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外見だけで人を判断するなと言うけど内面の7割ぐらいは大体顔に出る
己の顔面に激しいコンプレックスがある。
コンプレックスを抱くに至った理由は多岐に渡るのだが、その中でも一番の要因は弱そう、ということ。極度のナメられ顔なのだ。
っていっても想像がつきにくいと思うので具体的にどんな顔かというと、まずお笑い芸人の『チュートリアル福田』と『ヤジマリー。』を画像検索していただきたい。その後に『ユースケ・サンタマリア』を画像検索し、あなたの脳内にぼんやりと浮かんでいるその残像的人物がギャンブルで大負けして全財産を失いすべての覇気が無くなったような顔をしてるのが僕です。どうです、すげー弱そうでしょ。
そしてそんな人生お先真っ暗ナメられ顔をしているからなのか、旅行先や観光地に出かけた先などでは道行く人々に写真撮影を依頼されることがやたらと多い。
『観光者の写真撮影担当』というプラカードを首から提げてるわけでもないのになんでこんな僕ばかり狙ったように「写真撮ってもらっていいですか」と言われるのか不思議だったのだけど、最近それは僕が異様なまでのナメられ顔をしてるからなんじゃないかと気付き始めた。
如何にもコワモテで腕とかに「おとなのお絵描き」がされてるような人間にはなかなか撮影を頼みにくいだろう。逆に如何にも弱そうで休日に普通にぬり絵とかして遊んでそうなコイツなら絶対に写真を撮ってくれるだろうと思われているのだ。まったく勘弁して欲しい。もう28歳にもなった大の大人が休日にぬり絵なんかして遊ぶわけねえだろ。ずっとベッドの上でゴロゴロしながら寝てるだけだバカヤロー。
別に写真を撮ること自体は良いんだけど、毎回困るのがシャッターを切る時になんて言うか問題だ。僕は非常に繊細かつナイーブで気にしなくても良いことを気にしてしまうタチの人間なので、シンプルに「はい、チーズ」というのが気恥ずかしくてなかなか出来ない。
他人の集合写真を撮るのは大体賑わった場所であることが多く、そういう人の多い場所である程度大きな声を出さなくてはいけない状況がストレスなのだ。
誰もそんなこと気にしてないと言われればそれまでなのだが、状況をもう少し細かく説明すると、まず僕もその時誰かと一緒に複数人でその観光地的な場所へ来ているわけだ。
そして僕を含むグループの人間は、僕がシャイで内気で無口で鈍臭くて無能で軟弱でハゲかかっていて虫けら以下の下等な存在で、いつも集合写真の隅っこで写ってるような存在感激薄人間であることを知っている。僕のことを出来損ないの無価値人間だと思っているのだ。僕は彼等に思想・良心の自由とは一体何なのかについて勉強してこいと言いたい。まあ今はそれはいいとして。
色々な場所へ行き、歩きながらすれ違う別のグループがちょうど集合記念写真を撮りたがっているタイミングで僕は必ず目をつけられる。
なんで他にも僕と一緒に来ている奴はたくさんいるのに僕がいの一番に目をつけられるんだろう、と思うのだがやっぱり「コイツなら断られなさそうだし、万が一断ったとしても片手でひねり潰せそうだしな」と思われているのだろう。僕が集団行動が苦手で孤立しがちだから他の複数人と少し距離を置いて行動してる時間が長いというのもあるが。なんか自分で書いてて惨めになってきた。誰かコイツを助けてやってくれ。
それで声をかけられた人にスマホやらカメラやらを渡されて知らないグループの写真を撮ることになるわけだが、やっぱり自分の性格を知られてる人間がそばにいる前で大きな声で「はい、チーズ」と言うのには抵抗がある。
なんていうか、「いつも人前に出ることを好まないアイツが窮地に追い込まれて必死になってやがる」と思われてるんだろうなとか、「はい、チーズ」なんて言える柄でもない陰々滅々とした性格のアイツは一体どういう風に写真を撮ってあげるんだろうというゲスい好奇心の目で観察されてるんだろうなとか、余計なことばかり考えてしまう。被害妄想を特技とする僕にとって、ネガティブな想像はほぼオートマティックに膨らんでしまうのだ。
こういう局面において、僕が取る選択肢はいくつか存在する。
これは僕がその時共に行動してたグループの人たちとの関係性にもよるのだが、まずその時のコンディションが良くて、その時共に行動してる人間が僕が奇行に及びがちであることを知っている場合。
