表現とは
今教育施設は、季節行事に向かって走っているところが、多くあるのではないだろうか。
私の所属している園でも然り、である。
10月の運動会にも表現活動があったのだが、11月頭に子どもから「最近劇やってないよねぇ。」との声が上がった。
「そうね、どうしたい?」と聞くと、「え、やりたいよー?!」と”当たり前でしょ”と言わんばかりにこたえていた。
早速集まりの場面で話を振ると、他の子も同様「やりたい!」と声が上がり、劇活動へと入っていく。
私は小さいころから表現活動が好きで、それは劇や歌・踊りに合わせてなにかを作ることや、絵の具で描くことなどの、活動が好きだった。
やっていてワクワクしたり、引き込まれたり、人に見せたく(見てもらいたく)なったり。
そういう際の相手の反応はもとより、やって楽しむという気持ちの方がが大きかった。
だから、子どもとのそのような活動は、楽しくて。
だから、「ああしようかな。」「こうしたら、みんなどういう反応だろう。」「こっちの方が好きかな?」などたくさんの思いが、湧いて生まれてくる。
反対に、このような活動が苦手な保育者もいるのだろうと思う。
同じチームの中に、一人だけあまりうまく回っていないグループがある。子どもの顔触れや組み合わせでも随分雰囲気が違うのだが、どうもそれだけではない。
けれども、今ヘルプで入る私ができることを、と思い、声をかけて毎日一緒に作戦を考えて臨んでいる。
ある日の夕方、いつもと同じように作戦を練っていた時のこと。
その日の保育中の“間”が気になり、聞いてみた。「あの”間”には気がついている?あれは、なんで”間”があくの?」と。
"間"自体が悪いのではなく、ただそのグループメンバーの顔ぶれ的に、子どもに意図的に発しているわけではない"間“は致命的だった。
私の問いに、彼女はずいぶん時間をかけて言葉を生み出した。
思いつかずに時間をかけて考えたのかもしれないし、わかっていたけれども言葉を選んでいたのかもしれないし、はたまたそれを言葉にするのが嫌だったのかもしれない。
そして私は彼女から、私は何を聞きたかったのか。
チームで行う良さと、難しさの両面を日々感じているが、私が苦手な(いや、嫌いなかな?)”人を縛ること”つまり、決めつけたり、引っ張ろうとすることを、最近自分の中に感じることがある。
決められた何かをしようとすると、自分の中で思っている「しなくていいこと」「してみたいこと」「したくないこと」との整合性が図れず、揺らいでしまう。
もっと柔軟でありたい。
何でもありでいたい。
自由でありたい。
それが難しく感じるのは、面白さなのか。
はたまた窮屈さなのか。
目の前の子どもと保育者と、それぞれが楽しんでまたは何かを感じたり考える機会をともに持ちたいと願っているのだから、大事に過ごしていきたいと考える。
明日の作戦は、彼女のやりたいこと、実現したいことを聞こう。
そして、それには私が何をやったらいいか、何がやれるかを聞いてみよう。
もっと聞くということを能動的にやってみようと思う。