、
トクヴィルもパスカル的なところがあり、
本質をグサッとっすような考えをもち、
秀才で両者は似ていると感じさせる。

彼は、20世紀後半に人類が実際に作った福祉社会/福祉主義といものを
「新しい専制主義(Despotism)」とまで呼んでいる。
新しい種類の専制政治において、
『政府は均一的な大衆の矮小な快楽に対する要求まで満足させてやろうと
行動する。
政府は保護者的な親切でかつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望を
コントロールしていこうとする。
政府の態度はパターナル(優しい面倒見のいいお父さん)と
言ってもよいくらいだ。
この新しい種類の専制主義の目的は、
国民を恒常的に幼児的な状態・段階にとどめておくことである。
精神的に国民が大人になれない状態にとどめておく。
すべての国民にとって何が幸せな人生なのかを決定するのは政府であり、
政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。
政府は国民にとって必要な生き方や関心事や娯楽まで
あらかじめ決めてあげる。
政府はまるで国民の一人一人が自分のことを自分で考える必要性まで
除去してやろうとするようである。
その結果として、国民は一人一人考えなくなり、
人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。
国民が自立して自分で考える(自思)能力は衰退していく。』

『しかもそのような自分のことは自分で考えて決めることが
できなくなった人間は
自分のことを幸せな境遇に住んでいると思うようになり、
社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、
このような社会では独創的な思考力の持ち主や強い精神力を備えた人は
拘束的な環境から脱出できなくなる。 
人間の意志力は抑制されて鈍化され、枯渇化していく。
そして、国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく。』         

このトクヴィルの言葉は後に非常に有名なフレーズとなった。

1840年に、
「将来の国民は勤勉で臆病な家畜の集団となるであろう」
と指摘したことは
オーウェルの『1984年』にあるような
臆病な飼いならされた集団となっていくというものである。

トクビルは
このような家畜の集団の国民を
「やさしくて平和的な奴隷制のもとの国民」と呼んでいる。
やさしい奴隷制。
『このような奴隷制は国民主権や自由主義と矛盾していないという
外見を維持できる。
このようにコントロールされ、拘束されている国民は、
自分たちを監督者(拘束者)を選挙で選んでいるのは
自分たちだ、と思って満足している。
人々は人間としての真の自由を失った状態のもとで生きながら、
自分は人間としての自由を維持していると思い込んでいる。』

要するに、民主主義、平等主義、自由主義を続けることは、
トクヴィルの目には新しい奴隷制
(国民の面倒を1から100まですべてコントロールして満足している
あ幼なみるような)、奇妙な奴隷制をつくることになる、
と指摘している。

トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義において、
『民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していく。
普通選挙を実行すると政治家の質がどんどん落ちていく。」
と書いている。

その議論はものすごく説得力がある。
彼は、彼自身がフランスの7月王朝(ブルジョア封建主義王朝)の国会議員であったので、彼自身が民主的な選挙を体験している。
自分が国会議員になったのにもかかわらず、
民主的選挙をやると政治指導者の質がおちていくと判断している。

私は、この1835年のトクヴィルの分析は2023年の現在も正しいと思う。
190年前の判断であるが、彼が指摘している三つの点は、
現在でも正しいと思っている。

『民主主義政治の仮説・前提は何かというと、
行動の自由、言論の自由を実践すれば、
それによって啓蒙された国民たちは
質のよい政治指導者を選出するだろう、
これが民主主義の仮説、もしくは前提である。』

しかし、トクヴィル自身はこれを信じていなかった。
なぜなら、彼によれば、報道の自由、言論の自由についていうと;

『アメリカのジャーナリストは
教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。
彼らには本当の信念や節操などと言うものはなく
他人の弱点や欠点を暴き立てることによって熱中している。
しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして
同じ主張を繰り返すと世論はその方向に引きずられて行ってしまう。
個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。
それにもかかわらず、これら矮小なマスコミ陣が集団となると、
アメリカで最大の社会的影響力を行使している。』

