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相手への想像力って…すごい大切だと思うんです

『“経験しないと分からない”ということを分かっている』かどうかが、相手への想像力(優しさ・謙虚さ・寛容さ)に繋がるのではないか?という少しややこしい話。

 

 アメリカンフットボールの公式戦では、会場が東京のため前日に東京のホテルに宿泊し、翌日の試合に臨んでいた。夜、一人風呂に入りながら、またベッドに横になりながら、『明日の試合の中で脳しんとうを起こし、還らぬ人になるのではないか』という恐怖と戦いながら翌日を迎えていたことを思い出す。会場入りからのタイムスケジュール、動きの動線、試合前のメンバーへの声かけ、OBからの指示、その日のゲームでのアサイメント(作戦のようなもの)の確認。今思えば、ものすごい重圧の中でよく戦っていたなと思う。

 プレッシャーに押しつぶされそうになるという経験をしていると、プレッシャーを感じて困っている人に対して深く共感することができる。恋愛で深く傷つき、心に傷を抱える経験をしていると、小説や映画を観たとき、または失恋に関する話を聞いたときに深く共感することができる。親族を亡くし、悲しみに打ちひしがれる経験をしていると、家族を亡くし、悲しんでいる人に深く共感することができる。

 人は、自分の経験したことをとおして相手への深い理解を得ることができる。では逆に、経験していないことは分からないのだろうか。

 あくまでも個人的な感覚としては、経験していないことは〈本当の意味〉では分からないと思う。このことは、佐伯胖氏も「学びの構造」でも「〈本当に〉わかる」とはどういうことかについて論じているし、養老孟氏も「バカの壁」の中で、「分かったつもりになっている人が多い」と言っている。

 ただ今回、話題にしたいのは『経験しないと分からないということを分かっている』かどうかで、他者への寛容さや謙虚さに違いがあるのではないかということである。経験しないとわからないが、様々な経験をしてきた人であれば、経験しないと分からないということを分かっているはずである。そしてそこに、相手への優しさや寛容さ、謙虚さがあるように思う。そんなことをふと思った。

 学校では、それぞれが何か思いや悩みを抱える中で登校し、一日生活を送っている。苦しいのは自分だけではないかもしれない、相手も何か抱えているかもしれないという相手への想像力を働かせるだけで、クラスの人間関係はよりよくなっていくと思う。

 最後に自戒の念を込めて、ある対談で養老孟さんが語っていた言葉を引用したい。
…日本は「お互いさま」の国だったりもしますよね。キリスト教の国のように教会の活動に組み込まれたチャリティとかボランティアはありませんけど、袖すり合うも他生の縁とか、情けは人の為ならずとか、そんな「お互いさま精神」のようなことでなんとなくやってきたところがあると思うんです。(一部抜粋)

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