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散歩中に「運命」について考えた


 何の気なしに家から駅前のショッピングセンターまで散歩することがあるのだが、そこでよく犬の散歩をしている人にすれ違う。

 そして何故か、私がすれ違った時に見る犬はちょうどその時に道端で排便をしていることが多い。



 何回か散歩を重ねる内に、だんだんと私はある事実に気が付いた。


 それは、私がその日のうちに1回犬がウンコしてるシーンを目撃してしまったが最後、必ず同じ日にまた別の犬のウンコシーンを2、3回目撃する、ということだ。


 ある1日のうちに、連続で犬の排便場面に遭遇するという経験なら、少なからず皆誰しもあるだろう。


 ただ、私の場合は散歩する時には毎回、日を改めたとて必ず犬がウンコしてる場面に出くわし、さらにその後にもう何匹かの見知らぬ犬のウンコシーンを見届けねばならないのである。


 こうなってくると天を仰いで「ちょっと神に聞きたいんだけどさぁ、なんで俺はこんな1日に何回も犬のウンコを目撃しなければならないん?どういう運命を俺の人生にプログラミングした?」と問いかけたくなってくる。


 やはりというか何というか、私が「人生のうちに遭遇しなければならない犬のウンコシーンの回数」というのがあらかじめ決められているのだろうか。



 とある統計によれば、人間が一生のうちに歩く歩数は約2億7400万歩、打つ心拍数の数は約23億回、トイレに行く回数は約20万回、スシローのテーブルにある蛇口から出るお湯で火傷する回数は約10回、人間であることを証明するためにGoogleから「乗り物の画像をすべて選択してください」と言われ、わずか3mm程度はみ出してる車体の部分の画像も選択したら普通に認証されなかったことにブチギレる回数約3000回らしい(どうやって調査したんだよ)。


 それらと同じように、人間が一生のうちに犬の排便場面に遭遇する回数、というのも大体決まっているということか。


 でも犬を飼っている人間はその回数が必然的に多くなるだろうし、一概には決めつけられないだろう。


 もしかしたら、人間が生涯で犬のウンコシーンを目撃する回数の平衡性を保つために、犬を飼っている人間は逆に飼い犬以外の犬の排便シーンに遭遇する確率が低くなっており、私のように普段あまり犬と関わりがないような人間がその減った遭遇回数の分を請け負わなくてはならない、という可能性もありえる。



 しかしそれにしても私が犬のウンコシーンに遭遇する確率が高すぎるような気がする。


 前述したように私が「人生のうちに遭遇しなければならない犬のウンコシーンの回数」があらかじめ決まっているのだとしたら、普段あんまり外に出ないような生活を送っている分、外出した時にそのしわ寄せが一気にきて、尋常ではありえないぐらいの確率で犬のウンコシーンに出くわさなければならないのかもしれない。



 まあ視界に犬が入らないように歩くとか、色々このウンコの連鎖を断ち切る方法はあるんだけど、よくよく考えたらなんで犬の排便シーンを目撃しないために俺がそこまで気を配らなきゃいけないんだっていう馬鹿馬鹿しい気持ちになってくるので気にしないのが一番の得策だろう。


 受け入れて生きていくしかないのだ、この数奇なウン命を。


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 なんかウンコという文字を連打していたらこっちまでウンコ行きたくなってきたのでここらで書くのを終わりにする。


 コロコロコミックに掲載されているギャグ漫画に比肩し得るほどウンコという文字まみれの記事になってしまったので、またもやnote公式からおすすめ記事として推薦される可能性が遠のいてしまった。
 まあたまにはこういう公式に対するアンチテーゼ的な存在がいてもいいでしょうということでね。アンチテーゼというかウンチテーゼ的な?



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おわり

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