トクヴィルはジャーナリストが嫌いだった。
下品で教育レベルも低く人の荒さがしばかりしている。
一人一人は矮小だが、グルになると世論が引きずられて
最大の社会的影響を行使する結果となっている、と。
彼は報道の自由、言論の自由を実践すれば
人々が啓蒙されるとは思っていなかった。

つぎに、『すべての人に投票権を与えれば優秀な人が選出されると
民主主義者は主張してきた。
しかし、私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。
本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない、
彼らは政治に出ることを避けて、経済活動に専念している。
選挙に出馬したがるアメリカ人たちは凡庸な人たちばかりである。
しかも、一般の投票者たちが選挙で優秀な人に票を投じる
と言うこともない。
民主主義社会の投票者は
自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、
自分より優越した人を選挙で支持しようとしている訳ではない。

従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは
魅力のあるものではない。
政治家になれば、自分の独立を失うし、
人前で品のない振る舞いをしなければならないこともある。
従って、人々は政治家というキャリアを避ける。

私の目から見ると普通選挙を実施すれば
優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想である。

しかも、国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。
公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。
しかし、大部分の国民は自分の生活を支えるための労働をすることで
精一杯で、彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と
経済的な余裕などない。
そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。
そしてそのような人たちは一般の庶民ではない。
従って大部分の国民は本当の政策理解力をもてないまま、
表面的な印象に左右されて投票している。
そして、口のうまい詐欺師的な政治屋たちは
そのような国民を操るテクニックを身につけている。
そのため、質の低い人物が選挙で多数当選するのである。』

彼は、優秀な人は政治家になりたがらないし、
マスコミは人の悪口ばかり言っているし教育レベルは
引くくだらない連中だし、国民は国民で、一握りの人を除けば
公共政策をじっくり勉強する時間的、経済的余裕はない。
投票者も政治家になる人もマスコミもろくなもんではない、
と指摘している。
それなのにどうして普通選挙をやると質のよい政治指導者がでてくるのか、と指摘している。
これは、トクヴィルが1835年に言ったことだが、
今でもどこの国においても100%正しいと思う。


■最後に、民主主義と平等主義はマテリアリズムを強化して学問と芸術まで軽劣化させていくと。
 
『民主主義体制下のもとでは、人々は目先の利益の獲得に執着する。
彼らは、自分の置かれた境遇に不満を抱いており、
どうしたら私はもっとよい生活ができるかと言うことばかり考えている。
富と快楽の増大が
彼らにとってこの世で最も素晴らしいことのように思える。
自由主義と民主主義は
多数の自己利益増大主義者を生み出す。
知的精神的に高尚な価値判断、価値規範を説く者は
これら自己利益のチャンピオンに踏み潰されてしまう。
民主主義において社会の進歩はマテリアリスト
(物質主義、経済利益優先主義、拝金主義)的な
基準によってのみ計られるようになる。』

『マテリアリストの基準によってのみ社会が
進歩しているかどうかが計られる。

公徳(Public Vertue)や公正(Public fairness)というコンセプトは
空洞化していく。
経済的な繁栄の追求は徳のある生き方とは無関係なものになる。
そして人々は競争に勝つ、もしくは成功することが生きる目的となる。
このような生き方によって人間は獣化していく。』
と彼は言っている。

しかも、もっとすごいのは、
『マテリアリズムは精神の病である。
マテリアリズムという病気は人間に内在している利己心という欠陥と
すばらしい共存共栄関係にある。
物質的肉体的な快楽主義を増強させて、文明を劣化させていく。
民主主義体制では文学も劣化していく。
作家は、大量に著作を売って金儲けすることを目指すようになり、
大衆受けする文章を書きまくる。
アリストクラシー社会の文学は少数の読者を喜ばせるために洗練された
スタイルで高貴な理想を描いた。
当時の文学は金儲けとは無縁の行為であった。
しかし、現在の民主社会の文学は単なる商売に過ぎない。』

