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【短編小説】虫捕り少年とキャンディババア【ショートストーリー】



 夏休みが始まった。


 14歳の夏休み。普通ならば友人と海に出かけたり部活に明け暮れたりするのだろうが、友人がおらず、パワハラ気質の顧問が嫌すぎて陸上部を1ヶ月も経たずに辞めたおれには特にこれといってやるべきことがない。


 しかしずっと家にいると母親、もとい純正ノーマルババアが全国に生息するすべての純正ノーマルババアの口癖である「宿題しろ」というフレーズを連呼してくるので、おれは早朝から家を出て、近所の公園の奥を進んだ先にある森に虫を捕りに出かけることにした。


 小学生の頃から、夏になるとその森に虫を捕りに出かけるのが好きだった。森は広く深く、少年期特有の冒険心を掻き立てた。


 それにおれの通う学校では虫捕りが流行っていて、でかいカブトムシやクワガタを捕まえてきた奴は何かと称賛を浴びていた。その中でもとりわけ希少性の高いオオクワガタはまだ誰も捕まえられておらず、誰が一番早く見つけて捕まえられるかという競争のようなことが行われており、内心おれはオオクワガタを捕らえたくて仕方がなかった。




 キャンディババアに初めて遭遇したのは、その森からの帰り道のことだ。 


 人気もそれほどない、閑散とした小さな公園。そこにはおれから離れたところで箒を持って落ち葉を掃いている、人畜無害そうな顔のおっさんが一人いるだけだった。


 ただ、それはベンチで腕組みをしながら踏ん反り返って座っている偉そうなババアを除けばの話だ。そのババアは患者服みたいな全身水色の洋服を着て、真っ黒なサングラスをかけている、明らかに異様なババアだった。年齢は60代後半~70代前半ぐらいだろうか。全体的に血色が悪く、肩の下の方まで伸びた黒髪はボサボサで、顔の上半分に皺が寄りまくっていた。


 思わずじっと見ていると、そのババアはこちらに気付いて声をかけてきた。


 「おい、何見てんだいガキ」


 痩せぎすの身体から出たとは思えない、地の底から響いてくるような野太い声だった。いきなりガキと言われてムッとしたおれは「なんだよ」と言い返した。


 「なんだい、ずいぶん擦れちまって。可愛くねえガキだな」


  ババアはおれの手元にある虫カゴを見て言った。


 「きったねえ手だなぁ、え?虫なんか捕って何が楽しいんだい」


 「おれの自由だろ」


 「何捕ってんだ?」


 「オオクワガタを捕るんだ」


 「クワガタだぁ?手袋ぐらいしたらどうなんだい。そんな汚ねえ泥だらけの手じゃ虫の方が嫌がって寄り付かねえだろうよ」


 「うるせえな。バーさんにゃ関係ないだろ。大体あんた誰なんだ」


 「あたしかい?あたしゃもう老い先長くない死に損ないのババアさね。お前さんみたいな、見るからに周りと上手く馴染めてないガキにちょっかいをかけることしか生き甲斐がないんでさぁ」

 そう言って、ババアはポケットから銀紙に包まれた小さいキャンディを取り出して手渡してきた。


 「そいつを舐めるといい。一人寂しく虫採りなんかしなくても良くなるぐらいの幸運が訪れるさ」


 ババアはそう言って笑うと公園の出口の方へ立ち去っていった。




 しばらくその場に突っ立っていると、遠くで箒を掃いていたおっさんが近づいて話しかけてきた。


 「君、大丈夫?あのバアさん、ちょっと頭がイカれちゃっててね。」


 「はあ」


 「あ、僕はここの地域でボランティア清掃やってる立野って言います。君の名前は?」


 「板倉です。板倉海斗」


 「板倉くんね。板倉くん、あのバアさん飯野さんって言うんだけど、最近ここらで悪い意味で有名になってる人なんだ。子どもに向かって飴を取り出して、『これを舐めれば幸運が訪れる』とかなんとか宗教臭いこと言って煙たがられててね。親御さんからの苦情も来てて、まったく勘弁して欲しいよ。肺の病気も抱えてて、身体もそう強くねぇんだから家で大人しくしててほしいんだがね。」


