【谷根千迷宮 古書キタン(仮)】_04
(続き)
第四章:祭りの夜
満月が雲間から顔を覗かせた時、私は根津神社の境内に立っていた。
夜気を震わせる風の音。提灯の灯が揺らめき、朱塗りの鳥居が月光に浮かび上がる。昼間の喧騒は嘘のように消え、かわりに古い祈りの痕跡だけが、闇の中で息づいていた。
「来てくれたんですね」
背後から響いた声に振り返ると、そこには神宮寺の姿があった。
白を基調とした装束に身を包んだ彼の姿は、まるで別の存在のように思えた。月光を浴びた横顔には、禰宜としての威厳と、男としての妖しい魅力が交錯している。
「さあ、行きましょう」
彼に導かれるまま、私は神域の奥へと足を踏み入れていった。石畳を踏む足音が、静寂を震わせる。立ち入ることを許された者だけが知る小径を進むにつれ、現実の世界が遠ざかっていくような感覚に襲われた。
やがて、古びた建物が姿を現す。障子越しに揺らめく灯りと、かすかに漂う香木の香り。そして、どこからともなく響いてくる笛の音が、この場所の非日常性を際立たせていた。
「ここが、儀式の場所です」
扉が開かれる音とともに、甘美な空気が私を包み込んだ。
広い部屋の中央には、花と灯明に縁取られた祭壇が設えられ、その周りには白装束の男女が座していた。彼らの表情には、日常とは異なる陶酔が浮かんでいる。
「儀式を始めましょう」
神宮寺の声が響き渡る。その瞬間、部屋の空気が一変した。
参加者たちは輪になり、低い声で祈りの言葉を唱え始める。
その声は次第に大きくなり、やがて一つの律動となって空間を満たしていく。
私の体が、それに呼応するように熱を帯び始めた。
鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。体の奥底で、何かが目覚めようとしているような感覚。それは欲望とも違う、もっと根源的な何か―。
「水鏡さん」
気づけば神宮寺が私の前に立っていた。月光に照らされた彼の瞳には、これまで見たことのない情念が宿っている。
「あなたも、この儀式の一部となるのです」
その言葉に導かれるまま、私は祭壇へと歩み寄った。中央に置かれた青銅の器には、月光を映して揺らめく液体が満たされている。
「これを飲むのです」
神宮寺の声が、耳元で囁くように響く。
「これは神聖な水。飲めば、あなたも私たちの一員となれる」
震える手で器を受け取る。液体からは、甘く官能的な香りが立ち昇っていた。
躊躇いながらも唇を近づけると、神宮寺の手が優しく私の背を支えた。その温もりに、最後の理性が溶けていく。
一口、また一口。
喉を通り過ぎる液体は、まるで熱い蜜のよう。それは瞬く間に体中に広がり、血管を通って全身を巡っていく。
やがて視界が揺らぎ始め、感覚が研ぎ澄まされていく。
周囲の声が遠ざかり、かわりに体の内側から湧き上がる快感の波。
「受け入れるのです」
神宮寺の声が、意識の深部まで染み込んでくる。
私は、自分が何者かも忘れ、ただ本能の赴くままに身を委ねていった。そこにあるのは、欲望でも理性でもない。もっと純粋な、魂の震えるような歓喜―。
意識が闇へと溶けていく直前、私は確かに見た。 神宮寺の瞳に宿る、禁断の炎を。 そして、これから始まる秘儀への、甘美な予感を。
(続く)