【読書録】串田孫一『山のパンセ』(ヤマケイ文庫、2013)

 哲学者、詩人、登山家の串田孫一の山岳エッセイ集。「山のパンセ」Ⅰ~Ⅲまでを一冊に収めた完全版。随所に表れる内省的・省察的な記述からは、大正教養主義のもっとも良質な部分を感じ取れる。

 その時、霧の向うにあるものに期待をよせていることがどんなに辛いことかを知ります。霧の彼方にはすばらしい山があるはずだと思って自分を不幸にするよりも、今は感覚の一部分を自然にあずけてそれを特別に不自由なことと思わず、許された範囲のことを、許された力だけで考えるのを悦ぶことにしましょう。全部そろった絵具で絵をかくよりも、時には青とグレエだけで描く絵が自分に何かを発見させてくれるかも知れませんから。(「霧の彼方」、1956年5月)
 私は時々考えたこともある。祈りは無力の底から泡のように湧きあがることがあって、それが無形の願いとなってはじけた時に、心に改めて宿る一種の安心なのかも知れない。祈りは自分を救う知恵かも知れない。私は確かにそういう祈りによって自分が救われることを無意識にやっている。机の前でも、外を歩きながらも、病の床の中でも。(「朝の祈り」、1963年3月)

 登山家としての非情なストイシズムと、諦念が感じられる一節。

崇拝も礼賛も、人間の内面の問題としては貴重なのだが、それは山にとってはどうでもいいことである。山は人間の心をうけとめる用意がない。恐らくそれは永遠にない。従って山は人がどんなに賛美をしても憧れても、悦ぶことがない代りに、それを迷惑がることもない。……(「崇拝と礼賛」、1962年4月)

 一連のエッセイが書かれた時期は1950年代から60年代、高度経済成長が始まろうとする時期であり、まだ新幹線は開通していない。その時代における登山者の交通事情なども垣間見える。この時代でも、谷川岳の入口はやはり上越線のトンネル駅、土合駅だ。

 また、本書後半部においては、登山やスキーが次第に娯楽化・大衆化していく状況に対する戸惑いも述べられる。スキーに際してリフトを使うことにも、スキー場自体に対しても、串田は総じて批判的だ。スキーはあくまでも登山の一部分としてあるべきという考えを持っていたようだ。

​ たとえば上越線に乗って六日町あたりまで行くとする。水上あたりから、清水トンネルをはさんでスキー場が左右に次々とあるが、はっきりいえば実に貧相な姿である。特にリフトなどが立っているところでは、その斜面もいやにせまく感じられ、よくもまあこんなところでごたごたと滑れるものだと思う。それでも岩原くらいになると、あの三角形の斜面の緑がいかにもスキーにいいように見え、雪があったら……とその時のことを想い浮かべる。(「雪を待つ草原」1956年10月)
未知の土地に入って、未知のものを、極めて素朴な心で受けとめて行くためには、日が射し込めばカーテンを引いて、安楽な汽車の椅子によりかかりながら週刊誌を読みふけっていたのでは、その手がかりさえ得られるはずはない。(1960年5月「旅」)
最近の山登りは、他のスポーツの試合の気分にだいぶ似てきた。自分だけでなにくそと思う精神は非常に尊いもので、それがなければ山にも登れない。だが、他人にいいところを見せてやろうと思って自分の力を見失ったらこれはたまらない(「断想」1962年夏)。

  食べ物に関する記述はさほど多くない。(食べ物の話題が豊富な山岳エッセイの書き手は、やはり西丸震哉だろう。)

二年ほど前に、テレビで一週続けて山歩きの注意のようなことをした。……その中に、マシマロの串焼があった。マシマロを串にさしてあぶると大きくふくれておいしいのである。小さい時からの知り合いの村井さんは、それを私が知らなかったことを呆れておられた。(「山で食べること」1961年1月)

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