「女神の継承」はフェイクドキュメンタリーでやるべきじゃなかったという話
※「女神の継承」のネタバレを含みます。
2022年7月は近年稀に見るホラー映画ラッシュだった。
台湾から「哭悲/THE SADNESS」「呪詛」の2本、タイからナ・ホンジンプロデュース「女神の継承」、おれたちのA24からはミア・ゴス主演の「X エックス」、またわたしは見ていないが「ブラックフォン」や、かの悪名高い「セルビアン・フィルム」がまさかの4Kリマスターで公開など、映画館がこんなにホラー映画で賑わったことはここ数年なかったのではないだろうか。
前評判から特に話題性が高かったのはアジアンホラーの「哭悲」「呪詛」「女神の継承」の3本だろう。うち、「呪詛」「女神の継承」はフェイクドキュメンタリーの形式をとっている。
わたしはフェイクドキュメンタリーのホラーが好きだ。そして結論から言うと、「呪詛」はフェイクドキュメンタリーとして瑕疵もあるがそれを補って愛せるところのある映画だったが、「女神の継承」は、正直言ってフェイクドキュメンタリーホラーとしては最悪の部類だった。
「女神の継承」を見ながらわたしは疑問だった。「なぜ、この映画をフェイクドキュメンタリーで撮ったのか」と。
フェイクドキュメンタリーという手法はホラーやスリラーと相性がいい。それは紛れもない事実だと思うが、フェイクドキュメンタリーという手法が必ずしもホラー映画を豊かにするわけではないのではないか?
今回は「女神の継承」を失敗事例として「フェイクドキュメンタリーホラー、こうあってくれ〜」という話をしたい。むろん、わたしはずぶの素人なので以下はすべて与太話であり、ただの感想である。
「女神の継承」概要
本作は基本的に「ナ・ホンジンの新作」「『哭声/コクソン』の関連作らしい」という文脈で話題になっていたかと思う。厳密にはナ・ホンジンは監督ではなく原案・プロデュースで、「哭声」との関連については公式サイトに以下の記載がある。
本作がフェイクドキュメンタリーであるということを、わたしは結構公開ギリギリまで認識していなかったと思う。何がきっかけでその事実を知ったかを忘れてしまったが、この本予告を見たときも最後の暗視カメラ映像に対して「へー、ドキュメンタリーっぽい手法も一部使ってるのか」くらいに思っていた。
この感覚が、本編を見た際の違和感の予兆であるとはこの時まだ気づいていなかった。
いやに“凝っている”画 遠のく没入感
予告編の映像を見て、なぜフェイクドキュメンタリーだと思わなかったのか。本編を見始めてすぐに気づいた。
映像が綺麗すぎる。画質という意味ではなく、撮り方のことだ。冒頭の女神像での儀式のショットから、完全に撮り方が劇映画のそれだった。
フェイクドキュメンタリーとはなにか。映画的な、専門的な定義は置いておいて、それは「フェイク」の「ドキュメンタリー」、つまり「ドキュメンタリーの体で作っているフィクション」だろう。
では「ドキュメンタリー」とはなんなのか。事実を記録した表現物である。
なぜその事実を記録するのか。それぞれのドキュメンタリー作品にはそれぞれの目的があるだろう。たとえば音楽ライブのドキュメンタリー映画などは、なるべく美しい映像を残そうとするだろう。たとえばあるスポーツ選手に密着するのなら、競技の臨場感や表舞台に立っていない間の隠れた努力を映し出そうとするだろう。
「女神の継承」はタイの祈祷師に密着するドキュメンタリー、という体である。そのことはテロップでも明記されている。特に外国向けということではなさそうだ(ホラーでよくある、事件が起きて本来の目的ではお蔵になったものを再編集しているようなスタンスらしいので、もともとのドキュメンタリーが外国向けでなかったと断言できるわけではないが……)。
そういう目的で撮っている映像が、果たして、劇映画ばりの美しい映像である必要があるのか? 複数台のカメラが入っていて、その瞬間に起きたことを臨機応変に撮影しなければならないはずなのに、まるですべてに撮影監督が入っていて、綺麗に照明を当てたかのような映像なのはなぜか?
