先輩里親にしていただいたことを私も次へまわしたい。
#20240128-351
2024年1月28日(日)
「傾聴」についての本を読んだ。
冒頭に、傾聴の姿勢として「否定しない」「比較しない」「自分の話をしない」と述べられていた。
この本に書かれていることは、あくまで「傾聴」する場でのことであり、90分ほどの間に相手にどれだけ相手自身のことを語らせるか、その手立てが書いてあった。
だから、私がこれから綴ることは傾聴ではなく、「人との会話」に近いのだと思う。
とはいえ、この本を読んだことがきっかけで自分のことを振り返ったので書き残しておきたい。
私は人にあれこれ質問するのが苦手だ。
これは問いが浮かばないのではなく、尋ねたいことはたくさんあるのだが、相手に根掘り葉掘り深く踏み入っていいのだろうか、とためらってしまう。
今、私が顔を合わせることが多いのは里親だ。
定期的に開催されるランチ会、児童相談所が催すサロン、学びの場である研修会。まず企画があって、各自が参加/不参加を決める里親関連のものは実現する。その日に足を運べば、誰かに会えるのだ。
里親には里子を養育するという目標があるので、予定を組む際の優先順位も高くなる。
それに対して、ごくプライベートな友だちと会うとなると、まずは日程を決めるところからはじまる。ライフスタイルもそれぞれ異なり、優先すべきものも違う。そうすると、すぐ決まることもあるが、大抵実現まで時間がかかる。
里親での集まりは、里親であるという共通点がはっきりしているせいか、小学校や習い事の保護者より深い話に入りやすい。
「〇〇(里子)ちゃん、この頃、どう?」
それでも、軽く話を向けることはできても、相手がそれ以上話してこなければ突っ込んだことは尋ねにくい。
もしかしたら、重い悩みの渦中で、口にしにくいのかもしれない。
もしかしたら、順調で話したいことが本当にないのかもしれない。
いや、私には話したくないのかもしれない。
そうすると、私は自分のこと、我が家のことを話してしまう。
これは自分のことを話したいというよりは、自己開示であり、私があっけらかんと自分のことを話すことで、相手も自分のことを話しやすくなるかもしれないと思うからだ。
相手に話をさせたいのなら、「自分の話をしない」。
本書に書かれていた傾聴の基本姿勢に反する。
まだまだ里子を養育して4年目の私は新米里親だ。
自分のことで手いっぱいのことも多々ある。
それでも、先輩里親に助けていただいたように、私も少しずつ誰かの力になれたらと思う。
私に話して楽になるならと思うが、気負い過ぎるのか、難しい。
自分の話をしたいわけではない。
それなのに、「自分の話をする」人になっていないか。
里子のノコ(娘小4)のように、「ママママ、聞いて聞いて」と話してくれると助かるのだが、そうはならない。
静かな時間は好きなのだが、集まりの場でしんとすると落ち着かない。
予定を調整して、わざわざ足を運んだ限られた時間をなにもやりとりなく過ごしてしまっていいのだろうか、と心配になる。
自分の話をすることと、相手が話しやすくなるための自己開示の違いはどこにあるのだろう。
次回は、思い切って質問してみようか。
――お住まいはどの辺りですか?
――里親登録はいつ頃なさったのですか?
――交流期間はどのくらいでした? 里子さんはどこの施設にいらしたの?
――あぁ、結構遠いですね。通うのが大変だったでしょう。もしくは、あそこは施設のなかでも交通の便がいいですよね。通いやすい場所でよかったですね。
自分や我が家のことは控えめに、集まりの場に出席した里親であれば尋かれても困らないことをつなげて、つなげて、つなげて。
新型コロナウイルスが感染症法上の5類感染症に移行となり、人との交流が戻りつつあるようだ。このところ、新しく登録した里親も里子を委託された里親も増えてきたように感じる。
集まりに足を運ぶたびに、はじめての里親子に会う。
「はじめまして」の相手のほうが当たり障りのない質問をたくさんできる。
先輩里親にしていただいたことを受け取るばかりでいたくない。
「聞ける人」を目指すのはおこがましいが、少しでもまわせるように私もなりたい。
サポートしてくださると、嬉しいです。いただいたサポートは、ありがたく私の「充電」に使わせていただきます。うふふ♪