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【小笠原滞在記】2.父島のドルフィンスイムとホエールウォッチング

 父島滞在三日目は海のアクティビティだ。出発前に海パンに着替え、上着はウインドブレーカー、ズボンには撥水性のスウェットを着用する。宿の亭主の車で、集合場所まで送ってもらう。二見港近くの、青灯台だ。
 小舟が停泊している小さな桟橋があり、幾つかのグループが既に集まっている。自分のツアー会社のグループはどれか? すぐに見つかる。昨日の森ツアーの時に同行していた、松葉杖の女性の姿が目印になってくれた。
 今日の海ツアーに同行するのは、小型船の船長と女性ガイドの二人。観光バスの運転手と、バスガイドのようなコンビだ。船長は日に焼けた痩身の男で、長髪を海風にたなびかせている。精悍な顔つきがいかにも海の男といった相貌だ。女性ガイドは茶髪で、やはり日に焼けている。常に声を張り、ツアー参加者に注意事項を説明している。
 この海ツアーでは、午前中にドルフィンスイムを予定している。イルカの群れに船で接近し、シュノーケリング装備一式を装着して飛び込み、一緒に泳いだり写真を撮ったりするアクティビティだ。無謀にも、自分も挑戦する予定でいる。
 参加者には、シュノーケルと足ヒレ、ウェットスーツが配布される。スーツは今すぐに着用しろと言われたので、そうする。ラバー製の全身スーツで、暖かい。スーツ自体に保温力と浮力があり、これを着ておけば溺れることは無いという装備品だ。但し陸上における素早さ、身のこなしは著しく下がる。着脱に非常に手間がかかり、従って用便には時間がかかる。
 
 乗船する。ドルフィンスイムに参加しない乗船者には、救命胴衣の着用が指示される。この女性ガイド自身は、セパレートの水着を着用している。小柄で美人だが、明らかに体育会系、軍隊系の厳しい口調でハッパをかけ、指示を出す。船内のことを取り仕切り、乗客の人命を預かる立場にあるのだから、当然のことだろう。
 カッと見開かれた瞳孔と終始高いそのテンションは、かつての巨人軍の野手、元ベイスターズの監督、中畑清を思い起こさせる。もしくは、水泳選手の北島康介に似ている。とにかくエネルギッシュに、精力的に動き回っている。ゼッコウチョウ! チョウキモチイイ!!
 今日の午前はあいにくの雨天だ。海面は重く黒くうねっている。イメージしていた、南国の明るい海とは程遠い。風も吹き、波は高く、船は大きく揺れる。時に波に大きく押し上げられ、浮遊感を感じた後、落下し衝撃が走る。「今日のツアーはスプラッシュマウンテン状態が続きます」と、ガイドがアナウンスする。
 ドルフィンスイムの機会を探しつつ、船は父島の西側の海を南へ移動する。観光船同士で、イルカの群れや鯨の情報を、常に無線で交換しているという。自然保護の必要上、イルカの群れに接近するのにもルールがあり、一つの群れに接近できる回数や、同時に接近できる船の数に制限が設けられているという。
 群れを発見する。ドルフィンスイム参加者は、予め舷側に腰掛けて待機し、船長の合図で一斉に海に飛び込むように指示される。飛び込む時は、なるべく船から離れた所に着水しろとのことだ。海面は不気味でいかにも冷たそうで、正直余り気が進まない。しかしここで怖気づいて尻込みしていては、高い旅費を払ってはるばると小笠原まで来た甲斐がない。
 合図が出る。勢い良く飛び込んだが、その後どう動けば良いのか、どの方向に進めば良いのか全く分からない。水泳の達人である女性ガイドが、どこかから声をかけてくれるのだが、どこに居るのか分からない。自分はシュノーケリングの経験が全く無いので、足ヒレ(フィン)の正しい使い方も知らない。とにかく出鱈目に泳ごうとして、その本来の字義通り足掻き続けるという体験になった。
 他の参加者はほとんどが、シュノーケリングもしくはスキューバダイビングの経験者のようであった。私と、もう一人の女性だけが、シュノーケリング初チャレンジの素人であった。その女性は最初の一回で疲弊してしまったようで、早々とウェットスーツを脱いで上着を着込み、次回以降は参加しなかった。
 私はとにかく挑戦し続け、全六回の全てに参加した。その時間のほとんどは、見当違いの場所を泳いでいただけで、成果があったとは言い難い。私が泳いでいる姿を船上から見たら、一人だけ明後日の方向でバシャバシャやってる、滑稽な奴が居るなぁと思えただろう。それでも二回ほど、海中を泳ぐイルカの姿を、自分の肉眼で見ることが出来た。二頭のイルカが自分の真下を通っていった。 
 
 ドルフィンスイムの後は、南島の上陸を目指す。南島は、ガイドが同伴しないと上陸出来ない島であり、また一日に上陸許可が出る人数に限りがあるという。今日のアクティビティに含まれているが、悪天候のため接岸できない可能性もあるという。船長が無線で確認を取っているが、他の船も皆、午前中は上陸を断念したと、連絡が入ったそうだ。
 果たして、上陸できない。船で近くを通りながら、ガイドの解説を聞く。地質学の用語が淀みなくスラスラと出てくる。立派なものだ。枕状溶岩についても、昨日の森ツアーで聞いたのと同じ内容を、話してくれる。
 実際にガイド本人も「私達海ガイドは、皆陸ガイドも出来ます」と言っており、誇らしげであった。その逆、陸ガイドが海ガイドと同じことが出来るかどうかについては、何も言わなかった。

 ゲートのような穴が空いて、向こう側が見える崖がある。船は、その至近距離まで近づく。「うちの社長が若い頃には、あの崖の上から海に飛び込むという度胸試しをやらされたらしいですよ」とのことだ。
 