これが例えば外国向けのタイのPR映像の一環であり、美しい風景や田舎の景観を見せることが主目的である、とかいうのならわかる。だがそれは明示されないし、事件らしきものが起こり始めて、撮影対象を祈祷師のニムから姪のミンまで広げる=観光PR用としては考えにくい状況になっても、異様に凝った撮影は継続される(夜の屋台?商店?の中を歩くミンを、店を挟んだ反対側から並走して撮るシーンなど不自然極まりない! さらに店の人もミンもカメラに全く反応しない。この件は後に詳述)。
なぜフェイクドキュメンタリーがホラーと相性が良いかといえば、それはあたかも事実のように見せられるからだろう。怖い話を腐す常套句が「どうせ作り話じゃん」「やらせだろ」といった類型であることからも、恐怖という感情において「本当かもしれない、自分の身に降りかかるかもしれない」という要素がバフになるのは明白だ。その受け手の姿勢の良し悪しについては今回は触れないでおく。
通常、映画というフィクションと日常というリアルの間には大きな隔たりがある。その確固とした境界を揺るがす、実際の出来事だと脳に誤認識させるための手法、それがフェイクドキュメンタリーではないだろうか。
美しく、凝ったカメラワークの映像はこの誤認識を引き起こさない。見慣れた、美しく取り繕われた「映画」の映像。これはフェイクドキュメンタリーの没入感を著しく損なうだろう。
仮にそれがやりたいのなら、「この“ドキュメンタリー”においては凝った映像が必要であった」という前提を観客に提示しなければならない。それができないのであれば、そして凝った映像で映画が撮りたいなら、そもそもフェイクドキュメンタリーをやろうとするなと言いたい。
透明人間の撮影スタッフ
さて、後述するといったシーン、夜の町をミンが徘徊するシーンだが、すでに述べたようにこの時カメラは屋台を挟んで反対側からミンを追い続けている。
その前のシーンではミンの近くで会話しながら撮っていたと思うので、ドキュメンタリーと考えるとこの時撮影スタッフは、会話をやめ一度ミンから離れてわざわざ屋台の後ろ側に周り、ウエストの位置あたりにカメラを構え直して歩き出すという行動をしている。
はたして、役者でもなんでもないミンは、それを異様に思わないだろうか? また、屋台の向こう側からこちらを窃視的に捉えているカメラを意識しないでいられるのだろうか?
途中、屋台の中に人がいるのがわかるが、彼から見たら、向こうからふらふらとした女と、それを店の裏側からちょっと離れて撮っている男が歩いてくる。不審だと思う。カメラの方をチラッと見たり、勝手に撮影されることについて声をかけないだろうか。いや、具体的に行動を起こさずとも、少なくとも生活に突然侵入してきたカメラという異物に対して何かしらの反応を見せるはずだ。
しかし実際は、ミンも店の人も、まるでそこにカメラなどないかのように振る舞っている。それはどう見ても、「カメラを前にした役者の演技」に他ならないのである。
印象的だから取り上げただけで、このカメラの透明化は何もこのシーンだけではない。
特に多いのが、ミンが暴れ出したりするシーンだ。ニムをはじめとする親族に混じってミンを間近で捉えるが、カメラマンは声も出さないし手も出さない。しっかり十分な映像が撮れた頃合いにやっとニムから「出てって!」などと言われる始末。茶番にも程がある。
フェイクドキュメンタリーにおいて、「カメラ」は登場人物であるべきだとわたしは考えている。劇映画とフェイクドキュメンタリーの作劇上のもっとも大きな違いはそこではないかとすら思う。
