冷夏の大森にて
入新井公園から少年達の声が聞こえてくる。小学校低学年ぐらいの年齢と思われる。
そのうちの一人が、「昨日のNHKの番組で見た恐竜の大きさ」について、周囲に尋ねる。何度も執拗に繰り返し大声で尋ねる。
恐竜について話すことではなく、入手したばかりの自らの新知識を誇示することが目的なのだ。
ああ、ここに科学少年がいる。博士がいる。漲るエナジー。肥大化した自意識。強固な自我。自己顕示。博士である。この年齢にして、この少年は既に博士となっている。
それにしても、七月に入ってから雨天と曇天ばかりが交互に続いている。まともに晴れた日が、一日も無いのではないか。日照時間が異様なまでに少ない。連日異常に肌寒く、この一週間はとても夏とは思えない。
公園の中央には盆踊りの際に用いられるのであろう、矢倉の骨格が設置されている。夏祭りはまだ大分先のことだと思うが、準備の良いことだ。
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急に入った仕事で大森に二日間通うことになったと松岡さんに伝えると、「ルアン」という喫茶店が良いと勧められた。検索するまでもなく、通勤途中で発見する。革のソファの座り心地がとても良い。落ち着いた内装で、空間全体が、重厚なマルーンで暖かく包まれているように感じられる。
店内に流れているのはバロック音楽だろうか? 鍵盤楽器のようだが、ピアノとは明らかに音質が異なる。オルガンか、チェンバロか? クラシック音楽に関する基本的な教養が欠如しているので正確なことは分らない。
かつて松岡さんは、大森からバスに乗って文学フリマに向かったという。文学フリマ、いわゆる文フリの会場である流通センターは、この街から見ると東京湾の方角にある。最寄駅は、東京モノレールの「流通センター」駅だ。施設名がそのまま駅名となっている。
運河と埋立地を経由して都心から空港までを結ぶモノレールは、この街を走る京浜東北線とほぼ平行して走っている。乗換のために浜松町や大森を経由すると著しく北に遠回りになり、時間も交通費も必要以上にかかる。直線距離で目的地に向かう交通手段として、バスが選択肢に入るのだという。
途中で京浜急行と交差して海の方向へ向かうそのバスの車内は、平和島の競艇場を目指す壮年以上の男性客ばかりだったと、松岡さんは教えてくれた。平和島には競艇場のみならず、ボートレースを観賞する専用の映画施設まであるのだという。自主制作したオリジナルのCDや詩集の売れ行きが余り芳しくなかった文フリの帰路にこの店に立ち寄り、静かに苦い珈琲を飲んで内省に沈んだ夕刻があったと言っていた。
サイフォンから注がれたブレンドコーヒーが卓上に置かれる。
スマホで撮影する。カップから立ち上る湯気を、静止画では写すことは出来ない。動画ならば出来る。何故ならば、蒸気とは動きそのもののことだからだ。
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