#234 [視覚芸術] 女性や子供の肖像を中心に、印象派の一端を担った画家
第34週 第3日(水)視覚芸術「オーギュスト・ルノワール」
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365を読破しようという企画。
この本の概要についてはこちらを一読ください。
今日は視覚芸術「オーギュスト・ルノワール」です。
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本の要約
■オーギュスト・ルノワール(1841~1919)
ルノワールは仕立て屋の息子で、13歳のとき、扇を装飾したり陶器に花の絵を書いたりする仕事についた。1861年、美術学校エコール・デ・ボザールに入学した。1年後にスイス生まれのアカデミック画家シャルル・グレールのアトリエに入り、そこでのちに印象派となるクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジーユらと出会った。
1874年、第一回印象派展に参加して、印象派の一員になった。それから10年、印象派の考え方はルノワールのスタイルに大きな影響を与えた。
経済的な苦境から脱すると、ルノワールは各地を幅広く旅するようになり、1881年には北アフリカを訪れ、1882年からは長期に渡ってイタリアを旅した。イタリアでルノワールはラファエロや古典古代の彫刻に見られる古典主義を研究し、これをきっかけに印象派の主観的な芸術観に疑問を抱くようになった。
1894年にリウマチ性関節炎を発症して以降、次第に手足が効かなくなり、1910年には絵筆を手に縛り付けないと絵すら描けない状態だった。さらに1915年、息子で後に有名な映画監督となるジャンが、第一次世界大戦で重症を負い、直後にルノワールの妻が亡くなった。
こうした苦難の中でも、ルノワールは絵を描き続けた。
ルノワールの芸術家としての心構えは、次の示す彼の言葉に凝縮されている。
「神々の楽園としての地上世界。それを私は描きたいのだ」
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「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1878年)
ルノワールが35歳のときに描いた絵画作品。1877年の第3回印象派展に出品された作品でもある。この作品により、上流社会の人々から講演を受けるようになった。ルノワールの人生の転機ともいえる。