ドキュメンタリーであるならば、カメラマンはもちろん、ディレクターなど、カメラに映らない人物がそこにはいて、そして被写体とコミュニケーションを取っているはずだ。被写体は常にカメラマンやディレクターを認識している。ただ映像を切り取る機能が宙に浮いているのではなく、カメラというデカめの物体を持った人間がそこに立って、こちら(被写体)を見ているのだ。平時ならともかく、有事の際にはカメラは「カメラマン」として認識されるはずだ。そこが抜け落ちていると何もかも茶番臭くなる。
もちろん、本編中にカメラマンが認識されるシーンは存在するが、作中世界にカメラマンは常に存在している。取ってつけたようにカメラマンが存在するようなセリフを入れても意味がない。
この透明化だけでもかなりの悪手で苛立つのに、この映画はさらにこの「カメラマン」に関して、やってはならないことをやっている。
ミスするためだけに現れたカメラマン
ごく稀に声だけ登場するが、結局何人居て、それぞれどういうキャラクターでどういう関係性なのか全くわからない本作のカメラマンたち。だが、終盤で突如としてその存在が現れる。
廃墟での儀式と、自宅で監禁中のミンを見守るクルーの二手に分かれているシーンだ。
自宅にはミン、ミンの伯母、まだ赤ん坊のその息子、祈祷師のスタッフ?らしき男性とカメラマンがいる。
ミンが施錠された部屋の中から正気を訴えるが、男性は祈祷師から連絡がないからまだダメだという。すると部屋から赤ん坊の泣き声が。伯母は錯乱してドアを開けようとする。男性がカメラマンに叫ぶ。「ベビーベッドを確認しろ!」
ここで盛大にまごついた後、カメラマンはやっとベッドを確認する。果たして、ベッドには無事赤ん坊が寝ていた。
なぜか、カメラマンはそのことをすぐに告げない。
そうしている間に伯母がミンの部屋のドアを開けてしまい、儀式は失敗、大惨事へと繋がっていく。
はっきり言う。単純に脚本として杜撰、稚拙、ひどすぎる。
決定的な事態が、ある登場人物が極端に愚かすぎるせいで引き起こされるのは物語として下の下だと思うが、今作のひどいのは、その人物がこれまで存在すらしていなかった点だ。
せめて、最初からメインのカメラマンにキャラクター付けがされていて、「こいつならやりかねん」と思えればまだ良かった。だけどこれまで、被写体たちは彼を認識すらしていない。それは観客にとっても存在しないのと同義である。そんなやつが、物語を動かすために突如として役回りを与えられる。ご都合主義としか言いようがない。
わたしはこの時点で本当に辟易してしまって、もうこの映画を真剣に見る気がなくなった。ここまでつまらないことをされて白けずにいられるか。近年稀に見る最低な映画だな、とすら思った。書いててまたちょっと怒りが湧いてきている。
終盤の大惨事もカメラに記録し続ける必要があるため、カメラマンが一人また一人と順々に死んでいくのも「はいはい茶番茶番」という感じだった。そもそも元は無関係そうな祈祷師側のスタッフたち? が呪いによってゾンビ化するのに、なぜ撮影スタッフはそうならないのかもわからない。別にホラーにおいてすべて理屈が明らかになっているべきなどとは露ほども思っていないが、「展開上の都合のためにそういうことになっています」というのは不誠実だろう。
内容はどうだったのか? 「哭声/コクソン」も見直してみた
とにかくフェイクドキュメンタリーとして真面目に作る気が一切ないようにしか思われずものすごいストレスだった+序盤からカメラ酔いがひどかった(普段そんなにカメラ酔いしないので体調が悪かったのか、取ってつけた「フェイクドキュメンタリーっぽさ」のために手ブレ演出が多かったのか不明)のもあり、ほとんど内容をちゃんと見られていないし、あまり興味も持てなかった。
怖いところはほとんどなく、話も今ひとつよくわからなかったというが正直な感想だ。
