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仮に打ち込む先が見つかっていたとて


はじめに

私の周りは、自分の打ち込む領域が明確になっている人が多い。
不思議なものでその職業についてから後発的に出会うのではなく、
学生時代から自然と付き合いがあり、結果的にその職業についた人が多い。

例を挙げると会社を立ち上げて代表取締役になった友人から、ファッションブランドの経営者、ゲームのグラフィックデザイナー、漫画家、料理人、ガラス職人、放送作家など。士業を目指し、司法試験を受け続けている者もいる。

そういった人々は意思決定能力が高く、話す上でのスタンスがはっきりしているので心地良さを覚えやすい。その一方で違和感を覚えるような事も増えてきた。疑問形式で考えてみたい。

宝くじが当たっても、仕事を続けるか?

上記の問いで仕事を離れる人もどうやらいるようだ。

仕事を金銭を稼ぐ為の手段として活用しており、「生きる為の費用の確保」という目標を達成することで、現在の活動に意味を見出せなくなるのだろう。

明言するが、金の為に仕事をするという大義を否定するつもりはない。
大多数がこの論理で動いているというのは理解できるし、生活を守る為に綺麗事は言えたものではない。人の数だけそれなりの事情がある。

悲しいかな私自身も大学卒業時、社会に出る選択を迫られた際には生活を守る為に一般企業に就職しつつ、音楽に打ち込む事を選んだ身である。技術も知見もプロとしてやっていく上で全く足りないと客観的に判断した。

また音楽の専門学校に行く為のお金を安定して稼ぐ必要もあった。もっとも、ただ行けば良いというものではないのだが、選択する自由を成立させる為に生活がまずある。順番を履き違えてはいけない。

上記を踏まえて動いている人の中には、携わっているプロジェクトを即座に辞めてしまう人もいるだろうし、それは軌道に乗るまでのもどかしさ、言い換えるなら地味な孤独を共有できる人が減ってしまうという観点で、とても寂しい。

離脱した時点で金銭を稼ぐ為の効率的な手段として選んでいた事が明らかになる。自分の能力を客観的に理解し、適所でパフォーマンスを評価してもらう。市場価値も上がるし、むしろ逆算的かつ器用で良いのかもしれない。

正直、サラリーの仕事に関して言えば私はこのスタンスだ。良い条件が提示されれば転職するし、自分が学び切ったと思ったら職場を変える。成長と報酬が担保されているから、毎週フルタイムで働くだけである。会社に属するメリットが見出せなくなれば、個人で働くこともあるだろう。

上記の様に金銭の為、と割り切っている人の方が行動理念が見える。
一方で打ち込みたい領域があるように見せて、実は軸が定まっていないケースと、打ち込みたい領域があるけれどもその他の領域を軽視しているケース。ここに注意を払いたい。

打ち込みたい領域があるようだが、実は軸が定まっていないケース

金銭ではないとなると、承認欲求である場合がほとんどだ。

その活動の先に、多くの人に自分の存在や行動を認知されたい。
評価されたい、認めてもらいたいという気持ちがある。

あるいは多くの評価を受けたもの=素晴らしいものという解釈になっている側面が強いように感じる。PV数や反響を自慢げに話す人もいるだろう。

極論、そうなると活動内容はなんでも良くなってしまう。打ち込む領域は代替可能だ。目立つための活動、注目を集める為の活動に徐々にシフトしていく。そして芽が出なければ次の畑を探しに行くという具合だ。

この場合の憂慮すべき点は、注目を集める為に大々的に自分の活動を周囲に広めておきながら、ある日急に活動から離れたり、辞めたりしてしまうことだ。より数字が追える方、評価を受けられる方に流れてしまう。

この互換性を理解せずに大々的に告知を打つと、最初の引きこそあるかもしれないが、基本的にプロダクトが続かずに頓挫してしまう。

だからと言って、ただ続ければ良いというものでは無いと断言しておく。
その一方で、自分の思うような評価が受けられない事を、打ち込む領域の所為だと責任転嫁するケースには胸が苦しくなる。

その領域内で単に実力不足であったり、トレンドを抑えられていない事の結果が現れているだけだ。畑を変えたところで同じ事の繰り返しになってしまうのではないか?と考える。とんでもなく余計なお世話だ。

芽が出るまでの試行錯誤の時間に耐えられない、見切りをつけるという現象も、ここに該当するように思う。

例えば、初心者(フォロワー数が少ない状態)でも一定以上の再生回数が回る事が特徴のTikTokなどが最たる例のように感じる。他のSNSやプラットフォームと比較した際に、長くユーザーに使用させる為に比較的成果を出しやすいアルゴリズムになっている。動画の秒数も短く、手間や準備という点で参入障壁が非常に低い。

