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教育と福祉の交差点を探る

 福島県いわき市で夏休みに事業所を見学させてもらった関係で、代表の方にお誘いいただき『発達障がいの子どもや大人が困っていることを理解し対処するためには』と題した講演・演習に参加してきた。

 行動分析の話が中心だったが、途中、実際に自閉症児を抱える保護者の方や、事業所の職員の方々と話すことができ、その方々が抱える不安や悩みを聞くこともできた。その中で、就学前の保護者が学校への不安を語っていたことが特に印象に残った。

 この論の結論を言えば、今後の普通学級と呼ばれるクラスで、学級担任は教育(集団)と福祉(個)をどう共存させるかということをシステムレベル(個別の支援という具体的な方法だけではなく)で考えなければならないということである。


 発達障がい児者が社会的に認知されて久しい。大きく広汎性発達障害と呼ばれたり、自閉症スペクトラムと呼ばれたりすることが多いが、それは全て先天性の脳の機能障害である。脳の一部の機能がうまく機能しないため、いわゆる『心の理論』が獲得できなかったり、知的な遅れ、言葉の遅れ、こだわりが出てきたりする。脳の機能障害のため、見た目は変わらないので障がいが見えにくく、障がいと認知されるのは親や友達とのコミュニケーションにおけるうまくいかなさを本人や周りの人が気づいたときに初めて認知される。場合によっては大人になってから気づくということもありえる。

 また、運動の機能障害も同じであるが、「社会生活における困難」を感じることが障がいであり、いわゆるグレーゾーンにいる人も多くいるし、全ての人が「社会生活における困難」を感じないまでも、他人をすぐに怒らせてしまう発言をしてしまったり、忘れ物が多かったり、一人でいることを好んだり、その人の「性格」として片付けられてしまう人もいる。我々全ての人間が顔が違うように、脳の機能にも「違い」があるのだ。


 福祉の分野では、「障がいは治す」ではなく「違い」と捉えることを基本としている。一方、教育分野でももちろん「違い」を認めるということはしているが、上記のとおり目に見えないために全ての子をいったん脳の機能障害ではなく、「今はまだ学習途上で、教えれば学習できるもの」「できていないのは習っていないだけ(または怠惰なだけ)」とみられる。そこで目立ってうまくいかない子を、個別支援したり、特別支援教室に通級させたりする。

 ただ、そこで個別支援したり、特別支援教室に行く子は目に見える「違い」と認知してもらえたため、特別な支援を受けられるが、グレーゾーンの子は時折うまくいったりするため、生活上の困難は「努力すればできるもの」とされる。叱咤されることを通して、逆に自信を無くしたり、反社会的な行動をとったり、不登校になってしまったりする。現に社会福祉施設では、「学校で受けた傷のリハビリ」に来ている利用者も少なくない、と施設職員…。


 研修では、『7つの合理的配慮を行うことで、多くの問題が解決』でき、特に自閉症傾向のある児童はとても生活がしやすくなるということであった。一方、教育の分野に置き換えた場合、定型発達と捉えられている児童にとっては、「違い」は「のびしろ」と捉えられ、多くの「合理的配慮」と呼ばれるものは、「甘え」とみなされることが少なくない。それは更生、矯正の対象となり、指導を受けることになる。


 福祉の分野での「配慮」は教育の分野での「甘え」、福祉の分野での「違い」は教育の分野での「のびしろ」。

 この二つがよりよい形で交わるとき、そこに新たな教育と福祉の形が表れ、全ての子どもたちが伸び伸びと一人一人の命を輝かせる学校の姿が見えてくるはずである。

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