一応、わたしの理解では以下のような話だったと認識しているが、怪しいかもしれない。
この理解で合っているとすれば、作中で本題になっている「ミンの身に起きた怪現象」はすべて父親の血筋への呪いってことになり、女神関係なくない? となったがどうなんだろうか。
わたしはてっきり、序盤の「女神の来歴がわからないが祀っている」という話で、本当は邪神を祀っていたみたいな話になるんだろうな、というつもりで見ていたのだが、父親の一族の悪行みたいな話になってダメ押しで呪いの人形まで映されたので「女神の継承の話ではないのでは……?」となってしまった。
まあこの辺は過度なストレスによる見落としが大いにありえるのであまり真に受けないでもらいたい。
いずれにせよあまりよくわからないし怖くもないという感想には変わりない。
しかし、「哭声」と似ているといえば似ている気がしたし、そちらの方は当時楽しんで見た記憶があった。内容もうろ覚えだったのでこの記事を書く前に再見した。
結論、改めて見ると「哭声」もストーリー的にはそこまで面白いわけではなかった。だが、映画としてはやはり面白いと言えると思う。見たくなる、面白いと思える映画だった。
「女神の継承」と「哭声」、ストーリー的には似通った部分の多い2作品だが、何が違ったのか。
ストーリー面でいえば、対立構造、バトル的な構造の有無が大きいだろう。
「哭声」では國村隼演じる日本人とファン・ジョンミン演じる祈祷師の呪術バトルという構図が中盤のメインになる。対立構造はやはりわかりやすく面白い。強いキャラと強いキャラがぶつかるのはとても魅力的だ。
「女神の継承」には対立構造がない。戦っている相手が常に不明なのである。これは、よっぽど怖くしないと成立しないように思う。戦うべき相手が見えないことも恐怖になればいいが、全般的にこの映画、恐怖の描写が甘いと言うか無いに等しい。隠しカメラのジャンプスケアくらいしか思い出せない。ただずっとミンがおかしくて、ニムがどうにかしようとしているが、そのまま状況は硬直している。物語的な進展がないのだ。
そして重要なのはやはり俳優の演技だ。「哭声」では國村隼、クァク・ドウォン、ファン・ジョンミンといった名優たちがとんでもないテンションの芝居を真面目にやっているところが見られる。もうこれだけで興行として成立しているのである。芝居が面白いんだもん。仮に中身が無くても、サービスデイ料金くらいは払ってもいいだけの価値がすでにここで担保されている。
一方でフェイクドキュメンタリーは、役者のリッチな演技を楽しむのにはいささか不向きな形式だ。むろん、フェイクドキュメンタリーで最高の演技を見せる俳優というのもいるが、その良さはどちらかといえば瞬発力に近いとわたしは考えている。その瞬間の居方や発声、リアクションがまるで本当のようにしか見えない、芝居だとは思えない、という性質の良さは楽しめるが、劇映画の良い芝居とは性質が違う。ここを上手く超越させる手腕の監督もいるが(白石晃士監督「戦慄怪奇ファイルコワすぎ!史上最恐の劇場版」における過去で両親と会う工藤のシーンなどは素晴らしいと今でも思う。また白石作品における宇野祥平の演技は完全に劇映画的リッチさを持っていて最高だ)、それができるのは異能に近い。
当然、「女神の継承」でそれは成されていない。というか、あまりフェイクドキュメンタリー的な演技でもないと感じたし、かといって劇映画的として最高の部類の演技であるとも思わなかった。
映像に関しては先述と重複するが、劇映画ならばいくら凝っていても良い画を撮っても構わない。むしろそれが見たい。「哭声」は映像的にも満足できたが、「女神の継承」はその映像へのこだわりがただのノイズとなっている。
ナ・ホンジンのフェチ?