この場合はもう逆に吹っ切って大きな声で「はい、チーズ」と言う。最初からそうしろと言う話だが、これはコンディションが絶好調の時にしか出来ないのだ。何故ならコンディションが悪い時は「はい、チーズ」と全力で叫ぶとそれだけで「ハァ……ハァ……肺活量と精神力の使用限度を超えてしまった……」となり、その場でぶっ倒れてしまうから。先にも述べたが僕は非常に繊細でナイーブな生き物なのだ。
では、そういう風にコンディションが万全でない時はどうするのかというと、伝家の宝刀「いきま~す、3、2、1……(カシャ)」戦法を採用する。
こっちの方がフレーズ的に「はい、チーズ」よりも羞恥心を感じなくて済むからね。その時一緒に行動してる人間に「はい、チーズ」と言ってるところを見られたくないという臆病な自尊心と尊大な羞恥心が働いた場合大体これ。「3、2、1……(カシャ)」って言う方がなんか事務的にやってる感出るじゃんか。
でもたまにこの(カシャ)って音が聞こえにくい時があって、そうなると被写体側から「えっもう撮った?シャッター押した今?いつまでこの表情作ってりゃいいんだよ」という困惑顔をされることになるので諸刃の剣といえば諸刃の剣である。
あとは、え~……それぐらいのもんか。いくつか選択肢が存在するって書いたけど「はい、チーズ」と「いきま~す、3、2、1……(カシャ)」の2パターンしかバリエーションがなかった。
自分の中でもっとパターンがあると思ってしまったのは、シャッターを切る時に「はい、チーズ」とかではなく、ものすごく奇天烈な文言を吐いたらどうなるのだろう、という妄想をよくしてしまうからだろう。
たとえば「いきま~す、はい、チーズ」ではなく「ウホホホ~~、はい、ゴリラ☆」と言ったらこの写真撮られてる側の人間はどんな表情するんだろうとかよく考えてしまう。
おそらく意表を突かれて真顔になるか、「え、何この人こわ……」という戦慄顔になるだろう。シャッターを切った後に画像を確認して被写体が律儀にドラミングのポーズを取っていたとしたら僕はその人を頭の回転の速さという項目でギネス世界記録に申請したい。
あとは「いきま~す、3、2、1……(カシャ)」ではなく「いきま~す、3、2、1……だっふんだ!!」って言ったらどうなるんだろうとかもよく思う。だっふんだ!!のタイミングで一旦スマホカメラを下ろして例のポーズをやり、被写体を爆笑させたところで改めてスマホカメラを持ち直しシャッターを切る、これこそが人の自然な笑顔を引き出すために必要とされるプロカメラマンの素養だってばよ!
脱線しすぎた。もともとは自分の顔が嫌いだという話だったのにいつの間にかプロカメラマンの素養の話になってしまった。このnoteを書いている筆者にある素養はプロカメラマンの素養なんかではなく変なおじさんの素養である。
話を戻そう。
鏡を見ると毎回嫌気が差す。そこに映っているのが変なおじさんだからではない。これから変なおじさんとして社会から見捨てられる将来性を過分に持った覇気のない青年だからだ。
今まで周りに流されるように生きてきたのだろうという意志薄弱さが顔面から伝わってくる。もともと内向的で臆病な性格なのが顔面に反映されているのだろう。
最近巷で流行っているMBTI診断というものがある。僕はその手の性格診断は基本的に信用していない。性格も、それに基づく信念やら理想やらも流動的であるのが人間の常だと思うので、回答式で性格を判断されてそれを真っ当に受け止めてしまうのには自分でも気付かない内に生き方を固定化してしまうリスクがあるからだ。
だから半信半疑で僕もそのMBTI診断をやってみることにした。2年前ぐらいのことだ。信用していないと言いつつやってみるのが底の浅い人間の特徴である。結果はINFJ、提唱者と呼ばれるものだった。
こんなもん期間を置いてもう一回やってみたらどうせ結果が変わるだろ、と思ってそれから3ヶ月ぐらい経った後にまたやってみることにした。結果はまたしてもINFJだった。どないやねん。
それから現在までの約2年ぐらいの期間中、計7回ぐらいMBTI診断をやったのだが、全7回ともINFJだった。どないやねん。っていうかMBTI診断めちゃくちゃ好きじゃねーか。7回もやってるし。
INFJは理想主義的で、他者を深く理解して支援しようとする傾向が強い一方で、自分の内面世界を大切にして直感的な洞察力と共感力を持っているらしい。困っている人にはいつでも手を差し伸べる優しさを持ってはいるが、集団行動は苦手で自分の意思を伝えることは苦手だという。欠点的なところだけ見事に当たっている気がする。
