ユーゴスラビアについて叱られるほど簡単にまとめてみる
ずっと放置プレイだったエントリを、ようやく再ポストします。ユーゴスラビアの波乱の歴史を乱暴なまでに 分かりやすく整理してみよう、という試みです。
文体は軽いノリにしてますが気持ちは真面目です。あと本当に極端に単純化してるので、読んだ人もくれぐれも鵜呑みにしないように!
汎スラブ主義
さてさて、昔むかし「汎スラブ主義」という思想がありました。これは「世界中のスラブ人が一カ所に集まりましょう!」っていう考えとその運動のことです。
実際は世界中のスラブ人ってすごい数だから一カ所に集まるなんてことは不可能なんですが、そこはほらイデオロギーってやつ。当時の「ゲルマン主義」への対抗心ってのもあったみたいですね。
この汎スラブ主義を初めとするさまざまな民族問題が、ユーゴスラビア問題の根っこです。
はじまりは、セルビア王国。
東欧の歴史はもちろん相当古いのですが、ここでは第一次世界大戦からお話しします。
第一次世界大戦。皆さん、この大戦の発端って覚えてます?
そうそう、「サラエボ事件」。オーストリア帝国の皇太子がセルビア人青年に暗殺されちゃったってやつです。
「あ~そういえば習ったような。」と思った人も多いでしょう。ユーゴスラビアが位置するバルカン半島が当時「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたこととか、思い出しました?
この第一次世界大戦、実はオーストリア・ハンガリー帝国vsセルビア王国の戦いから始まったんです。セルビア王国は上で書いた汎スラブ主義を貫くべくスラブ民族で統一国家を作りたいのだけど、オーストリア・ハンガリー帝国がそれを許さないという構図。それ以外にも色々な背景があって、皇太子が殺されたことに怒った帝国がセルビア王国に宣戦布告し、さらにそれぞれの国に味方した国々がどんどん参戦して世界大戦に発展したというわけです。
ブーム到来
第一次世界大戦の結果、セルビア王国は甚大なダメージを受けました。ところがケガの功名というかなんというか、世の中が帝国主義の反省もあってか「民族のことは民族自身に決めさせてあげましょうや」的な雰囲気、いわゆる民族自決の波がやってきます。ベルサイユ条約でも民族自決の原則が盛り込まれ、汎スラブ主義実現の最大のチャンス到来です。
このチャンスを逃すものかと、それまでイスラム系やゲルマン系が支配してた帝国から南スラブ系の民族が独立し、ついにでっかい南スラブ人の国を作りあげました。
こうして、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアの4つの地域・民族が集まった 「ユーゴスラビア王国」が誕生します。(ユーゴ=南、スラビア=スラブという意味らしいです。)
身内の喧嘩
ところが、やっぱり同じ南スラブといっても細かく言えば別の民族。新しい国の首都は旧セルビア王国のベオグラードだし、国政の中心がほとんどセルビア人だし…といったセルビア優遇の体制に、最初は「南スラブ人の国家を作るぜっ」という夢に燃えていた他の民族もだんだん鬱憤がたまってき始めました。
こうして国内がだんだんキナ臭くなってきます。ついには国王が暗殺されたりしてさすがにこりゃマズイと思ったのか、政府は諸民族の中で一番の不満分子であるクロアチア人に対して大幅な自治権を認めました。「クロアチア自治州」の誕生です。
ところが、それでも収まらない人々がいました。「自治州なんてあまっちょろい、独立国だぁ!」という民族主義な方々です。
おりしも第二次世界大戦の真っ最中、そのどさぐさに紛れて、かどうかは分かりませんが、とにかくこの民族主義の過激な方々が当時イケイケだったドイツ軍を味方に付け、首尾よく独立国を作ってしまったのです。
ちなみにこのときのクロアチア側のセルビア人への攻撃はすさまじかったそうです。よっぽど恨み辛みがたまってたのでしょうね。
チトー政権の誕生
ドイツ軍の攻撃で大ダメージをくらいあやうく滅びそうになったユーゴスラビア王国ですが、最終的にはドイツ軍を追っ払うことができました。ただしそれを成し遂げたヒーローは国の正規軍ではなく、なんとチトー率いるゲリラ組織でした。