 「その飴、さっきもらいました」


 「うん、見た見た。実際に食べた子が何ともなってないのを知ってるから別に飴自体はたぶん問題ないんだろうけど、気をつけてね。やっぱり変な人だからさ。それに厄介なのが、絶対に一人で遊んでる子どもにしか声をかけないんだ。何のこだわりがあるのか知らないけど。まあだから、君も男の子らしく元気に友達と遊んだりしなさい。公園に来るのは良いけど、もう飯野さんにはあまり関わらない方がいいよ。じゃあね」


 そう言って立野のおっさんはまた元の場所に戻り、清掃を始めた。おれはこの話を聞いて、さっきのババアをキャンディババアと呼ぶことにした。

 もらったキャンディを舐めてみると、オレンジ味の、何の変哲もないキャンディだった。





 その次の日、オオクワガタ探しを終えて森から帰るとまたキャンディババアは公園のベンチに座っていた。


 「クワガタは捕れたか?」


 キャンディババアはまるでおれと長年来の知り合いでもあるかのように自然にいきなり話しかけてくる。おれは空っぽの虫カゴをぶら下げながら、首を横に振った。


 「そもそもお前さん、どうしてそんなにクワガタが捕りたいんだい?」


 昨日立野のおっさんに忠告されたように無視してその場を離れようかとも思ったが、おれは気付けばキャンディババアに向かって言葉を発していた。


 「おれは……オオクワガタを捕って、おれのことを何の取り柄もない無能だって馬鹿にしてきたクラスの連中を見返してやるんだ。オオクワガタを捕ればうちの学校じゃ英雄扱いさ。それに、おれは個人的に甲虫が好きなんだ。応援したくなるんだ。狭い虫カゴの中で、てめー自身が囚われの身であることも知らずに一生懸命生きてる姿を見てるとさ。いや、本当はわかってるのかもしれねえけどな。それでも一生懸命さが伝わってきて好きなんだ」



 キャンディババアはそれを聞いてしばらく黙っていたが、やがて口を開いてこう言った。



 「おいガキ、ひとつ賭けをしようじゃないか」


 「賭け?」


 「あたしの命が尽きるのが先か、お前さんがオオクワガタを見つけるのが先か。あたしの命が先に尽きたらお前さんの負け。あたしの命が尽きる前にオオクワガタを見つけられたなら、お前さんの勝ちさね。」


 「なんだそりゃ。縁起でもねえな。それにアンタが勝つのはアンタがくたばった時になっちまうじゃねえか。アンタに何の得があるんだよ」


 「昨日も言ったろう、あたしゃもう先が長くねえんだ。肺の病を抱えてるからよ。だから実益のあるもんなんざ何もいらねえ。ただひとつ、嬉しいのはお前さんの心に一生忘れられない罪悪感を植え付けられるってことさね。自分がオオクワガタを見つけられなかったせいであのババアは死んだんだ、もしクワガタを見つけられてたらまだあのババアは生きてられたかもしれねえって後悔を背負いながら一生生きていく、お前さんにそう思わせられることがあたしゃ快感で仕方ねえんだよ。ひひひひひ」


 このキャンディババアという生き物は、どうやら予想以上にだいぶ偏屈なババアらしかった。見た目だけじゃなく性格まで薄汚いときた。


 「めちゃくちゃな理屈だな。なんでクワガタを見つけられないことが死因になるのか意味がわからねえ。じゃあおれが勝ちなら何をしてくれる?」


 「うん、そうさね……あたしが持ってる秘密のキャンディをくれてやるよ。こいつを食べると、夢を叶えられる力を手に出来るんさね。こりゃ特別なモンだよ。本当に選ばれた人間しか口にしちゃいけねえ。だからずっと大事に隠し持ってたんだ。でももうそろそろ誰かに託さなきゃなんねえ。お前さんが勝ったらそれをやるよ」


 「そんな子ども騙しのモン貰ってもなぁ……」


 おれはもうすでにこの賭けに飽きかけていた。オオクワガタを捕ることに対しての情熱はずっとあったが、キャンディババアの言っている報酬品としてのキャンディなんか別に欲しくもないし第一そんなものあるわけがない。多分キャンディババアは妄想癖多めなババアなんだろう。適当に受け流しておれは公園をあとにした。





