比較的幸福論
銭湯で何も考えずにゆったりする時間は、自身の精神の安定を担っている。そんな、銭湯のテレビでアフガニスタンの女性がタリバンにより表現の自由を奪われるという旨のニュースが放映されていた。取材を受けていたのは、元アフガニスタン女子サッカー代表の方だった。女性は、外出時顔を布で覆い隠し、就労や勉学に励むべきではないという偏ったイスラム教の解釈により苦しんでいた。
その時僕は、反射的にこの人よりは幸せになれる環境があるのだから自分はもっと幸せにならなければならないと思ってしまった。
しかし、自身の出した結論の違和感を無視することが出来ず考えた。僕は、昔から何かと比較してでしか自分の幸福や安心を得ることが出来なかった。銭湯にいる時に、この人自分よりイチモツが大きい、小さいなので一喜一憂したり辛いことが続いた時遠い国の貧困で苦しむ名前も知らない子供を想像しこの辛さも贅沢のひとつと解釈することで精神の安定を図っていた。
僕は自分の幸福度などを主観的に捉えれないような臆病な人間であることを受け入れた。自身の立ち位置を社会的な序列みたいな勝手に作り上げた価値のなかで、他人と比較して感情が昇り降りしていた。比較され僕の不安定な幸福の為の踏み台になったアフガニスタンの女性に申し訳ない気持ちになった。
何かと比較して得られる安心感や幸福は非常に不安定であり、過ごしている環境の中での立ち位置に依存すると思う。
「お金」「結婚」「出世」など万人が共通して持つ幸福観念のようなものから外れたところに安定した幸福があるとマツコ・デラックスさんが言っていたのを思い出す。
僕は比較的幸福論をそろそろ卒業しなければならない。誰かの不幸で得られる安心や誰かの幸福で打ちのめされる心は、社会が作り出した大きな偶像に近い価値観に振り回される要因になるので帰り道の排水溝辺りに捨てた。
元アフガニスタン女子サッカー代表の方、1度踏み台にしてしまい申し訳ありませんでした。これからは、踏み台としてではなく同じ高さで違う方向に歩くようにします。