彼が言うには、
『しかも民主主義は言語そのものを変えてしまった。
民主主義社会の圧倒的な多数波は学問や哲学には興味がない。
彼らは商売と政治に関心をもっている。
従って言語はこの多数派の好みを満足させる形に変化していって、
形而上学や神学、哲学は廃れていく。
言語は決められたスタイルを失い、洗練と下品が
無秩序に混在するようになる。
そして、言語も社会も泥沼状態になっていくのだ。』と。

これはトクヴィルの
「マテリアリズムが文明の理解を破壊していく」という議論です。
トクヴィルは19世紀はフランスでもギリシャ・ラテンの古典を読むことが
はやらなくなったが、19世紀になってもギリシャとラテンの古典を
学習することが民主主義に内在している数々の欠陥に対抗するために
最も効果的な方法である』と指摘している。

『古典をじっくり学ぶことが金銭欲にまみれた社会に、
非常に洗練されて非常に危険な市民を生み出すからである。』

Polished and dengerous person(洗練された危険な人物)が
民主社会には必要という趣旨だが、
これはトクヴィル自身ではないかと思える。

啓蒙主義思想の言論の自由と表現の自由、報道の自由があれば
それによって国民は啓蒙されて、すばらしい政治指導者を生み出す
というのは100%嘘で、妄想に過ぎないと指摘している。
このようなことを19世紀に言うのは非常に危険だが、
さらってと述べている。
彼自身が非常に洗練されていて危険な人物そのものだからだと思う。
それを自覚していたと思う。

トクヴィルはこういう啓蒙思想の自由主義、民主主義、平等主義を
実践すれば国民の質は向上し、文明もよくなっていくだろう、
人間の暮らしも政治もよくなっていくだろうというということに対して、
彼の800頁の本のなかで、いろいろな欠点を非常に明瞭に説明して見せて、それは無理に決まっていると証明した。

最後に彼がどう書いているかというと、
やっぱり民主主義の劣化、低劣化、堕落、
最終的には崩壊していくわけだが、

それがどんどん悪くなっていくのを食い止めるのは、
やはり宗教心を復活させなければダメだと


トクヴィルは言っている。

トクヴィルとキリスト教の関係は非常に複雑で、
彼は16~17歳まで熱心なキリスト教徒だったが、
17歳の頃哲学書をたくさん読んで、キリスト教の教義には
フィクションに過ぎないものが多いと悟った。

一時的に少年時代にキリスト教の信仰を失う。
一生涯彼はキリスト教の教義に対して疑問を持っていた。
なので、キリスト教の考え方をすべて肯定する立場には戻らなかったが、
しかし、3・4世紀から14、15世紀までヨーロッパ文明の基盤となったのは、キリスト教的な人間観とキリスト教的な世界観である。
 
キリスト教の教義に疑いを抱くようになったトクヴィルではあるが、
キリスト今日的な人間観と世界観を捨てたら大変なことになる
と考えていた。

これを捨てると人間はますます悪くなる、と悟った。
キリスト教の教義に失望した後も、キリスト教的な人生観、世界観を
捨ててはいけないと考え、言い続けていた。

彼によれば、神もしくは究極の真善美という概念を持たない限り、
人間は価値判断の基準を持てない。
なぜならば、人間はみんな目先の利益、虚栄心とか欲を満たすために
生きているが、目先の利益、権力を求めるために
他の人と争うことしかできなくなる。
そうするとそれが、目先の競争に勝つことが
人間の価値判断の基準になるかというとそれはならない。

それは本当の永続性をもつ価値判断の基準にはならない。
だからトクヴィルは神もしくは究極の真善美というようなコンセプトを
維持しない限り、人間は価値判断の基盤となるものを持てない、
ということを指摘した。