 それからもおれはほぼ毎日のように早朝は森にオオクワガタを捕獲に出かけ、日中はキャンディババアと他愛もないしょうもない話をして(大体が幸せは信じることによってしか訪れないとかいう抽象的でよくわからない話をされただけだったが)、夕方また森に戻ってオオクワガタを探すというルーティーンを繰り返した。


 立野のおっさんは公園に週3ぐらいの頻度で清掃をしに来ていて、最初のうちはまたおれに注意を促してきたが、途中からはもう無駄だと思ったのか、あるいは単純に面倒臭くなったのか、おれがキャンディババアと交流を持つことを黙認していた。 






 ある日のこと、いつものようにキャンディババアがベンチの手すりに頬杖をつきながら傲岸不遜な態度で話しかけてきた。


 「おいガキ、お前さんはクワガタを見つける以外にやりたいことはねぇのか?」


 「やりたいこと……ねえな」


 「そうかい」


 キャンディババアはめずらしく、そう言ったっきり黙ってしまった。


 「……早いうちにやりたいことを見つけろ、とか言わないんだな。ノーマルババアは言ってくるのに」


 「なんだい、ノーマルババアってのは」


 「うちにいる母親のことさ。典型的で月並みな文句しか垂れないからおれは純正ノーマルババアって呼んでんだ。世に言うババアが言いそうなことを言って、世に言うババアがやりそうなことをやる。うちの純正ノーマルババアも例に漏れずその一人だ」


 「……ひひひひ。お前さんはやっぱりガキだね。どうしようもないクソガキさね」


 キャンディババアは笑うとさらに皺が多くなり、その姿はまるで地獄からの使者のようにおれには見えた。


 「まあ、お前さんの母親が言ってることも間違っちゃいねえさ。やりたいことを見つけてそれをやるも結構、何もやらないならそれはそれでも良いさね。ただしどちらにせよ、その選択の結果待ち受けてる困難に立ち向かわなきゃいけねえのは自分だってことだけ、よく覚えときな。夢を持つにしても持たないにしても、それ相応の覚悟ってヤツがいるのさ」


 おれは正直キャンディババアの言っていることがよくわからなかったが、いつもサングラス越しに透けて見えるババアの不安定な目が、その時だけはまっすぐにおれの目を見つめているような気がした。






 そんなキャンディババアとのやり取りを経ながらおれの夏休みは刻一刻と過ぎ去っていったが、森の中でいくら探し回ってもオオクワガタは依然として見つけられず、見つけられたのはどこにでもいるノーマルタイプのカブトムシなどだけだった。 


 キャンディババアはおれの空っぽの虫カゴを目にする度に「毎日毎日性懲りもなく……よく飽きないねぇ」とか「ざまぁみろってんだ、あたしの勝利は目前さね」とか言いながらニタニタ笑った。

 そして皮肉にもその言葉通り、キャンディババアは日ごとに空咳の回数も、痰の絡む具合も増えていった。


 おれは呆れた。勝手にしてろ。おれはただオオクワガタを採って栄誉をつかみ取る、それだけだ。ババアの身がどうなろうが関係ないさ。







 夏休みも中盤に差し掛かったところで、おれが住んでいる地域に台風が直撃した。 


 流石に外出することは出来ず、家でぼんやりと過ごした。


 何の気なしにテレビをつけると、闘病をテーマにしたドキュメンタリー番組が流れている。キャンディババアの肺の病はどれぐらい命に関わるものなのだろうか。軽口を叩けるぐらいだから、きっと軽症なのだろう。そう思いたかった。そうでなくては困る。


 ベッドに寝転んで色々考え込んでいるうちに、何だかもうすべてがめんどくさくなってしまった。おれの悪い癖だ。


 冷静に考えればオオクワガタなんかどうでもいいんだ。それで称賛を浴びたところで何になる?たまたま運が良かっただけの人間として脚光を浴びたところでそれが人生において何のプラスになるというのだろう。おれはいよいよ馬鹿らしくなってきた。


