連載【癌で死ぬか死刑が先か・18】名古屋拘置所にて、寝屋川中学生男女殺害事件の山田浩二の養子に
※ お読みになる方へ : 事件の詳細が書かれており、不快な思いをされる場合がございます。ご注意ください。
もうこの辺で、俺が今件(※ Vol.1 に事件の詳細があります)で逮捕された事件後の名古屋拘置所の収容生活に入ろう。
先ず俺は、接見禁止を2年付された。
接見禁止を付されたのは・・勾留されている俺が、証拠をまず隠す事は一切しないにも係わらず、全ての証拠を吐いたに拘らず、
途中から、黙秘を通したからだ。
検察と言う所はもの凄く陰険で、黙秘をする人は殆ど接見禁止となり、外部から遮断(しゃだん)するのだ。
とにかく警察が悪いのは、嘘の情報を当たり前にメディアにタレ込むことだ。
俺は、事件当時は5万円近くお金を持っていたにも拘らず、警察のデタラメなリークにより、俺が事件当時は金の無い犯行と書かれた事。
また、これは面会に来た記者達が意外とびっくりするのが、俺が「強盗殺人をしました」と言って、自首している事です。
もちろん、署の中に入って取り調べを受けた時に伝えてましたが、何故かこの話を世間は知らないのです。
では何故に、強殺( ※ 強盗殺人)で自首しているのに、裁判で「強殺」で争っているかを説明したい。
俺自身は強盗殺人だと思って自首しました。
目的が金目的じゃなくても、被害者宅からサイフ(1,200円ちょっと)を盗って逃げてるから、それで、強盗殺人は成立するのとばかり思ってました。
おまわりも検事もその事には、まったく触れません。
俺は死刑と思っていたので、当番弁護士も断わっています。
俺が保身に走っていれば、己から「強盗殺人しました」とは言いませんし!
俺は天地神明に誓って、嘘の供述も一切してませんので、全ての証拠も見つかってます。事件の全てを包み隠さず、俺が話したので。
事件前の行動も、パチンコで6万近く負けた事までも話しました。
このパチンコ店のカメラ映像は1日で消すらしく俺の供述だけが、証拠になってます。
そう言った都合のいい点は証拠とし、俺の話を信じといて、呼んでもいない弁護士が接見に来て面会し、おまわり・検事に全て話した事を伝えたら、弁護士が「松井さん、それは、殺人と窃盗です」と言うので目ん玉が飛びでそうでした。
理由を聞くと、最初の目的が金品が目的ではなく、被害者の言葉にイラッとしてしまい殺めて、その後に財布を盗ってますので「殺人と窃盗」だと言うのです。
俺はプロの弁護士が言うのだから、そうなんだろうと思い、その時点から、おまわり・検事に不信感を持ち、弁護士の言う通り黙秘を始めました。
それからと言うもの、おまわり・検事の態度が180°変わり、取り調べも深夜3時近くまで続くのが当たり前となりました。
それに、強盗目的か強盗したで争ってますが、俺は自首時に「強盗殺人しました」と言ってるのです。
当番弁護士も断ってます。
ですので、俺はいっさい自己保身に走ってないのです。
法律を詳しく知らないでいたので、俺の行為は、強盗殺人と思い込んでいました。
ですので、警察も検事もその通りに起訴したんです。
大事件ですから検察も一度、強殺で起訴したものを、やっぱり違いました、では、その検事の人生は終るのです。
その後、警察の留置所から名古屋拘置所に移送され、2年間の接見禁止を付されました。
この接見禁止が付く人は、証拠の隠滅の可能性がある人や、共犯者が居て、否認や黙秘をしている人が、この接見禁止を検察が裁判所に手続きするのですが、検察が申請したら、100%通ると言っても過言ではありません。
俺の場合、証拠から殺害方法から全て話したのですが、途中から黙秘してるので、半分は検察の嫌がらせで、接見禁止にされたと一緒です。
もう俺が隠す物が無いのは、検察が一番知っているからです。
しかし公権力と言うのは、とても恐ろしいです。
接見禁止の2年間は弁護士以外とは誰とも、会わせませんし、手紙も出来ません。
手紙が届いても接見禁止中は、読む事が一切できませんので、この接見禁止で相当に精神的にもノイローゼになってく人は多いです。
接見禁止が解除されたと思えば直ぐ、公判が始まりますので、この接見禁止は、検察の常套手段( ※ ありきたりのやり方)の一つです。
とにかく、接見禁止中の2年間は、孤独の毎日でした。
職員とたまに来てくれる弁護士さんと喋るぐらいで、後は殆ど誰とも喋らないので、人と人のつながりが無く、この2年間の接見禁止が解除されるまでが本当に長く感じられました。
解除されてもお金も無く・・手紙を書く事さえ、手元に82円切手が1枚あったぐらいです。
解除後に職員が、接見禁止中に届いてた手紙を1通俺に渡してくれました。封筒の名前も知らない人です。
手紙を読むと、グループ名でI代表って方が、「メンバー同士伝達を使い、互いに裁判で良い結果になるように、皆争ってます。一報くだされば、遅れ乍らも馳せ参じます。」との事でした!