noteの他のユーザーの方の記事などを拝読させてもらっていると、結構このINFJに該当するという方が多い。世界的に見れば希少なタイプらしいけど、今現在noteしかSNSを運用してない僕の身からすれば、周囲に一番多いのはこのINFJである。そして記事を拝読して思うのが、みんな優しくて、それ故の生きづらさを抱えているなということ。他人を傷つけたくないという心持ちの人が多いから、我慢しがちになって、それでストレスを抱え込んでしまうのだろう。
僕は自分自身のことを優しいとは思わないが、確かに他のINFJの方々と同じように何か頼まれごとをされた時にそれがどんなに嫌なことでもはっきりNOと断り切れないきらいはある。
それがたとえ「部屋に抜け落ちてた陰毛を収拾してミサンガを精製したんだけど、意中のあの子に直接手渡すのは恥ずかしいから代わりに渡してきてくれないか?」という依頼だとしても、嫌だと断り切れずにミサンガを手渡しに行ってしまうのだ(誰にどんな経緯でそんなこと頼まれてんだよ)。
INFJというのは、自己犠牲の精神が強いらしい。だから本来は陰毛の元所持者であるアイツが逮捕されるべきなのに、縮れに縮れきった真っ黒なミサンガを目のあたりにして悲鳴を上げながらあの子に通報されるのは僕で、結局アイツじゃなくて僕が独房での生活を強いられることになってしまうのだ。これがINFJの悲しき性よ。……いや、さっきからINFJ関係ないよね、完全にお前の自業自得だよね。
まあ冗談はともかく、写真撮影を依頼されがちなのもそういう自己犠牲的INFJ顔だからであり、自身の内面性ってやつが自ずと顔に出ちゃっているのである。顔だけで人を判断しちゃいけないってよく言われるけど、シビアな観点から見ると、ある程度性格っていうのは顔に出ると思う。これはあくまで個人の所感だけど、経験則的に。
なんかサッカーやってそうな顔してる奴は実際にサッカーしてるし、めちゃくちゃ本読んでそうな顔の奴は実際めちゃくちゃ本読んでるし、焼き鳥を串から外して食べてそうな顔の奴は実際に焼き鳥を串から外して「みんなでシェアしよ~」って言ってくるけど結局自分だけ他の人よりも多い分量を食うし、宗教に勧誘してきそうな顔の奴は実際に駅前でチラシを配ってるところを見かけることになるし、会社に「最寄り駅まではバス通勤してます」って申告してるのに本当はバスじゃなく徒歩で駅まで行って交通費チョロまかしてそうな顔の奴は本当に交通費チョロまかしてるし、大体そういうことは顔から受ける印象でわかる。
まあそこまで精度が高くはなくとも(というか後半の方はただの偏見だが)内面の7割ぐらいは大体顔に出てしまうのだ。
僕は臆病で自信がない、とても弱い人間だ。そしてそれが顔に反映されてしまっているという自覚がある。「写真撮ってください」と言われがちなのは、その人畜無害っぽい顔つきからナメられてしまうことによるものなのかもしれない。
僕は別に写真撮影を依頼されたくないという旨の主張をしてるわけではない。なんでわざわざ僕に「写真を撮ってください」と言ってきたのかは依頼してきた本人に直接聞かなければわからないが、その理由が「断らなそうだったから」じゃなくて「撮ってくれそうだったから」であれば良いな、と思うだけだ。この差は非常に機微なので上手く説明するのが難しい。
僕は「優しさ」と「弱さ」をよくはき違える。「優しさ」と「弱さ」と、「冷たさ」と「強さ」の境界線って一体どこにあるのだろうと常々思っている。他人から見て僕の顔は「優しそう」らしいけれど僕が自分から見て受ける印象は「弱そう」。
理想とする顔は他人から見て「優しそう」で、自分から見ると「強そう」。でも時折他人から「優しそう」以外で言われるのは「無表情」。それは人間関係の構築に苦手意識があるが故の無感情がきっと反映されているからだろう。
自分の理想とする顔になるためにはどういう内面性を持てばいいのだろうか。そのヒントは多分、「優しい」と言ってくれたり、「写真を撮ってください」と言ってくれたりする人たちの温かさを素直に信じられる強さを持てるようになることだろうな、となんとなく思う。
強さと優しさを兼ね備え、日々の些末な出来事に一喜一憂せず、noteで自己否定的な文章を書かずに済むぐらいの健康的な自尊心を抱き、人の顔だけを見て交通費の不正申告を判断せず、澄み切った眼を通してシャッターを切り、ゴリラのようにジョウブなカラダとジアイのセイシンを持ち、欲はナク、決してイカラズ、イツモシズカニワラッテイル。
サウイフモノニ、ワタシハナリタイ。
おわり