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 さて、別の記事で、諸星大二郎の『生物都市』や、LSD体験セッションの中で鉱物的結晶に同一化する変性意識、「鉱物的意識」の興味深い事例について見てみました。

 ところで、それらの体験報告は、しはしば古代的な宗教文献などでも語られる、日常意識の背後にある「遍在的で、全一的な、宇宙意識」の様態をさまざまに夢想させるものでもあります。

 今回は、その関連でアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスを取り上げてみたいと思います。

 ボルヘスの傑作の特徴は、小さな物語(掌編)の中に、無限的で全一的なる宇宙を、凝縮するかのように結晶させた短編群です。 
 私たちの人生を形づくる、普遍的な素材―記憶、夢、書物、時間、想像力などを使い、それらを別物のようにとらえる巧妙な仕掛けを通して、私たちの日常現実の中に「無限の宇宙」を侵入させる幻視的な物語が展開されていきます。

 さて、その彼の小説の中に、『アレフ』という作品があります。
 『アレフ』は、そのようなボルヘスの趣向が、一人称の語りで、比較的、直接的に表現された体裁になっています(彼の多くの物語は、迂回と晦渋により、もっと間接的に、人を巻き込んでいくような語り口です)。

 さて、作品『アレフ』に出てくる、アレフとは、「ある架空のもの」を名づけた言葉ですが、それは、食堂の地下室の片隅にある「宇宙のすべてが見える」ある球体のことです。

 物語は、アレフのことを知る、ある知り合いが、とある屋敷の地下室にあるアレフの存在をボルヘスに語り、ボルヘスがそれを地下室の暗闇に入って、実際に確かめてみるというストーリーとなっています。

「何よりも私を驚かしたのは、重積や透過といった現象もないのに、すべてが同一の点を占めていることだった。私のこの眼が見たのは、同時的に存在するものだった。私がこれから書写するものは継起的になるだろう。言語が継起的なものだからだ。それでも私は、なにがしかを捉えることができるだろう」
「階段の下の方の右手に、耐え難いほどの光を放つ、小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。最初は、回転していると思った。すぐに、その動きは、球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、幻覚にすぎないことを知った。〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った。すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。
私は、波のたち騒ぐ海を見た。朝明けと夕暮れを見た。アメリカ大陸の大群集を見た。黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。鏡を覗くように、間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。一つとして私を映すものはなかったが、地球上のあらゆる鏡を見た。ソレル街のとある奥庭で、三十年前にフレイ・ベントスの一軒の家の玄関で眼にしたのと同じ敷石を見た。葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、などを見た。熱帯の砂漠の凹地や砂粒の一つ一つを見た。インヴァネスで忘れられない一人の女を見た。乱れた髪を、驕りたかぶった裸を見た。乳房の癌を見た。以前は木が植えられていたが、歩道の土の乾いた円を見た。アドロゲーの別荘を、かのフィレモン・ホランドの手になる、プリニウス英訳の初版本を見た。あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た(子供の頃の私は、閉じた本の文字たちが、夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないのが不思議でならなかった)。夜を、同時に昼を見た。(中略)あらゆる点から〈アレフ〉を見た。〈アレフ〉に地球を見た。ふたたび地球に〈アレフ〉を、〈アレフ〉に地球を見た。自分の顔と自分の内臓を見た。君の顔を見た。そして眩暈を覚え、泣いた。なぜならば私の眼はあの秘密の、推量するしかない物体をすでに見ていたからである。人間たちはその名をかすめたが、誰ひとり視てはいないもの、およそ想像を絶する、宇宙を」

『アレフ』鼓直訳(岩波書店)


 さて、一見なんでもない日常の風景の一角に、「宇宙の全体」が、そこに含まれているような、隠された秘密の通路が存在しているという物語です。
 
 実際、異界につながる「隠された秘密の通路」が、日常生活の中に存在しているという夢想は、私たちの多くが、子供の頃、なんとなくもつものです。
 また、シャーマニズムや秘教的なアイディアにおいても、そのようなことは普通に語られています。
 この『アレフ』は、或る意味、私たちの心の奥底にある、それらの〈構造〉を投影したものであると考えることもできます。
 そしてまた、見方を変えると、ボルヘスに見られるような、「無限なる宇宙を、小さな物語に閉じ込めたい」という欲望自体が、そのような、私たちの心の構造や渇望を、映し出していると考えることもできるのです。

 そして、私たちが、ボルヘスを読む快楽とは、彼の作品にある、「無限の宇宙を凝集したような高圧点」を味わうところにあることを考えると、その意味合いの興味深いのです。
 そのような箱庭的ミニチュアにある凝集への欲望には、「無辺にひろがる宇宙的な意識」と、「局所的で場所的な日常意識」との間に、結合や振幅をもたらしたいという、私たちの渇望がひそんでいると類推できるからです。
 そして、この「結合や振幅」への指向自体が、シャーマニズム的な欲求であるということもできるのです。

※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。


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