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赤い糸


 小田急線の善行駅へ着いたときは、夜十時近くになっていた。残業を終え、一人の部屋に帰りたくなくて飲んだ生ビールが、胃の中に重くよどんでいた。暗い空が時折青白く光り、雷が近づいたことを知らせ、それに怯えるように、タクシーを待つ人々が乗り場の屋根の下にかたまっていた。こんな天気の夜、タクシーはあてにならなかった。昌子は家まで十五分の道を歩くことに決めた。

 駅前から続く急な坂を半分ほど下ったとき、大粒の雨が顔にあたった。こうなったら走るしかない、バッグをきっちり胸に抱えて走り出すのと、ざっと雨が降り出すのとがほぼ同時だった。坂を降り切る手前に大きな樫の木があり、その先に車庫があることを思い出し、足を速めたそのときだった。

「この傘にお入りなさい」

 いきなり黒い傘が昌子の頭の上にさしかけられた。白いワイシャツの男がスッと寄り添い、遠慮がちに腰に手を回してきた。男の体温は少し冷たく感じられたが、昌子はつと身を彼の方に寄せていた。
……こんなふうに男性と歩いたのは、もう二十年も昔のことだ…今わたしはゆきずりの男にさえ人恋しさを感じている……
 そんな思いを隠すように、昌子は男の顔をななめに見上げながら言った。

「すみません。肩が濡れてしまうでしょう?」
「いや、お宅はどちらの方ですか」
「あの坂を登ったところなんです」
「ぼくはあの坂の途中の社宅に住んでいるんです。ちょうどよかった」

 男のさす指先は、その社宅の方向から少しずれていた。嘘かもしれない、と昌子は思った。

 道はほんの少しの間平坦で、また右へだらだらと登りになっている。坂の手前にコンクリートのひさしのあるガレージが見えた。しかし、シャッターが閉まっていた。昌子はそのわずかのひさしの下に入り、ここで雨宿りをするから先に帰ってくれるよう、男に言った。しかし、男は予想通り昌子の横に身をすべりこませ、帰ろうとはしなかった。

 「いや、ひどい雨だ。僕たちは行いが悪いらしい」

 男は親しげに言った。かすかにウイスキーの匂いがした。街灯のほの暗い光の中で、昌子は初めて男の顔を見た。昌子より少し若く三十五歳くらい、がっちりとした体つきをし、切れ長の目で昌子の顔をのぞきこむように見つめていた。

 「しかし、あなたのような方に会えてよかった。僕たちは縁があるんですね」
「きっと”赤い糸”で結ばれているんでしょう」 

 昌子は遊び慣れた女のように、唇の端に皮肉な笑いを浮かべて言った。男は声を立てずに笑った。
……いつもの私じゃない、でもこんな私があっていいんだ…
心のなかでそんな声がした。

 雨は激しく降り続き、衰える様子はなかった。坂の上から何本もの土色の水の流れが足元にせまり、そのなかに無数の雨がするどく突き刺さっていた。男は一層親し気に、雨でぬれた昌子の前髪を指先で軽くかきあげるようにして言った。

 「あ~あ、こんなに濡れてしまって…」

 ぬれた腕だけでも拭こうと、バッグからハンカチを取り出すと、バラの甘い香りがあたりに広がった。香水をしみ込ませておいてよかった…大人の女はこういうことをするものだ…。昌子はほんの少し胸がはずんだ。

 わずかに雨足が弱まったと感じたとき、昌子は思い切って軒先から足をふみ出した。

 「もう帰りましょう!」

 男も慌てて昌子を傘の中にひきいれるようにして歩き始めた。腰に回した手がさっきより強くなり、その手が少しずつ上がって来るのを感じた。

 すぐに彼が住んでいるという社宅の前まで来た。しかし、男は帰ろうとはしなかった。その手は胸まで届き、昌子を胸に抱いたショルダーバックごと抱きしめようとした。黒い傘が生き物のよう雨の中を転がった。

「やめて!」

 逃げようとしたが、足がもつれて走れない。
辛うじて道の真ん中によろけ出た昌子の目に、坂の上から迫ってきた車のヘッドライトがにじんで弾けた。

キー!

激しい恐怖が身体を貫き意識が途絶えた。

目覚めるとベッドの中だった。かけつけてくれた姉が顔を覗き込んで言った。
「昌子、よかった!」
「おねえちゃん、わたし・・・」
「車に轢かれそうになったんだよ。でも、すんでのところで助かって。手足は擦り傷だらけだけど、異常ないって。頭を打ったから今日は入院して様子みようね。もうちょっと道の真ん中にいたら、轢かれてたのによかったね、
なにか足に絡まってたみたい。赤い糸のようなもの。心当たりある?」
「え?そんなものないわよ」
昌子はふと足がもつれてよく動かなかったことを思い出した。
赤い糸って?そんなのありえない・・

「あの・・・・男の人は?」
「え?そんな人いたの?」

 昌子の話を聞いた警察官は、その男を探したが消息はつかめなかった。
ただ、事故のあった場所近くで、交通事故で妻を亡くした男が自殺した、という事件があったことが分かった。ほんの数日前の、やはり雨の日の夜・・・

           おわり(2000文字)

          


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