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科学と聖書にまつわる随想(29)

「虚数と複素数」

 高校数学で習う最も重要な概念の一つに、“虚数”と、そこから派生発展してできる“複素数”があります。虚数とは、自乗(2乗)すると符合が負になる数のことです。実際には、正(+)の数は自乗したらもちろん正ですし、負(-)の数も、負×負は正ですから、自乗したらやっぱり正になります。ですから、自乗して負になる数は現実としては存在しないのです。しかし、そういうものがあったとしたらどうなるか、ということを想像することはできます。つまり、概念としては存在できるのです。

 “虚数”に対して、通常の数のことを“実数”と呼びます。実数の単位はもちろん 1 です。実数の値は、その大きさが 1 の何倍かということを表しています。これに対して、虚数の単位を、imaginary の頭文字をとって“$${i}$$”で表します。 虚数の大きさ(絶対値)は、それが虚数単位$${i}$$の何倍かということです。$${i^2=-1}$$です。また、例えば、

$$
(2i)^2 = 2^2 \times i^2 = -4
$$

になります。
 ちなみに、電気工学・電子工学の分野では、$${i}$$は電流を表す記号として使われますので、虚数単位には$${j}$$を使います。

 実数と虚数の和として表されるのが“複素数(complex number)”です。実数の単位1と虚数の単位$${i}$$という複数の単位(素)を持つのでそう呼ばれます。実数部が$${a}$$で虚数部が$${b}$$の複素数$${c}$$は、

$$
c = a + bi
$$

と表されます。これは図形的には、実数部を横軸、虚数部を縦軸とするグラフ(複素平面)上の一点で表されます。

複素平面

この点とグラフの原点との距離が複素数$${c}$$の大きさ(絶対値)で、原点とこの点を結ぶ線と実数軸の間の角度を複素数$${c}$$の偏角といいます(図の$${\theta}$$で、位相角とも呼びます)。


複素数の掛け算(大きさは掛け算・偏角は足し算)

 図に示したように、2つの複素数を掛け算すると、絶対値(大きさ)はそれぞれの掛け算、偏角はそれぞれの足し算になります。虚数単位$${i}$$は絶対値が1、偏角が90°ですから、自乗すると大きさは変わらず、偏角が180°になるので、$${-1}$$になることが分かると思います。

i の2乗は-1

 二次方程式やその解の公式は中学校で習いますが、方程式が実数解を持たない場合についても話を広げて一般的に解を表すには、複素数の概念を導入することが不可欠になります。二次方程式にとどまらずに、数学や物理学に限らず全ての学問分野において、複素数は極めて重要な役割をする無くてはならない概念です。

 虚数は“imaginary number”ですから、言わば架空の存在です。実数に虚数をくっつけるということは、言うなれば、本当の話にウソの話を尾ヒレとして付けるようなものです。しかし、そうすることによって、本当の話だけでは表し切れないことも表現できるようになる、ということなのです。小説にしても、テレビのドラマにしても、よく「これはフィクションです」といった断り書きが出るように、全て作り話です。本当の話では無い訳ですから、言わばウソです。たとえ話という言い方もできるでしょう。しかし、それによって直接的には表現の難しいような人の心の機微や葛藤、感情の動き、生きるヒント、さらには社会問題の指摘など、様々な事柄を、より効果的に表現することができる訳です。

 聖書の中にもたとえ話がたくさん出てきます。特に、イエス・キリストはたとえ話を多く用いて語られました。

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」

(マタイの福音書13:13 )

「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。」

(マタイの福音書13:34 )

 たとえ話でしか表現することができないということは、現実のこの世の常識では理解することができないものを、イエス・キリストは持っておられた、ということの証しと言えるでしょう。ただし、主イエス・キリストが持っておられたのは、虚数のように架空の概念上だけの存在のものではありません。

「これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」

(イザヤ書66:2 )

「主はモーセに答えられた。『この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。』」

(民数記11:23 )


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