俺はその方に手紙を書き、最後の切手を貼り…
「もう少しそちらの事を知りたいのですが正直に申しますと、この手紙に貼った切手が最後の切手でして、お気持ちは嬉しいのてすが、文通も出来ませんので、すみません」云々と書いて出しました。
そうしたら1〜2週間の間に現金書留にて、1,500円と切手シート2枚が入っており、お手紙に「そのお金で、便せんや封筒とか買ってください。切手も無くなれば言ってください」と書いてありました。
俺はずーっと孤独で、人とのつながりに飢えてたので、その事が嬉しくて嬉しくて、世の中には、優しい人が居るんだなーって思い、お礼の手紙と自己紹介もかねて、返事をしました。
因みに、この人は俺より10歳は下で岐阜の拘置所に未決で収容されて居ました。
それから、このグループのメンバーからも手紙が届くようになり、手紙の中でお互い色々な話をしたりして、気持ちがとても楽になってきました。
俺はこのグループに入ってもいいかとも思えたので、代表に伝えたら「決意証明を書いてくれ」と言われ、見本としてメンバーの決意証明のコピーが何十枚も送られて来て、全て目を通しましたが、代表を持ち上げる内容ばかりでした。
それでもコンセプトに嘘・偽り・打算はしない事と書いてあったので、気に入りましたし、このグループのメンバー何人とも文通し、本を送ってくれたり、いい人が多かったので、メンバーに入ってもいいと思い、メンバーになりました。
メンバーも代表も最初のころは優しかったのです。
このグループの教育担当が居たんですが、何と、あの寝屋川中学生男女殺害事件の山田浩二がメンバーに居たのです。
このグループの中で大事件のメンバーとしたら、俺とこの山田浩二ぐらいでした。
グループの代表曰く、山田浩二には荒波の逆境の中でも、頑張ってグループの教育担当をしている…と言うので、俺は山田浩二に手紙を書いた。
初見の挨拶として・・「浩二さんは、"荒波の逆境"の中でも頑張っているのですね」云々と手紙したら、これが、相手の感に触ったのか、
「俺はサーファーじゃねえんだ(怒)お前は、ナメてんのか!!」
云々と返事が届いたので、俺は何だこいつは??と思い、
その内容をグループの代表に伝え、「俺は何も悪気がなかったのですが、、、代表の言葉をそのまま使ったら、怒られちゃいましたよ(笑)」と伝えたら、
代表が俺から「山田浩二には厳しく注意しとくから」と言われ、その場は、収まりました。
よーく山田浩二と代表の関係を知る度に、どうも、山田浩二はI代表にペコペコして頭が上がらないらしく、失敗しては叱責され、もう一度、私にチャンスをくださいとか、王様と下臣そのものでした(笑)
また、このI代表の心の内が分かって来て、やれ、必ず手紙には、
何日に◯◯と何々の云々したとかの報告をしろ!とか、
必ず、グループの代表で在る俺を持ち上げろだとか、
グループ外の友好グループと手紙する時は必ず、グループを持ち上げろ!
ペラペラ文通してるだけじゃダメだ云々とか・・
しまいにはグループの受け皿を、俺がシャバに出るまで、◯◯組の若頭に面倒見てもらうとか・・
俺は一生シャバに出ることは無いので、ヤクザ云々はどうでもいいが、何かグループの方向性が変わってねーか?
これじゃ絆に重きを置く共助のグループと謳い乍ら、ヤクザの下で働くチンピラになってしまうんじゃないか?と思ったのと、
メンバーから聞いた話がグループ名の由来がハテナだ。
このグループ名をI.S.empire(アイズエンパイアー)と言うのだが、
このIは代表の苗字で、Sは既にグループをバックれて居ないが、
そいつの苗字で…
いわば、IとSの帝国ってのが、俺には気に入らなかった。
何が絆だー何がファミリーだ!
