『日常を眺めて』2通目by kenken まともな日常
Χさん、記念すべき1通目をありがとうございます。
返答になっているのか正直不安ですが、Χさんの胸を借りるつもりで(?)、思いつくままに書いてみてみます。
カフェにて
昨日、初めて行ったカフェに入るとき、入口のドアノブに「PU」と書いてあるのが目に入りました。本当は「PUSH」か「PULL」であったはずの文字列が、何度もノブに手がかけられるうちに、あるいは風雨にさらされて、部分的に擦り落とされてしまったのでしょう。そして、「SH」か「LL」だったであろう2文字を消したのが人の手だとしたら、ノブの形状からしてそれはPULLよりPUSHする手だろうと推測しました。
不意に提示された小さな謎に対して、ここまでの思考の流れに満足しながらノブに手を伸ばしてみると、正解はPULLの方でした。
また別の日、別のカフェにて。
こちらには何度か通っていて、お店の方にいろいろと教えてもらううちに、自分の好みがわかってきました。このカフェでは、El Paraisoというコロンビアの農園の豆について、特徴に応じてLychee、Lime、Red Plumという3種類のメニューを出していて、中でもLycheeが気に入りました。心地よい複雑さと奥行きが感じられる味わいで、たしかにどこかライチを思わせる。
この日も迷わずそれを注文して、窓際の席につきました。しばらくしてお店の方が淹れたてのコーヒーを運んできたとき、「このロットはライチよりもココナッツやドライストロベリーのような味わいが特徴です。」とにこやかに話してくれました。それを聞いた瞬間、「ライチとココナッツの風味の関係は?どのように似て/異なっているのだろう?」「ドライストロベリーってどんな香り/味だろう?ドライでないストロベリーとは違うのだろうか?」といった疑問が湧いてきました。それらに気を取られながら一口目を飲んでしまって出てきた感想は、「いつもよりぬるい気がする」でした。
ライチはどこに行ってしまったのか、という小さな喪失感。同時に、自分は運ばれてきたコーヒーそのものを味わうことを置き去りにして、「ライチ」を求めていたのだという反省が浮かんできました。カフェでコーヒーを飲むとき、わたしたちはいったい何を味わっている(体験している)のだろうか。
・・・
どちらも、日常の中のささやかな出来事です。
そういうものに気を留め、反応する。小さな体験を愛でる。その繰り返し、連なり。人類学者のティム・インゴルドは、世界とのこのようなかかわり方を"correspondence"と呼んでいます。(「ライチ」の方は、むしろcorrespondenceの欠如、失敗という方が正しいかもしれません。)
Transdisciplinary Designへの留学以来、自分の中でずっと継続していること、少なくともそうしようと意識し続けていることがあるとすれば、それは「correspondenceの実践」です。
その実践のひとつとして、Χさんが留学時代から積み上げている「書く」ということの重要性を、ぼくは最近になってようやく実感し、noteを始めることにしました。
インゴルドは、correspondenceは文通のようなものでもあるとも語っています。そういう意味でも、Χさんとこのような形で文通を始められたことをとても嬉しく思います。
取り上げていただいたJohnの「共に生きるデザイン」も、とてもcorrespondence的ですよね。
”correspondence”とTransdisciplinary Design
でも、なぜcorrespondenceがぼくにとってそれほど重要なのか。まだうまく言葉にすることができません。(それこそ、Χさんの留学時代からコツコツ書き続けていたら、そうではなかったかもしれない、とも思います。)
インゴルド自身も、いろいろな表現や実例を持ち出して、correspondenceを語っています。ひとつ言えるのは、このような、端的にこれと定義できないような概念、多義的であったり、文脈依存的であったり、「である」と「でない」の境界が曖昧であったりするものに、ぼくは強く惹かれるということです。
そしてこのことがまさに、ぼくがTransdisciplinary Designというプログラムを選んだ大きな理由だと思います。
プログラムの創設者であり、文化人類学をバックグラウンドに持つ、われらがJamer Hunt。彼の授業でブログ記事(エッセイ)を3本書く、という課題がありましたね。その1本目としてぼくは、TDにはネガティブ・ケイパビリティ、それも集合的な(集団としての)ネガティブ・ケイパビリティが必要なのかもしれない、というようなことを書きました。その記事への「応答」としてJamerがくれたメールを、今でも大切にしています。
こんなふうに、留学の後日譚でありつつ回顧録でもあるような文通ができたらいいなと思っています。
ぼくの方は、何を書いても今回のようにcorrespondenceの話になってしまうような気がしています。これを書いているのも、インゴルドの講演を聴きに金沢に向かう新幹線の中です。講演に向けて、インゴルドの著作を読みふけり、いちばん気に入っている過去の講演動画を繰り返し聴いています。correspondenceについては、4冊で触れられていることのエッセンスがこの動画に詰まっていると思っています。「科学と宗教」について思索を深めているΧさんが、この中でインゴルドが語る「科学と芸術」についてどのような感想を持つのか聞いてみたいと思いました。
Lines: A Brief History (2007)
Being Alive (2011)
Making (2013)
The Life of Lines (2015)
The Art of Paying Attention (2017)【講演】
(括弧内は原著の出版年)
まともな日常
最後に、「日常」についてもう少し。
僕はΧさんから「日常を眺めて」というタイトルをもらったとき、すぐにBUMP OF CHICKENの『ギルド』という曲を思い浮かべました。
これがその歌詞の一部ですが、2022年のライブでは★の部分が次のようにアレンジされて歌われました。
もともとこの曲には強い思い入れがあるのですが、このライブ音源を聴いて、この歌詞の再解釈(再構築)には心を打たれました。
何か具体的な問いかけがあるわけではないのですが、なんとなく共有したくなりました。
(ちなみに、この記事のカバー写真は、つい先日、以前住んでいたアパートの前を久々に通りかかったときのものです。白い塀の前に、なぜか長ネギとナス。止んだばかりの雨に濡れていることで、この状況に不思議な説得力が生まれているように感じました。)