 船は北に進路を戻し、父島の北側にある兄島や弟島の海域を目指す。途中、かなり大きなイルカの群れと遭遇する。絶好のシャッターチャンスで、皆カメラやスマホを構え、写真や動画を撮影している。自分もまたそうする。

 重くうねる暗色の海面に、イルカ達の背が浮かぶ。これが本当の群青なのかと思う。
 兄島の、小さな砂浜の沖合に停泊。船の上で昼食時間となり、ツアー参加者に弁当が配られる。雨が本格的に降り始める。寒い。船の上から時折水滴が落ちる。南の海でクルージングという気分にはなれない。

 昼食後、希望者は遊泳タイムとなる。午前中で皆疲れたのか、参加者はほとんどいない。自分はとにかく、高い旅費の元を取りたいというさもしい動機から、少しだけ遊泳をしてみる。流石に海中は透明で、何匹かの魚を直接観察できたが、とにかく流れが早く、常に必死になって水流に抵抗していないと、西に向かって流されてしまう。フィンを装着した足で、必死になってバタ足をして、その流れに抵抗する。父島と兄島の間は狭い海峡となっており、海流の流れが速いのだとガイドが説明してくれる。ガイド自身は水泳の達人なので、普通の水着姿で悠々と泳いでいる。

 船の周りを一周し、ラバースーツを脱ぐ。船上からも、魚達は観察できる。
 
 午後は父島、二見港に向かいながら、鯨の姿を探す。冬から春にかけてははザトウクジラのシーズンで、特に二月は最もその姿がよく見られるという。出産をした母鯨は、小笠原近海で子育てをするとのことだ。
 その母子連れの鯨を、しばしば雄の鯨が追尾するのだという。その鯨は父親ではなく、雌鯨を狙う、全くの赤の他人の雄だという。「人間に例えると、シングルマザーを付け狙う男のようなもので、かなりサイテーです」と、笑いを交えてその生態を解説してくれる。昨日の森ツアーの女性ガイドも、同じような説明をしていたと記憶する。
 鯨の姿を船長が見つけては、方角をアナウンスし、皆でカメラを向ける。人によっては、非常に巨大で高価そうなカメラを構えている。
 一度、ものすごい至近距離に浮かび上がり、その巨体が立てる波で船が大きく揺れる。正真正銘の鯨波だ。目と目が合うほどの近さであったが、マシントラブルで、その決定的な瞬間をイマイチ撮影できなかったのが、悔やまれる。 

 鯨達は、ある時は海面から跳躍してその姿を誇示し、またある時は尾びれを突き出して海面に叩きつける動作を何度も繰り返す。その音が私達の所まで聴こえる。船長とガイドが、その回数をカウントする。最高で28回連続であった。今日の鯨は、特にサービス精神旺盛だという。若い鯨は動きが活発で好奇心が強くて遊び好きなので、色んな動作を積極的に何度もやってくれることがあるとのことだった。

 また、親子二頭のコンビで、この動作を行ってくれる者も居る。
 船の揺れが大きいので、自分はここまで、常に屋根を支える支柱を固く握りながら、用心深く撮影を行っていたのだが、鯨達が見せてくれるダイナミックな饗宴にテンションが上がり、いつしかその臆病心を忘れる。
 女性ガイドは、屋根の支柱をジャングルジムのように掴み、舷側の上を俊敏かつ自由自在に動き回る。アスレチック能力も高い。前世もきっと船乗りで、帆船のマストによじ登ったりしていたのであろう。
 
 希少な体験をした。また、一年前の知床旅行を思い出し、不思議な気分になった。
 一年前の二月、自分は北海道の道東エリアを旅していた。オホーツク海の流氷は、二月がベストシーズンなので、それを見に網走から知床半島に向かったのである。網走では観光用の砕氷船に乗り、知床半島のウトロ地区では、流氷の上を歩くアクティビティに参加した。これは、ウトロでしか体験できないレアなアクティビティで、専用の全身ラバースーツを着用し、ガイドの引率に従い歩く。ラバースーツは浮力が強くて保温性が高く、流氷の割れた隙間に落ちても沈むことも凍えることも無い。氷点下のオホーツク海を泳ぐことが出来る。故意に流氷の割れ目に飛び込んで、記念写真を撮影したぐらいだった。
 流氷に覆われるオホーツク海も、鯨達が集う小笠原の海も、同じ日本という国の、同じ二月の風景なのだ。今日の今頃も、知床ウトロでは丁度午後の部の流氷ウォークをやっているだろう。そう思うと、日本の広さ、その自然の多様さを、改めて感じる。
 


 晴れてきた。船は順調に二見港に進む。参加者全員が滞りなく上陸し、今回のツアーは全てが無事に終了した。「海のレジャーの後は体が芯から冷えているので、なるべく早目に入浴し良く温まって下さい」とガイドがアナウンスする。自分はツアー会社に寄り、夜のツアーも追加で予約した後、村営バスで宿まで帰った。ガイドの注意に従い、すぐに風呂に入った。
 
 夕食時、オーナーや他の宿泊者と雑談をした。「今日は鯨はたくさん見られたが、南島に上陸出来なかったことだけが残念です」と報告すると、他のどの人も、やはり南島には上陸出来なかったと言う。他の人は、昨日や一昨日に海ツアーに参加したのだが、いずれも上陸許可は出なかったとのことだ。

 食堂のテレビのニュースが、東京都の天気予報を伝える。今週の東京都区部は記録的な暖冬だという。今我々が居る父島と、大して変わらない都内の平均気温を見て、皆で笑った。日経平均株価は上昇を続けていた。

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