比較からは離れるのだが、「哭声」を見直してみて記憶していた以上に「女神の継承」と共通要素が多かった。
- 犬への虐待
- 派手な除霊シーン(これは覚えていた)
- ゾンビ化
これがナ・ホンジンのホラーにおけるフェチなのだろうか……?
しかし、ゾンビ化に関しては今年「哭悲」が出たので、「そういうのが見たいなら『哭悲』見るかな……」となったのが正直なところ。
フェイクドキュメンタリーはホラー映画を豊かにするか?
総じて、「女神の継承」は「やりたいこととやっている手法が合っていない」と感じた。本当に、なぜわざわざフェイクドキュメンタリーの手法を選んだのか?
似たようなことを別のある類型(ある意味フェイクドキュメンタリーの亜種かもしれないが)についても思うのだが、それが「search/サーチ」や「ズーム/見えない参加者」などのPC画面のみで展開されるアレだ。
これらに共通するのは、その手法を使いこなせず、ただの制限になってしまっているということ。
脚本がフェイクに最適化されておらず、やりたいことのために整合性が失われていることが本当に多い。「女神の継承」で言うなら、ミンの発狂シーンを観客に見せたいから、カメラマンが親族の邪魔になる位置で撮影し続けてそれについて咎められない、みたいな、そういうやつだ。本当にイライラする。PC画面モノでもこの手の瑕疵はものすごく多い。実際とは違う挙動だったり、カメラの切り替えが不自然だったり。
別に、その程度の瑕疵が気にならないくらい面白ければいいのだが、逆に、そこまで面白い脚本で、かつフェイクの手法では無理をしなければならないくらいなら普通に劇映画として撮ればいい。
手法は目的ではない。それをより面白く、豊かにするために使われるべきで、ただの足かせになるくらいなら奇を衒うなと心の底から思う。
一方で、フェイクドキュメンタリーという手法だからこそ面白くなっている事例、というよりむしろ、着想そのものがフェイクドキュメンタリーと不可分であり、そうでなければありえない作品というのも存在する。
その筆頭が「心霊マスターテープ」シリーズだろう。これについてはまた別の機会に書ければと思うが、「撮影すること」「ドキュメンタリーを作ること」自体を主題化することによりフェイクドキュメンタリーの意味が際立っている。また、シリーズのいずれの作品も心霊ドキュメンタリーを手掛けてきた監督によるものなので、きちんと(心霊)ドキュメンタリーの現場や形式を理解しており、これまで見てきたような瑕疵がほとんど一切と言っていいほどない。観客はストレスなく、他の心霊ドキュメンタリーを見ているのとほとんど同じような感覚で、フィクションのダイナミックな広がりを楽しむことができる。
そう考えると、フェイクドキュメンタリーの面白さというのは、先述した「恐怖には事実性がバフになる」ということ以上に、「現実が拡張されるようなSF的な感覚」が重要なのかもしれない。わたしたちが知っている、生活して暮らしているこの世界のいち部分が、フェイクドキュメンタリーによってフィクションの世界とつながる。それをつなぐのはフェイクドキュメンタリーの世界線の中の「ドキュメンタリーの作り手」だ。「現実を切り取る営み」そのものを主題化する試み、それこそがフェイクドキュメンタリーの根幹なのではないだろうか。
と、最後は急に自分の中でパズルがハマって答えが出てしまったので説明が足りない感じになってしまったが、これについてはまた別の機会に。
とにかく、フェイクドキュメンタリーありきの物語だったり、それにより面白さが最大化されるという理屈がない限り、フェイクドキュメンタリーの手法を使うのは悪手だとわたしは思う。
「女神の継承」については、正直本当に、元の企画通りファン・ジョンミン主演で「哭声」の祈祷師の物語を劇映画で作ってほしかったと心から思う。
「いや、女神の継承はフェイクドキュメンタリーであるべきだ!」みたいな意見があれば面白いので教えて下さい。
それでは。
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