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科学と聖書にまつわる随想(18)

「別の命」

 一般に、今どきの自動車は、エンジンやブレーキ、ステアリング、トランスミッションなどの様々な機能は全て、それぞれマイクロコンピュータを搭載したECU(Electronic Control Unit)によって電子制御されており、各ECUはCAN(Controller Area Network)と呼ばれるネットワークでお互いに繋がれて通信を行いながら自動車全体の動作をコントロールしています。私たちが車を運転する時、何気なしにアクセルやブレーキを踏みハンドルを回して、自分で車を運転しているように思っていますが、実際にはその裏で数10個のECUたちが働いて車を動かしているのです。車を運転される方ならお分かりになると思いますが、例えば、ハンドルを切ってタイヤの向きを変えるにしても、パワーステアリングが働いていないとハンドルが重くて仕方がないことや、トランスミッションにしても、オートマチック車に慣れてしまうとマニュアルミッションの車はクラッチやギヤの切り替えの操作が面倒臭くなる、ということを思えばこのことは理解できるでしょう。つまり、ドライバーが普段は意識しないところで、裏できちんと統率のとれた機能が働いていて、実際にはそのお蔭で車が運転できている、という訳です。

 私たちの体もこれとよく似ていると思います。私たちの体には自律神経があって、自分では意識しないところで体の各部の動きを統率してくれています。最も重要である生命を維持するための機能にしても、私たちはいちいち意識して心臓を動かしている訳ではありません。自分の意志で心臓を動かしたり止めたりすることはできません。呼吸は意識して吸ったり吐いたりはできますが、眠っている間でも息はしているように、意識しなくても自然にその動作は実行され続けます。食べ物や飲み物を飲み込んだ時には、喉頭蓋(こうとうがい)と呼ばれるフタが自動的に動いて気管の入り口を塞ぎ、飲み込んだものが肺の方へ行かずに食道にきちんと入るようにしてくれています。食べ物が胃に入ると自動的に胃液が分泌され、蠕動運動(ぜんどううんどう)をすることで消化が促進され、食べ物を腸の方へ送り出して行きます。そのほか、体の各器官は私たちが意識しなくても自動的に統率の取れた働きをしてくれています。

 私たちは自分の力で生きているように思っていますが、よくよく考えてみれば全くそんなことはなく、自分で車を運転しているどころか、むしろ言わば、自動運転で動く車にお客さんとして乗せてもらっているのに近いのではないか、とも思います。数多くのECUを繋ぐCANのネットワークは、まるで体内に張り巡らされた神経系統のようです。目の前に物が近づくと思わず“まばたき”をしたり、眩しい光を浴びるとおもわず目をつぶったり、異物を吸い込むとクシャミや咳をして外へ出そうとするなどの、いわゆる反射動作は、この自動運転車に搭載されている安全装備のようなものと言えるのではないでしょうか。私たちの肉体は、生きているしばらくの間、乗せてもらっている“借り物”に過ぎない、と思わされます。

 あたかも、自分という意識のある命とは別の無意識で働く命とが、同じ一つの体に共存している状態にあるかのようです。別の命といっても、自動運車には“人格”がある訳ではありません。しかし、主イエス・キリストを信じるならば、主は私たちと共にいてくださる(インマヌエル)ことを聖書は述べています。

 「あしあと」という有名な詩があります。元は“Footprints”という英語の詩ですが、おおよそ次のような内容です。
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「ある時私は夢を見た。
これまでの人生の歩みを振り返ってみると、そこには二人分の足跡が並んで続いていた。『そうか、主はいつも私と共に歩んでくださっていたのだ。』と感慨深く、感謝が溢れてきた。
しかし、足跡を辿ってよく見ると、あるところで足跡が一人分しか残っていないところがあった。振り返って考えてみると、それは自分が人生で最も辛く悲しい体験をした時期のものだった。それで私は主に訴えて尋ねた。
『イエス様。あなたはずっと私と共に歩んでくださっていたのに、どうして私が一番辛く悲しかった時に一緒にいてくださらなかったのですか?』
すると、主は答えられた。
『いや、子よ、わたしはいつもあなたと共にいたのだよ。残っている足跡は、あなたのものではなく、その時、わたしがあなたを背負って歩いていた、わたしの足跡なのだよ。』」

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旧約聖書のイザヤ書にある次の御言葉を思い起こします。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」

(イザヤ書46:4 )

また、使徒パウロは次のように手紙に記しています。

「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

(ローマ人への手紙8:10, 11 )

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」

(コリント人への手紙第一6:19 )


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