彼が言うには、
『神に関するアイディアが明確でないのなら、
人間が生きる意味と目的そして、義務の観念も曖昧になってしまう。
その結果人間は懐疑心にとりつかれて動揺し、無責任になったり、
臆病になったり、無思考状態になったりする。
神の概念、つまり、人間の利害を超えた崇高なもの、
こそ人間にとって最も重要なことである。
しかしながら、この概念は人間にとって最も困難な概念であり、
人間の理性をもっても答えが出てこない問題である。』

トクヴィルは、
神に対する信仰、尊敬心、神の視点からの判断を大切に思っていたが、
しかし、理性というもので、神の存在が証明できるかというと
それはできない。
ただし、神が存在しないということも証明できない。
人間の目先の利害打算を超えた、勝ち負けを超えた超越的な価値(Transcendental Value)というものが存在するか否かも
人間の理性を使っては肯定も否定もできない。

だから彼は、これが人間にとって最も重要なことであるが、
もっとも困難であり、
しかも理性を使ってもイエスかノーかという答えが出てこない。
科学的な実証主義を使っても答えは出ない、
と指摘している。

例えば、パスカルは有名な数学者、物理学者だったが
彼は神の存在を信じた。
最近ではホワイトヘッドという有名な数学者も信じていたし、
アインシュタインも神の存在を肯定していた。
有名な数学者、物理学者にも神の存在を信じている人もいる。
自然科学の実証主義を使っても答えが出てこない。
トクヴィルによると、神はいるかいないか、
神の基準からみると別に見えるという思考が可能かどうかは、
理性によっては答えが出ない問題。
つまりBrain/頭脳を使って判断するか、
霊魂か精神(人間のSoul or spirit )によって直感するしかない、
と考えていた。

Intuition(直感)を肯定するか否定するかによって立場が変わってくる。
スピノザ、ライプニッツ、パスカル、アインシュタインといった科学者は
肯定していた。
頭のいい人は宗教を信じないが頭の悪いやつが信じている
と言うことは言えない。

最終的には民主主義、自由主義、平等主義の欠陥を
本当に是正しようとするならば、
トクヴィルは、神の存在というものをもう一度考え直して、
信じる必要があると、
また、魂の存在を信じるべきであると言っている。

彼は、
『宗教心を失った近代人がマテリアリズムや快楽主義といった罠に
はまっていくなら、自由主義、平等主義、民主主義を実行しても
社会はいずれ、道徳的な麻痺状態に陥っていくであろう。
宗教を失った民主主義は価値判断力を失って不安定で無秩序になる。
従って社会に古くからある宗教を慌てて捨てない方がよい。
宗教を慌てて捨てて、新思想を注入してもろくな結果にはならない。
人々は心の空洞を埋めるために、快楽主義に飛びつくであろう』、
と言っている。

最終的には神学論争的にはなるが、
宗教心をもつことが民主主義、進歩主義、平等主義、自由主義による
人間の腐敗、堕落、文明の劣化に対抗するためにも、
そういう考えを持たなければいけない、ということ。

アメリカは少なくとも1950年代までは
キリスト教的な価値判断が正しいというのが一般的な世論だったが、
1960年代からすでに60年間キリスト教的な価値判断は
笑いものになってきた。

特に大学の教授とかマスコミはキリスト教的な価値判断を嘲笑して
ポリコレとかフェミニズムとかgender equolityかwokenessとか
新しい思想を持ち込み、お互いに喧嘩ばかりしている。
今のアメリカでは社会的なこと政治的なことについて
まともな討論がなりたたない。
共通の価値規範とか文明観を失った国民はお互いに罵るだけで
まともな議論にならない。
トクヴィルも言ったように、慌てて古くからある宗教を捨てて
新思想を注入するとろくでもないことになる、
というのはほんとにほんと!

アメリカの今の価値判断の錯乱状態=キャンセルカルチャー、
(おまえの話は聞きたくない、あんたの意見に耳を傾けるつもりはない)
では、民主主義は成り立たない。
アメリカはここまで来ている。
私はアメリカのこの状態をみるたびにトクヴィル先生は正しかった、
180年前に今のアメリカがこういう状態になることが
すでにわかっていたのだとつくずく思う。

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