 ふと、キャンディババアの「自分がオオクワガタを見つけられなかったせいであのババアは死んだんだ、もしクワガタを見つけられてたらまだババアは生きてられたかもしれねえって後悔を背負いながら一生生きていく、お前さんにそう思わせられることがあたしゃ快感で仕方ねえんだよ」という声が脳内再生される。


 めんどくせえな。そもそも俺には関係のないことだ。ムカつくんだよ全部。大体キャンディババアってなんだ。ただの変なババアじゃねえか。


 すべてのことが急にバカみたいに思えてきたおれは、窓に激しく打ち付けられる雨の音を聞きながら眠りについた。









 台風が過ぎ去った翌日、忌々しいぐらいにすっきり晴れ渡った空のもと森から帰ると、公園にキャンディババアの姿はなかった。きっと台風があって家で休んでたら快適すぎてそのまま出られなくなったのだろう。おれは体力が有り余ってるから平気だったが、よく考えてみればキャンディババアが今まであんな暑い中ほぼ毎日公園にいることが出来たのがおかしかったのだ。おれは適当に都合よくそう思い込もうとした。


 しかし、次の日も、その次の日もキャンディババアは公園に姿を見せなかった。


 空っぽの虫カゴを見てあざ笑う声を聞かずに公園を素通りし、おれは帰路についた。






 その夜、おれはなぜだかどうしても眠れなかった。キャンディババアのことがずっと頭の片隅にあってモヤモヤしていた。水を飲んでも、漫画を読んでもそれは解消されずに、ずっとおれの胸をざわつかせた。


 このままじゃ永遠に朝が来ない気がした。この不安を鎮めるには何をすればいいのだろうか。その答えを自分の中で導き出すのにそれほど時間はかからなかった。
 得体の知れない衝動に突き動かされ、おれは懐中電灯といつもの虫取りセットを持って、こっそり家を抜け出した。


 いつものルートを辿って、公園から森の中に入る。もちろん公園には誰もいなかった。ひっそりとした闇の中、懐中電灯で木々と葉を照らしながら森の奥へと分け入っていく。不思議と恐怖感はなかった。


 甲虫の居そうなスポットを探しながら、どんどん先へと進んでいく。懐中電灯であたりをつけた木の幹を照らすと、おれははっとした。


 そこにいるのはオオクワガタだった。図鑑で何度も見ていたから間違いないはずだ。この形状、角の開き具合。懐中電灯の角度を変えながら入念に確認する。紛れもなく、夢にまで見たアイツだった。

 おれは静かに湧き上がってくる興奮を抑え、手袋をはめた手でオオクワガタを慎重にそっとつかみ、虫カゴに入れた。

 やった。やったぞ。オオクワガタを手に入れた。これで学内ヒエラルキーのトップに君臨し、惨めな学生生活とはおさらばだ。キャンディババアとのよくわからない賭けにも勝ったんだ。

 おれは虫カゴを大事に抱え、家に戻った。





 翌日、おれはこの喜びをキャンディババアに報告しようと、オオクワガタを入れた虫カゴを携えていつもの公園へ向かった。ベンチの方に目をやる。だがそこに人影はない。


 まあ、キャンディババアがいつもあそこに座ってた時間よりはまだ早いしな。おれは時間つぶしに、昨日オオクワガタを捕獲出来た場所までもう一回行ってみることにした。


 森の中へ分け入り、木の幹を探す。たしかこの辺だったはずだ。捕獲場所に降り立ち、幹の表面をよく観察してみる。昨日は懐中電灯の明かりだけではっきりとはわからなかったが、そこにはたくさんの樹液が塗られている。一部だけ乾燥しているようなところを見ると、数日前に塗られたものだろうか。雨で半分ほど流されたような跡も見える。
 誰かおれ以外にもオオクワガタを狙ってた奴がいたのかな。だとしたらおれはラッキーだ。そいつより先にオオクワガタを見つけられたのだから。キャンディババアにもらった幸運を呼ぶキャンディのおかげだろうか。


