母親になって自分が瀕死
こんばんは。
今夜も酒を流し込むアラサーである。
最近はグレープフルーツ酎ハイが
お気に入りだ。
某ミニッツメイドみたいな
濃縮グレフル味の酎ハイが
最近多く出ていて嬉しい。
前回で
このアラサーが
シングルマザーであり母であることを
カムアウトしたので
それに即して
母親であることについて
引き続き書こうと思う。
正直、
正直言ってだよ、
母親になって
わたしという個人は殆ど瀕死である。
もううんざりだ。まじで。
わたしという人格はどこへやら。
というのも
わたしは人生において、
"自由であること"に
ものすごく、
重きを置いてきたと思う。
だから
中高生時代は、
自分の一存でどこへも行けず
なんにも出来ず
大概鬱屈としていた。
そして大学へ進学して
実家を出て
金を稼ぎ、学校へ行ったり行かなかったり、
思いつきで遠い国へも行ったりした。
それからフリーターになって
親の庇護も完全に離れて
とにかく自由だった。
なんだって出来たし、
どこへだって行けた。
今でも、
それがわたしにとって
1番自由な時間だったと思う。
その分生活は不安定だったが
それでもあまり得るくらいの
自由。
とにかく限りない自由。
一変したのは
やはり
子供が産まれたことだった。
物理的に、
子から離れられない。
授乳、寝かしつけ、食事の世話、排泄の世話、
幼稚園の送り迎え、遊び相手、話し相手、
絶え間なく、
産まれてからずっと続く養育。
私がいないと
生きられない存在という
大きな大きな、重責。
それでも考えてみれば
私は離婚をしているので
親権を手放すことだって出来たし
今だって養育を他に託す選択肢は
恐らくあるんだろう。
だけども
1番わたしを苦しめるのは
それが絶対にできないくらい
愛おしいという呪いである。
呪いのように
子が愛おしい。
できること全てをしてあげたい。
もしものことがあれば
自分の命を投げ打っても
子を守りたい。
それは殆ど呪いだ。
それは母性とかいう
温かく優しさに溢れたものではなくって
実際のところ
もっとずっしりと重々しく
鉄で出来た足枷のような重苦しい愛だ。
わたしの意思とは関係なく
その呪いは存在しているように思う。
わたしの意志は本当は
どこまでも自由に、
いつでもどこまでも行けることを
未だに望んでいる。
夜中、
ゴミ出しに外に出たとき
私はいつも
このまま財布だけ持って
新幹線に飛び乗って
何処かへ消えてしまいたいと思う。
だけどそんなことは出来ないと
分かっている。
強烈な呪いのせいで。
そんなことを思っていると
自分の人生はもう終わった、
そんな思いに駆られる。
わたしがわたしの為に生きられる時は
もう終わってしまったんだって
泣きたくなる。
でも、
こう思うことを認めてあげたい。
わたしがわたしの人生を
生きたかったことを、
ちゃんと認めてあげたいのだ。
もうわたしはこの
愛する子の呪いは解くことは出来ないから
騙し騙し、
わたしの人生を生きたかったことを
ちゃーんと思い出して、
少しずつ少しずつ合間を縫って
隙間に自分の人生を詰めていく。
母親になったからって
全てを奪われなくていいと思うのだ。
現実問題、
全く自分の為に生きるのは無理だけど
感じる息苦しさを認めて
少しでも
自分の人生を取り戻したい。
やりたいことをやっていたい。
それは同時に
自分の人生を生きられないことを
子どものせいにしないことにもなると
わたしは思う。
わたしは愛する我が子に
自分のせいで母親が人生を諦めた
そう思って欲しくない。
だから今日もわたしは
自分の人生を生きる隙間を探している。