ふざけたグループ名にI代表に対して、怒りが込み上げてしまった。
俺はこのI代表に啖呵を切って辞めた。
それからグループの方も、聞く所内部崩壊しているようだ。
山田浩二から手紙が届き「広志!お前は凄いなー。代表にあんな事を言って!」
そりゃー、そうだろう。山田浩二はI代表の奴隷に近かった。
ここから、俺と山田浩二は、グループとは関係なく、仲良く文通してたのだ。
俺はグループとは関係ない人とのつながりが少しずつ増えていった。
それらを実感する事で、生きている喜びにも、繋がっていった。
その輪がどんどんと繋がり、外部との繋がりも増えていって、俺を影乍ら支援してくれたり励ましてくれたり、相談にも乗ってくれた。
その頃に山田浩二から「俺の養子に入らないか」との誘いがあった。
俺はもう家族とは縁切りされたし、1人だし、家族が出来るなら、いいかもと思い、OKしてしまった。
もちろん、山田浩二の事件に対するものは正当化出来ない。
だが、俺は新たに絆を深めようと言う言葉の誘惑に、心惹かれた。
俺は末まで、ずーっと本当の家族ってものを知らない。
山田浩二との養子縁組が血の繋がって居ないものでも、2人以上居なければ家族は出来ないし・・淋しさから少しは快方されるのでは?と思った。
一般の常識からしたら、考えられないだろう。
この気持ちは、別に理解してもらえなくても、一向に構わん。
ただ、俺は、山田浩二から一度も本人の事件を聞いた事がない。
俺は全て伝えているが、、、山田浩二は何も語らない。
裁判中の土下座も当時のグループ内の仲間から「ジャンピングウルトラ土下座」とからかわれていたが本人は笑っていた。
しかし、その件を面白おかしく、記事にしたメディアには怒っていた。
それ以外は本当に一切、彼から事件のあらましは、一度も無い。
そこに関して彼が何を思っているのかがサッパリ分からない。
まぁ、その話は、終りとしよう!
もう彼は、確定死刑囚なのだし!
手紙は今も届くが相当妄想が激しい。
身分が死刑囚なのに、シャバに出れると考えているぐらいだ。
俺は妄想はするが、現実はしっかり、受け入れているつもりだ。
この名古屋拘置所に収容されて、6年以上の歳月が流れたが、本当に、色々な事があった。まず大きいのは、先程も述べたが、人と人とのつながりが生れ、励まされ、現在、塀の中で不自由は不自由だが、自由と言う社会に居た頃よりも、心は豊かだ。
聖書の出会いもそうだが、色々な本を読んで行く内に、社会では知らなかった事に気付かせてくれた。
本は俺にとって宝だ。俺の思想も大分と以前変わった。
やはり、人間は何事も学ぶこと、多くの知識を得る事で、己の行く道も頭の中で、より、選択する事が出来、己の自信にもつながると気付かされた。
俺は、余りにも無知過ぎたが、上に、社会に順応出来ず、進む道も判らず、逃げていた結果が、全て、悪い方に、進む泥濘(ぬかるみ)に嵌って行ったのだ。
俺は学歴は無いは、バカやし、体も不自由になって、生きて行く自信が持てなかった。
周りの目も気になるし、正直、生きてくのが疲れていた。
何もする気力も無かった。
外に出てもパチンコぐらい。酒はパチンコで勝った時ぐらいやったし。
とにかく、俺は体が丈夫の内に、年齢の割にそこそこのお金を稼ぎ、その当時の年代では派手な生活をしていたが、交通事故で右足が不自由になり、当時の金銭感覚から中々と抜け出せず…
それも、俺にとっては、その後の交通事故後の生活に嫌気が差した起因の一つだと思う。
その当時は、体が丈夫ってだけで、バカでも、そこそこの金を稼いでいたからだ。
それが、交通事故で全てがパー!
ずーっとその後は燻(くすぶ)っていた。
愛知県蒲郡市の働いていた時に、昼から有休を取り・・
病院の帰りに、モンキーって言うスロット専門店で、コンチネンタル4を打ってたら、一日で70万円出て、これが、俺が1日に出した一番の最高額だ。閉店時間まで残り10分はあったので、まだ1万〜2万は稼げたが、知人に台をゆずり、ソッコーで帰って、仲間と飲み屋に行ったっけ。
この金は昔の金遣いの荒さで、2週間で遣いきってしまった。
周りの仲間にも、飲み屋で全て奢(おご)っていたので、無くなるのが早かったー。
当時の会社も薄給なので、給料が入っても雀の涙だ!
こんな景気の良い飲み方は出来ない。
ついつい昔の体が丈夫な頃の金銭感覚が抜けない。。。
人って一度、美味しい思いを覚えると中々、その味を忘れられないのかな?そう言えば、俺のアパートに来る猫が缶詰ばかり与えてたら、キャットフード食べなくなったなー、、、あれと同じだろうか??