 そんなことを思いつつ、森をあとに公園の方まで戻る。そろそろキャンディババアが来る時間だろう。


 でもやっぱり、戻ってみても公園にキャンディババアの姿はなかった。






 しばらくそこに立ち尽くしていると、どこからともなく立野のおっさんが現れた。息を切らしながらおれの方へ駆け寄ってくる。


 「板倉くん、聞いた!?数日前、飯野さんが倒れて意識不明になってて入院してるって。すぐそこの病院にいるみたいだから一緒に行こう」


 おれは驚かなかった。多分心のどこかでわかってはいたからだ。おれは虫カゴをしっかり手に握って、立野のおっさんと併走しながら病院へ向かった。


 おっさんに連れられて病室に入ると、そこにはベッドに横たわり、身体の数カ所を点滴のチューブで繋がれたキャンディババアの姿があった。まるで別人のように見えるのはサングラスをしていないからだろうか。目をしっかり閉じて、眠っているように見える。


 傍らにいる看護師のような若い女性が、神妙そうな顔をして告げる。


 「残念ですが、もう長くはないかと……」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。その言葉の意味を反芻する。わかってはいたつもりだったけど、本当は何もわかっていなかったことに気付かされる。そんなことを考えたいんじゃないのに、この間見たドキュメンタリー番組のことを思い出してしまう。


 なんだよ、勝手におれの短い夏休みに介入してきて、勝手に退場しやがるのか。おれの人生にそんなドラマは要らないんだよ。何やってくれてんだ。目から溢れ出るものが、怒りによるものなのか哀しみによるものなのかもうわからなかった。

 おれは自分でも気付かないうちにキャンディババアの胸元をつかみ、揺さぶっていた。


 「おいババア!起きろよババア!見ろよ、捕まえたぞオオクワガタ!おれの勝ちだ!そうだろ!?報酬のキャンディくれよ!あんなもんハナから信じてねえけどよ……ルール違反は許さねえぞ!勝手に死ぬなよババア!おれは……おれはお前の勝ちなんか絶対に認めねえからな!」


 ちょっ、何やってるんですか!と絶叫した看護師に身体をつかまれ、おれは病室から引きずり出された。


 引きずり出されながら遠目でキャンディババアの顔を見ると、安らかに笑っているような表情をしていた。今にも起き上がって「お前さんの負けさね」と、いつもみたいな悪態をつきそうに思えた。それはおれの願望だったのかもしれない。なんだ、生きてるじゃねえか。ならおれは負けてねえ。そう言いたかったのかもしれない。



 おれは立野のおっさんに付き添われて家まで帰った。虫カゴの中で、オオクワガタが威嚇するように角の部分を蠢かせていた。おれは木や餌などを整えて入れた飼育ケースの中にオオクワガタを移し替えてやった。






 それから、もう二度とあの公園にキャンディババアが姿を現すことはなかった。








 夏休みもあと数日で終わる、というところで久しぶりにあの公園に行ってみると、清掃をしていた立野のおっさんがやって来て、ちょっと座って話そうか、と言って俺をベンチに座らせた。


 そしてその横に腰を下ろすと、おっさんは淡々と話し始めた。


 「飯野さんには話すなって言われてたんだけどねぇ……あの人ぁ、実は辛い過去を抱えてた人でね。板倉くんがいないところで一回飯野さんと話したことがあるんだよ、このベンチで。あの人は未亡人でね。ご主人を早くに亡くしてしまった。子どもも兄弟姉妹もいない、ご両親もすでに他界されてたから完全に一人きりさ。それまではお淑やかな性格だったんだけど、それからはまるでご主人が乗り移ったかのようにあんな乱暴な口調で喋るようになっちゃってね」


 立野のおっさんは深くため息をついて、一呼吸おくとまた話し始めた。


 「ご主人はもともと画家を目指してた人だったんだ。それはもうすごい情熱をかけてね。でもある日、交通事故に遭って腕が使えなくなってしまってね。それから彼の心と体は崩壊し始めた。絶望から酒やタバコ、博打に明け暮れるようになり、しまいにゃ余所に女まで作ったらしい。その不摂生が祟って病気に罹り、それからあっという間に亡くなってしまった。ひどい話だよ。交通事故さえなければ、夫婦共々真っ当な生活を送れてたんだ。飯野さんはそれまでヘビースモーカーだったんだが、ご主人がああなってからはタバコの代わりにキャンディを狂ったように舐めるようになった。身内が交通事故に遭ったっていう不運な運命を払拭して塗り替えようとするが如く、『このキャンディを舐めると幸運が訪れるんだ』って言ってね」