このとき、ユーゴスラビア王国の王様は情けないことに国外に逃亡していたのですが、反政府のチトー元帥が王様の帰国を許すはずもなく、そのまま自分で国を治めはじめてしまいました。国名もユーゴスラビア「王国」でなくてユーゴスラビア「連邦人民共和国」に変更、さらに後にユーゴスラビア「社会主義連邦共和国」としました。
(チトーはこのとき、クロアチアをユーゴに再び併合するのにも成功しています。)
多民族国家の限界
このときのユーゴスラビアは「連邦」というくらいなので、いくつかの共和国で成り立っていました。
北西から
スロベニア
クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
セルビア
モンテネグロ
マケドニア
の6つの共和国と、セルビア共和国内の
ヴォイヴォディナ
コソボ
の2つの自治州によって構成されていました。
チトーはこの難しい国をなんとかうまく統治していましたが、1980年にチトーが死去すると、各地で不満が一気に噴出し始めます。
民族主義の運動に加え地域による経済力の差が出始めてて、経済的に弱い地域では市場経済の導入に対する不満が、経済的に強い地域では社会主義に対する不満がありました。そしてクロアチアは相変わらずセルビア人勢力への不満がくすぶっていたのです。
こうしてユーゴスラビア紛争が本格化します。この紛争は、乱暴にまとめると「独立を目指す各民族vsユーゴスラビア連邦(≒セルビア共和国)」なのです。
泥沼の内戦
そしてついに1991年、クロアチアとスロベニアが独立を宣言します。
クロアチアはもう言わずもがなの反セルビアでしたし、スロベニアは連邦の中でもっとも西側にあって経済的にも豊かなわりには、共産主義の連邦国に引きずられて経済的に損をしているという思いが強くありました。
連邦はそんな2国の言い分を認めず、まずスロベニアに軍隊が侵攻。これは10日間という短期間で終結したのですが、クロアチアとの間では1995年まで激しい紛争=クロアチア紛争が繰り広げられました。
さらに1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言。ヨーロッパ最悪の紛争と言われる 「ボスニア紛争」が勃発します。
ボスニア紛争についてはこちらにすごく分かりやすく まとまっているのですが、乱暴に書いてしまうと、周辺の民族紛争の流れの中でボスニア国内でもクロアチア人、ムスリム人、セルビア人がそれぞれの主義主張を対立させて争い始め、それぞれを後方から支援する国があったので事態が泥沼化していったのです。
それぞれの立場は・・・
クロアチア人(人口の17%) … セルビア人支配のユーゴ連邦からボスニアを独立させたい派
ムスリム人(44%)… 独立はしたいが、クロアチア人とは宗教が違う派
セルビア人(33%) … ボスニア国内では少数派なので、なんとかボスニアから独立したい派
・・・とこんな具合で、決して広くない土地で凄惨な殺戮を繰り広げてしまいました。
内戦の終結とユーゴスラビア連邦の消滅
1995年、国連がクロアチアの独立を認める一方、クロアチア側は国内の一部をセルビア人居住区として分離してセルビア共和国へ併合することを認めるという形で合意。これによりクロアチア紛争は終結しました。
そしてボスニア紛争も、国土をクロアチア人・ムスリム人の国としての「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(首都サラエボ)」とセルビア人の国としての「スルプスカ共和国(首都バニャルカ)」に分離することで終結しました。
(この2つの国をあわせたボスニア・ヘルツェゴビナという連邦国家が現在も存在しています。)
さて、これまで全く話に出てこなかったマケドニアも独立紛争を経て1992年に独立していたので、この時点でユーゴスラビア連邦はセルビアとモンテネグロの2つとなりました。
そして2002年、ユーゴスラビア連邦はセルビア・モンテネグロという共同国家という形に変え、さらに2006年にモンテネグロが独立したことにより、セルビアも自動的に単一国家となり、ついにユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅したのでした。
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