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絶対に入ってはいけない。
人間にはコントロールできない生理的・本能的な領域がある。
そのサンクチュアリには自分以外の誰からの干渉も許されない。
しかし、そこに踏みこまざるをえない世界に不意に立ち入ってしまうことがある。そんな時あなたは何を考えるか。これはもはや一つのドキュメンタリーだ。
それは晩夏を迎え、秋の風が心地よく吹いたある十月の日のことだった。その夜、田舎に住んでいる僕と友人たちで都心部に出て飲みにいった。終電が早く、一層のことみんなでドミトリーに泊まることにした。二段ベッドがいくつも並んでいるような雑多な相部屋だ。でもそんなことは気にしない。先に荷物を置いて、セキュリティーボックスに貴重品を預けて、軽くなった身で街に繰り出した。
ここで友人の中の一人について軽く紹介しよう。今回の話の主役でもある。彼の名前はゲンジ。小学校からの幼馴染で誰よりも責任感が強く、学校では模範的な生徒だった。大人になっても一緒に遊ぶことが多く、彼の人の良さはいまだ健在である。
しかし彼には一つだけ大きな問題があった。
話を戻そう。居酒屋で昔話を肴にお酒を飲んだり、慣れないバーで米粒以下の社交性を振り絞ったりした。しかし今私が話したいのは、そんな田舎から出てきた若者たちの思い出話ではない。
最後の電車もなくなり、帰り道の手段がなくなった街。しかし以前としてにぎやかな繁華街の様相は変わらずだ。むしろここから盛り上がりのピークを迎えるのかもしれない。
その中で僕たちはドミトリーへ帰った。遊ぶのが下手な僕たちは深夜まで遊ぶ体力を考慮できないのだ。へとへとに疲れた僕たちはおのおののベッドに身体をあずけるやいなや、睡魔に襲われる。そうしてみな眠りにつくことが、できれば。。
そう、できれば、よかった。
唯一、僕だけが眠りにつくことができなかった。
その原因はその場にいてすぐにわかった。ゲンジだ。あの優しい頼れるリーダーのゲンジだ。
そしてゲンジが抱える問題の根源には、人間の本能という聖域に深く干渉する。たちまちその問題を解決しようと試みれば予期せぬ出来事が起きるかもしれないし、少なくとも良い結果を期待できる余地が全くない。そんな人間の本能というサンクチュアリに潜む魔獣が牙をむいて僕に襲いかかってきたのだ。
その正体は
いびきだ。
ゲンジのいびきだ。もう考えられないほどうるさい。デシベル計の針も振り切れるくらいの轟音なのだ。
肩透かしをくらったかもしれない。たかがいびきの問題か。いやそうではないその深層に眠る本人には制御できない問題なのだ。それを他人が指摘しても解決にはいたらないどころか、本人との関係性にまでひびがはいってしまう。これは、立ち入ってはいけない「サンクチュアリ」なのだ。
呼吸をするたびに轟音が部屋を包み込む。彼の中の魔獣が彼の知らないところで好き放題している。大きな唸りをあげて僕の鼓膜を激しく震わせる。
これは僕だけの問題で止まっていればよかった。迷惑をこうむっていたのはやはり、僕だけじゃなかった。他のお客さんも相部屋で、2段ベッドは薄い壁で仕切られている。ゲンジの隣に寝ていたお客さんが耐えかねて、壁を大きくたたいたのだ。
戦争が始まったと、私は思った。無知な隣人が入っていけないサンクチュアリに入ってしまった。こうして戦いに火蓋は切られたのだ。
とはいえ、当の本人は戦争の根源でありながらも戦火の中心にいるとは気づいていない。いびきの轟音と、壁を殴る衝撃音が絶え間なく鳴り続ける。まるで僕は戦場に潜入したジャーナリストのようだった。そんな状況で寝れるはずがない。(もう一人の友人はぐっすり寝ていた。)
あらぬことかいびきのリズムと僕の心臓の鼓動がシンクロしてしまっている。そして、夜が開けてしまった。結局僕は一睡もねれなかったのだ。
するとしばらくして、ゲンジのいびきが止んだ。彼が起きたのだ。これは由々しき事態だ。戦禍の中心にいることを彼は起きても気づいていない。この事実を一刻も早く伝えないといけない。彼が狙撃されるかもしれない。
しかしあくまで僕は「予期せず立ち入ってしまった」ジャーナリストであって、神聖な領域に干渉することはできないので、彼には伝えることができない。
そんな幻想とジレンマに囚われている中、彼は何かボソボソ言っている。機嫌が悪そうな彼にその理由を聞くと、こう言った。
「隣の人が壁を叩いてくるねん。」
僕は何も言えなかった。その理由を言いたかった。ごめんな、ゲンジ。サンクチュアリだからこそ入ってはいけないのだ。そこに口出ししても何も解決しない。もうここまで考えている僕は彼にいびきの話はできないのだ。なんでかって?何度も言う、サンクチュアリだからだよ!
そんなことを考えていると、あの温厚なゲンジが驚きの行動にでた。
壁を殴り返したのだ。
こうして戦火は一気に拡大した。拳と拳の乱打戦である。唯一の救いは壁というバリケードがあることだ。しかし、この戦況を見守るにはそれはあまりにも心もとなかった。
この戦火から逃げないと取り返しのつかないことになる。そうこの察して、僕たちはすぐにチェックアウトすることにした。
こうして戦争の当人を戦火から遠ざけることができた。この聖域にまつわるドキュメンタリーも終わりを迎えることになる。
そして最後に貴重品を預けていたセキュリティーボックスへ。
そこにはなんと
耳栓が入っていた。
一応言っておこう、耳栓は「騒音を防ぐアイテム」だ。もう少し丁寧に言おう。
「それがあればきっと、いびきをなかったことにできた。」
最後に耳栓を見てゲンジはこういった。
うわー、これ使ったらよかったぁー。
サンクチュアリを心の底から憎む。ごめんなゲンジ。
お前は何も悪くない。お前の中にいるやつが悪いんだ。
誰しも入ってはいけない領域がある。いびきのように、人がコントロールできない禁じられたもの。言ったところで解決しない。本能的な部分にはそんなジレンマが潜んでいる。それも数えきれないくらいに。
人間の本能には、そんな魑魅魍魎とした魔獣たちの巣窟がある。
絶対に立ち入るな。それとも勇敢な戦士にあなたはなれますか?
(プノンペニスト著)