 「それでキャンディを……」


 「そう。それでこの公園によく来るようになって、一人で遊んでる子どもとかに声をかけてキャンディを与えていた。まあ君みたいに一人でここに来る子どもはそんなに多くはいなかったけれどね。きっと自分と同じ孤独な雰囲気を纏った子にシンパシーみたいなものを感じてたんじゃないのかな。板倉くん、飯野さんはとりわけ君のことを気にかけていた。昔の主人を見てるようでほっとけねぇんだと。あの頃のあの人は夢に向かって一生懸命に、ひたむきに生きていて、その面影がどこか君に重なるんだと。飯野さんも、彼女は彼女で辛かったと思うんだ。夢破れて堕落してしまった人を間近で見てるからね。だから彼女も色々な葛藤を抱えていたとは思うけど、やっぱり君という存在を通して、亡きご主人の無念を晴らしたかったのかもしれないね」



 おれはキャンディババアと過ごした時間を思い出していた。おれは「絶対オオクワガタを捕れるんだ」と主張し、ババアは無根拠に「お前さんにゃ無理だね」と言い返してくる、その不毛な応酬。短い時間だったが、やけに色濃く脳裏に焼き付いている。


 「ああ。それからね、飯野さん、倒れたのはあの台風の日だったらしいんだ。この公園の付近で仕事帰りの通行人に見つけられたらしくてね。どうやらあの森に自力で行ってたらしいんだ。あんな悪天候の日にだよ?まあ飯野さんならそういうことしかねないなって気持ちも正直あるけどさ。その時なぜだか右手にヘラを持ってたらしい。ヘラってわかる?あの木の幹に樹液塗る時使うヤツ。通行人の人が見つけたときはまだ辛うじて意識があったみたいなんだけど、その時の飯野さんは『死ぬ前にこれだけはしなくちゃなんねえことなんだ』って言ってたんだって。ゼェゼェ息を切らしながらね。なんで木に樹液塗ることにそんなに必死だったのかはわからないけど。まあ身体だけじゃなくもう相当脳の方もやられてたんだろう。気の毒に」


 立野のおっさんはそこで話を一区切りし、おれの顔の方を見やると、黙ってゆっくりティッシュを差し出した。


 あれはただのラッキーなんかじゃなかった。偶然訪れた幸運なんかじゃなく、キャンディババアが命を賭しておれにくれた、「必然の幸運」だったのだ。


「ああそうそう、あとこれを君に渡してくれって言われてたんだった。僕が見たところただのリンゴ味のキャンディだけどね。君が断ったとしても強引にあげろって言われたんだけど、どうする?」


 「……いただきます」


 キャンディババアはおれがオオクワガタを捕まえられたことを知らずに逝った。でもキャンディババアはきっとおれがオオクワガタを捕まえる未来を知っていた。もしくはその未来を信じていた。だからおれは賭けに勝ったはずだった。このキャンディを得る権利はあるはずだ。だから貰ってもいいだろ?なぁババア。おれは天を仰いでそう問いかけた。






 夏休み明け、虫カゴにオオクワガタを入れて持って行くと教室中が沸いた。







 それから月日は流れ、おれが捕ったオオクワガタは寿命を迎えて死んだ。あれから約1年が経っていた。本当は途中で自然に帰すつもりだったが、どうしても最期まで見届けたいという気持ちに抗えず、飼育ケースの中で十全な環境と餌を用意してやって面倒を見続けた。


 おれは家の裏庭の土をスコップで堀り、墓を作ってやった。


 盛った土の上に小さな銀紙に包まれたオレンジ味のキャンディを供えて合掌する。こいつが天国で暮らせてますように。






 部屋に戻り、机に向かう。時期的に受験勉強をしなければならない。でもおれは数学のキストを脇にどけた。


 引き出しにしまっておいた銀紙の包みを取り出す。中身を開けると、ベタベタになったリンゴ味のキャンディが出てきた。


 おれはそれを舐めて、絵が上手く描けるようになるためにスケッチの勉強を始める。


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