ビッグヒストリーの前置きの話
ビッグヒストリーという言葉があるらしい。
これはビッグバンから現在までの歴史を研究する学問分野で、わりと新しいもののようだ。
学校の授業なんかではそんな広い範囲を扱うことはほとんどなくて、範囲を絞って教えることが多い。
例えば人類が生まれた後のことなら、歴史とか考古学とかいった分野で研究されていて、高校でも日本史とか世界史の授業がある。
そういった1つの種族の1個人がやったことなんかには興味のない分野もあって、地球が生まれて以降だと地球科学とか古生物学とか、高校の科目で言う地学と生物の中でその勉強をする。
これが地球が生まれる前の話になると宇宙物理とか原子核物理だとか、物理の分野なんかで研究が行われている。
今言った地学・生物・物理でも過去の出来事を研究しているのはその分野の中の一部だけではあるんだけど、まあ言いたいのは、これまで別々の分野で語られてきたこれらの歴史の間には本当は連続性があって、一連の時間の流れとともに語ることができるということ。
そんなこんなの前置きで、前回に引き続き、宇宙の歴史・生物の進化の歴史・人類の歴史の間には連続したつながりがあるんじゃないかという話をしようと思う。
前回はこのつながりと関係がありそうなキーエピソードを2つしたので、今日は生物の進化の歴史のざっくりとした話をして、それからその歴史の最初と最後が宇宙だったり人類の歴史とつながっているんだって感じで話をまとめようかな。
ちなみに前回書いたっていう2つのキーっていうのは、1つは星の中で起こる核融合とスーパーノヴァによって生み出された原子が僕たちの体の材料になっているっていう話で、もう1つはチスイコウモリの戦略を例に出して話したもので、生物には遺伝子によって共有されている行動のルールがあって、一方で人間は法律とか宗教とかいったものでルールを共有していて、それぞれが協力的な社会を維持しているっていう話でした。
そんなこんなで本題、ざっくりとした生物の進化の歴史について。
っていってもいきなり進化の過程で起きたことを頭から話していっても味気ないし、どんな風に話していこうかな。
ところで、哲学の世界には“神の存在証明”というものがある。
これは推論によって神の存在を証明しようとした全部で3パターンくらいの論証のことで、その尽くが哲学者のイマニュエル・カントさんによって否定されているんだけど、ここではその内の1つ“目的論的証明”について話をしたい。
“目的論的証明”というのは、「この世界は非常に複雑かつ精妙にできていて、とても自然に出来上がったとは考えられない。これは人知を超えた存在によってこの世界がデザインされたことの証明である。」というもの。
この論証の中の“この世界は非常に複雑かつ精妙”だというのを示す一番の例は、僕らヒトを含む生物の構造なんじゃないかと思う。
これに対する偉大なる哲学者カントさんの反証はここでは置いておいて、一方話は凡庸なる一般人である僕個人について。
僕は大学生の頃、生物の進化について真正面からぶつかったとある本を読んで、世界の真実を知ってしまったかのような万能感めいた感覚を抱いた覚えがある。
このとき理解した“世界の真実”というのは、「この世界では過去におかしなことは一度も起きていなかった」ということだ。
歴史上はじめて、科学的な形で進化を唱えたのはチャールズ・ダーウィンだと言われる。
彼が立ち上げた進化論はその後様々な発見によってアップデートされ続けたが、それでも今もなお普遍性を保ち続ける概念が1つある。
それは“自然淘汰”だ。
自然淘汰とは自然環境の中ではその環境に適した変異を持つ個体が選択的に生き残ることで、それが幾度となく世代を重ねることで進化が起こる、みたいな説明がよくされるけれど、僕が感動したのはこの淘汰が持つ別の側面だった。
言ってしまえば当たり前なのだけど、この淘汰という考え方は「現在生きている生物は、過去にも生きていたか過去生きていたものから少しだけ変化したものだ」ということを前提としている。
何か人知を超えた存在が手を加える必要がない、そんなものがなくとも生物は進化して複雑で精妙な姿を手に入れることができるのだということに僕は感動を覚えたのだった。
さて、目的論的証明による神の存在証明が自然淘汰によって否定されたところで、じゃあ実際にどのような過程で生物が生まれて、その後進化していったのかということを話をしよう・・・と思っていたのだけれど、前置きしか書いていないのにもう結構遅い時間になってしまった。
続きは明日書こう。
それではおやすみなさい。