誰に評価されるかではなく見知らぬ人々の総数で評価する相対的な判断だ。

打ち込みたい領域があるけれどもその他の領域を軽視しているケース

打ち込みたい領域が決まっている人は、逆に早くからその領域でキャリアをスタートするので、業界内の常識に染まりやすい。

言い換えれば社会=その業界のルールになりやすい罠がある。

また、自身の成功体験(その領域に限る)から、自分の能力の高さに互換性があると錯覚してしまう場合がある。

そうなると連鎖のように発生するのが、自分に取って知見が無い領域の冷笑や軽視である。生存者バイアスが働くだけでなく、失敗したり、上手くいかないという仮説を持たずに、無自覚に周囲の人間に失礼な態度を取ってしまうだろう。

例えば、「これわからないからやっておいて」「なんとなくできるでしょ」と言った丸投げ具合である。

見通しも甘い場合が多い他、自分の専門領域以外の事を学ぼうという意思が弱い。ある領域でプロフェッショナルである事は、他の場所で偉ぶったり、思考停止していい理由にはならないだろう。

他人の仕事の内情を知らないが故に矮小化し、わかりやすい指標で成功しているか、していないかという二元論に持ち込む。

それは回り回って、その人の打ち込む領域を侮蔑している行為だと考えている。素人に仕事の事を根掘り葉掘り言われて、その人物は気分が悪くならない訳がないのだ。

立派なプライドがあるならば、もう少し多方面に想像力を働かせるべきではないだろうか。自分の領域では出来ているはずだが、それが外部に適応できないことに否応がないもどかしさを感じてしまう。

行動が他者の評価を作る

長々と綴ってきたが、一見何かに打ち込んでいる様に見えて、金銭や承認欲求による互換可能な対象物である場合と、生存者バイアス故に別の仕事への矮小化や冷笑、軽視を気軽に行ってしまう事を肝に銘じておく為に今回文章に起こしてみた。

代替不可能なものなど本当に存在するのか?あるいは自分もそう思い込んでいるだけで、今行っている事のほとんどは、実は代替可能なのではないか?この問いは常に考える必要がある。

思うに時間がこの問いを破壊する。続ける事は、成功や目に見えた反響と必ずしも連動しない。そこには手を動かす度に問いがあり、模索がある。勿論惰性の場合もあるが、辞めてしまうよりも爆発する可能性を大いに秘めている。

そこには対自分という、社会とは別の時間軸が流れる。自分の評価だけで動く絶対評価の枠が生まれる。これこそが暗黙知であり、プロフェッショナルが持つ「プライド」や「哲学」、「こだわり」であると考えている。

勿論「偏見」や「思い込み」にならないよう細心の注意が必要だが、
質を高めるという一方向に向いている場合、これらは機能する。

短いスパンではなく、長いレンジで目標と向き合っていく事で、見えるレイヤーが徐々に増えていく。そして気軽に始めた時よりも、対象に納得するまでの目測は時間と共に伸びていく。保有する情報が多くなる程に、観測できる事象が増えるからだ。

軽やかにはじめて、暫く腰を据える。自分の疑問を解消していく。
この行為はその領域を軽んじることにはならない。

皆が喉から手が出る程欲しがっている専門性を獲得するには、一定以上の時間がどうしても必要なのだ。

上記を踏まえると、一定以上時間をかけている事は「信頼」や「専門性」の必要条件ではないが、十分条件にはなり得ると言った具合だ。

人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが何事かをなすにはあまりに短い

中島敦『山月記』

終わりに

自分に取っての領域がある/なしで特別視するつもりは毛頭ない。

ただ、近視眼的に自分に特別な領域があるように見せかけてしまったり、打ち込む物が見つかった事、あるいは成功した事で他者の存在や能力、仕事を矮小化することこそが、領域のある/なしに意味を持たせるコミュニケーションの取り方だなと感じる。

  • その人の行動理念が詳細にはどの様なものか。

  • その活動はどのくらい継続して行われているか。

  • 口をついて出てくる言葉は、本当にその人が考えているのか。

  • 他者に想像力を働かせる事ができる人か?

技術や知見を信頼する為には多くの前提や材料が必要だ。

やっているだけで得られる評価は一過性の水物だ。
その初期ボーナスを追い求めて転々としては、得られるものも得られまい。


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