「めんどくさい」=「やりたくない」ではない
割引あり
僕らはどんなときに「めんどくさい」と感じるのだろうか。
家でくつろいでいるときに、家族に用事を頼まれたとき。
洗濯をするときに縁の汚れが目に入り、「そろそろ洗濯槽クリーナーもやらないとな……」という思いが過ぎったとき。
せっかくの休日なのに、出かける予定をいれてしまった日の朝。
元々やろうと思っていたことを、誰かに「やれ」と促されてしまったとき。
朝に目覚ましで起きるときのしんどさも「めんどくさい」の仲間だろう。
僕らはもよおしたときにすぐトイレに向かうこともあれば、少し我慢することもある。たとえば会話が盛り上がっているとき、ゲームに夢中になっているとき、執筆がはかどっているときなどがそうだ。この生理現象を我慢させる力も「めんどくさい」と無関係ではなさそうだ。
「めんどくさい」は「やらなくてはならないこと」とセットだ。何もやることがなければ、「退屈だ」と感じることはあっても「めんどくさい」とは感じない。
この世界に「何もない空間」が存在しないように、僕らに「何もしていない」時間は存在しない。だから何かをしようとすると、必ずいまやっていることを中断しなければならない
僕らはトイレに行きたくないわけではない。せっかく盛り上がっている会話に水を差したくないのだ。ゲームを、執筆を中断したくないのだ。
どうやら「めんどくさい」には、
「これからやろうとしていることがやりたくない」ときと、
「今やっていることを中断したくない」ときの二種類があるらしい。
あるいはこれらが混合しているときもあるだろう。特に「今やっていることを中断したくない」という欲求は、僕らが思っている以上に強い。
読みたい本がたくさんあります。